「兄ちゃんはヒドい!」

夢の中のアツヤは鏡の中の自分とは違い、随分と幼い姿をしていた。

淡い桜色の髪に、似て否なる瞳に映す感情。
目の前にいるこの子は紛れも無いアツヤで、しかし今まで僕と会話していた、僕の中にいるアツヤでは絶対になかった。

僕を追い出そうとする居丈高な態度も、攻撃的な表情もこの子はしない。

それはまるであの事件以前のアツヤの姿のようで、自分自身が幼くなったように感じる。

幼いアツヤはあのマフラーを巻いて、色違いで買ったお気に入りのダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、眉を吊り上げて僕を見上げていた。

「オレはあんな酷い事言わない!兄ちゃんに勝ちたいとか思ってないし!何!兄ちゃんはあんな風にオレの事考えてたの!?」

なんの事かと首を傾げれば、僕に散々消えろとか必要ないとか言っていた方のアツヤの言動だと納得した。

幼いアツヤは本気で怒っているようで、だんだん話す体勢が前のめりになってくる。

「あんなのは兄ちゃんが自分自身思ってた事だろ!それなのにアツヤアツヤって!オレはあんなひどい事ひっとことも言ってないのに!」

確かに小さい頃のアツヤはそれが不満であったらそれをそのまま口に出し、大人達の空気を冷やす事はままあったが、人をあんな風に扱う事はなかったと思う。

良い方にも悪い方にも作用するが、基本的に根が素直なのだ。



僕は頷く。
そうか。そうだね。
アツヤはあんな酷い事を僕に言った事はなかった。


あのアツヤは、

――…僕が寂しさに耐え切れずに作ったアツヤは、きっとアツヤ自身じゃなかったんだ。



僕を必要としなかったあのアツヤは、僕自身が投影したもう一人の自分だったんだろう。

だってあの頃の僕は、自分が誰かにとって必要な人間だなんて少しも思っていなかった。
不完全で役立たずな人間だと思ってた。
要らない人間だと思っていた。



でももう大丈夫だから。
今は、そんな事を言ったら怒ってくれる人が、いっぱいいるから。






「アツヤ」

「………なに」

「僕サッカーが大好きだよ。…だからありがとう。あの時言ってくれた言葉は一生忘れない。サッカー、好きでいられた。見守ってくれていたって解ったから」

「ふん、兄ちゃんはわかるのが遅いんだよ」

「そうかもね」


ゆっくりと屈んで、目の前にいる思い出のアツヤを精一杯抱きしめる。
その感触には体温を伴っていて、無性に離れがたかった。

それは多分僕も解っていたのだ。


「オレも約束守る。だから兄ちゃんも頑張るんだぞ」

「うん、皆と頑張る。大丈夫。心配しないで、もう一人でもがいてるんじゃないんだから」

「……わかった」


アツヤが自分から離れる。
笑顔が、懐かしかった。




「じゃあな、兄ちゃん」


さよなら。

今日、僕はアツヤを置いていき、約束をしたアツヤを連れていくよ。







「……僕、泣いてた?」

目を拭われながら問う台詞ではないと思いつつ、吹雪は目の前の男に問い掛けた。

グラウンドに人の姿はもう見えない。日は既に陰り、遠方の葉も空も夜の温度を帯びている。

男はどれだけ吹雪の側にいたのか、塗装の剥げた青いベンチに座り、当たり前のような顔で吹雪の顔にタオルをあてた。

「聞くなよ、現に泣いてんだろうが」

「……そうだね」

「でもまぁ、泣きたかったんだろ。そんな時は泣きゃあいいんだよ」

「うん。凄く…泣きたくて…、いや違くて…あぁダメだな、わかんなくなってきた」

「何がだ」

「なんて言えばいいんだろう。…例えばさ、どんなに経ったって大好きなんだよ、やっぱり。だから一緒に行きたい。離れたくない。わがままだし不可能だし、そんなのはわかってるんだけど、でも」


アツヤはあの時約束してくれた。僕の中からずっと見守ってくれると。

でもそれはあまりにも酷い約束だ。後から解った。あの時は解らなかった。

ただ見守ってくれだなんて、なんて酷い約束。

だってアツヤはもう死んでいて、僕はまだ生きているのに。
アツヤが自分の意思で何かをする事は、もうないのに。


男は黙り込む吹雪の髪を撫でる。


「――…いいんじゃないか?連れてってやったらいいだろ。アツヤはあの性格なんだ。本当に嫌だったらすぐに断んだろ」

「うん…」

「一緒にいてやれ。お前はアツヤの兄ちゃんだろ」

「………うん」



僕はアツヤの兄ちゃんだよ。
ずっとずっと、兄ちゃんなんだ。



吹雪がぽそりと呟くと、男はあぁそうだなと静かに同意して、目をつぶりながら再び夢の中のアツヤを探す吹雪の髪を優しく撫でた。



アツヤは何処に行ったのだろう。
土の中、空の上、胸の内。

小さい頃と同じように、ずっと側にいた親友のような家族の名前を、何度も心の中で呼ぶ。アツヤアツヤ。今何処にいるの。


勿論返事はない。

返事はないが、少しだけ温かくなった胸の内の体温上昇は、気のせいなどではないと思った。










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