円堂の家、そして稲妻総合病院の場所が書いてある地図を、吹雪は無くしてはいけない最後の良心のように、よれる事も構わず強く握りしめた。
地図は木野が書いてくれた。
最初は円堂に頼んだのが、彼は彼の祖父同様独特な感覚をしていたため、マネージャーが見かねてペンを取ってくれた。大通りと信号の数、目印まで書いてある解り易い物だった。
「染岡君によろしくね」
木野は彼女自身が持っている他人の深層を汲むような性格で、吹雪が何をしようとしているのかを理解しているようだった。
後押されるような言葉に吹雪は苦笑う。
そう、この時点ですら吹雪は染岡の見舞いに行く事に対して後込みしていた。
呵責というか何と言うか、申し訳なさが先に立つのだ。
染岡が入院する直接の原因を作ったのは自分だ。
いくら気にするなと本人に言われようとも、入院生活の不便な生活の中で、多少の恨み辛みが現れでないと誰が言えよう。
怖かった。
初めて出会った時、染岡は感情を隠す事なく食ってかかってきた。元来そういう性格なのだろう。
だからきっと「お前のせいで」と言う時は本心で、相手に直接だ。
もう誰にも嫌われたくないと思ってるのに自分が人から好かれるとも思えない。
冷や汗をかいた嘘臭い笑顔の後ろで、ある一つの感情をひた隠す。
急に怖くなった。人が、サッカーが、それに関わる総ての物が。
木野が書いた地図をのろのろと進んでいるとあっという間に日は暮れ始め、夕焼けの色は吹雪が思うよりもずっと深くなっていた。
稲妻総合病院。
橙色の中に浮かぶ年代物の建物が吹雪をじっと見下ろしている。
面会時間は六時までという話だ。既に主だった見舞い客は帰宅し、入院患者も外を歩き回る時間をとうに過ぎている。
吹雪は敷地に入った所で、やわな決心を奮い立てるようにマフラーを握りしめた。
本当はアツヤに頼りたくないのに、こういう時は縋ってしまう。
なんて弱い兄ちゃんだろうね。だから今もアツヤがいるんだろうね。
深呼吸を一つしてから、吹雪は緊張で冷えた足を動かした。
総合受付で病室を聞いた。
その階に行ってみればオーソドックスな四人部屋で、部屋番号の下の名札には確かに染岡竜吾とあった。一つのベッドは空き、他のベッドには見知らぬ名前が書かれている。染岡の声はしなかった。
病室の前で佇んでしまうのが吹雪自身、心根の弱さだと知っていた。
立ち止まる。それだけで何かから逃げられるような気がしていた。
悪い事でもなくよい事でもないこの行為を、省みたいと思う自分はいるのにしっかりと見つめ返せない。心臓の底がぎりぎりと痛む。
「吹雪?」
「……染岡君」
吹雪が振り返ると廊下にパジャマ姿の染岡が立っていた。
久しぶりに見た染岡は驚きは混じっているものの、嫌悪の表情をされると思っていた吹雪の心配を杞憂と一蹴する程度には、いつも通りの表情だった。
右手に院内に入っているコンビニの袋を持っていて、今し方戻ってきたばかりなのだろう。
しかしその袋と逆の腕が頼っているのは松葉杖で、それを見た瞬間吹雪はくしゃりと、辛さを覚えた。
「なんだ見舞いに来てくれたのか?」
「う、うん。今ちょうど雷門に皆戻ってきてて……だから」
「そうか。じゃあ中に入れよ。菓子とジュースぐらいはあっからよ」
「うん……あの、でももし大丈夫だったら、人があんまりいないような所がいいんだ。……ちょっと、相談したい事が、あって」
「相談?…わかった。じゃ、ちょっとそこで待ってろ。飲み物置いてくっからよ」
「……うん」
足を引きずり歩く、ぎこちない染岡の後ろ姿が悲しい。
でもこの現状を作ったのは誰だ。自分じゃないか。辛く思う事自体が間違っている。
「ごめんね…」
「気にすんなって」
染岡はわざわざ場所を移動させた事に対しての詫びだと思ったのか、荷物を提げながらひらひらと手を振った。
染岡が病室に完全に入った所で吹雪は泣きそうになる。
吹雪は自分が今着ている雷門ジャージが重々しく、そしてそれを未練がましく着続けている自分が滑稽に思えた。
「強く……なりたかったんだ」
染岡が選んだ場所は屋上だった。
普通の見舞い客はデイルームに集まるから、ここなら誰もいないだろうという配慮だ。
染岡をベンチに座らせて、吹雪はフェンスに寄っかかる。染岡の隣に座るのは気持ち的にはばかられた。
「強くなれば完璧になれる。でも、完璧になろうと思えば思うほど、僕の頭の中でアツヤが笑う声が聞こえる。僕じゃ無理だって。完璧なんか……無理だって」
「完璧?」
染岡が訝しそうに眉を上げた。
しかし吹雪はそれすらも非難に聞こえて、追われるように言葉をまくし立てる。
「でも、そのアツヤも完璧じゃなかった。これじゃ皆の役に立てないよ」
「んな事ねぇよ!」
染岡の否定が嬉しい。でも本音と建て前を見破る術を吹雪は持たない。
その言葉はどっちなんだろう。
染岡を信じる事も、しかし完全に疑う事も出来ず、吹雪は力無く叫んだ。
「僕だってサッカーやりたい。でも……出来ないんだ」
あんなに大好きで、自分の生活の中心だったサッカーに触れる事すら出来なくなるなんて想像もしなかった。
ひたすらに怖かった。
他人の声が怖い。人の目が怖い。向けられる感情が怖い。いらない、と言われるのが怖い。
怖いから、サッカーをしない。
なんて弱々しい逃げの理由だろう。
「―――っ」
しかし吹雪はしまったと思った。
今言った言葉は取り繕う事のない本心だ。でも、染岡にとってはどう聞こえただろう。
染岡は自分とは違い、本当の意味でやりたくても出来ないというのに。
吹雪は染岡の方をしっかりと見返す事も出来ず、少しでも笑いに昇華しようと、出来るだけ明るい声で話題転換をした。
「豪炎寺君……帰ってきたよ」
「あぁ、円堂から連絡があった」
弱々しい吹雪の笑みに引っ掛かる物を感じながらも、染岡の脳裏にはあの時円堂から言われた言葉が過ぎった。
最強のメンバー。最強のイレブン。豪炎寺が戻るまで染岡が守ろうとしていた場所。
しかし自分はもうそこにはいない。
でも染岡は託したのだ。
夢も力もポジションも、自分が持っていたかった物を、叶えたかった未来を、自分が信頼した人間に。
染岡は吹雪に聞こえないように呟く。
「あの時はあんな事言っちまったけどよ……お前には…俺の分まで…」
耳に届かないと知っていたとしても、頑張って欲しい、なんて言えなかった。
吹雪は精神という逃げ場のない場所で苦しんでいる。
外傷的問題なら治療を受けリハビリをして投薬を受けて、と診療計画も出口も解りやすく先が見える。
しかし心療内科の分野はどうだろう。人の心は繊細だ。そしてその治療方法の繊細さは更に上を行く。
――円堂だったらなんて言うんだろうな。
染岡は一瞬そう考えてから、今この場にいるのは自分だけである事を自覚し、とにかく自分が今一番伝えたい言葉を叫んだ。
「お前はもう立派な雷門イレブンだ。俺達の仲間だ」
だから役に立つとか立たねぇとか関係ねぇんだよ、そう続けようとして、やめた。
吹雪がきょとんと目を丸くしていたからだ。
染岡はそんな様子を見て、俺はそんなに突拍子もない事を言ったのかと急に気恥ずかしくなって、目線を外しながら頭をかいた。
「あ、えっと…つまり、だな。エターナルブリザードもアイスグランドも、すげー技だって事に変わりねぇんだ!だから…あ…あぁーっ駄目だ駄目だ!こういうの円堂が得意なんだよなぁ」
真っ赤になって斜め上を見遣る染岡を吹雪は透明な目で見返し、言われた言葉を心の内で反芻していた。
今、なんて言ったのだろう。
エターナルブリザードも、アイスグランドも?
FWとしての自分だけでなくDWとしての自分も認めてくれている?
自分はストライカーとして必要とされたのに、シロウも必要だと言ってくれた?
染岡は何かを振り切ったのか、びしっと吹雪を指差して言い切った。
「ぶっちゃけ俺が言いたいのは、お前とまたワイバーンブリザードを打ちたいって事なんだよ…ってっ!」
「染岡君!」
瞬間、筋を捻ったのか傷に触れたのか、染岡が両膝に手を当ててベンチに座り込んだ。
吹雪はたまらず駆け寄って覗き込むように膝をつき、染岡の肩に白い手を添える。
「大丈夫?」
染岡は大丈夫だと行動で表現するように吹雪の手首を握りながら、脂汗をかいた顔で励ますように笑った。
「あぁ、なんて事ねぇよ。お前が苦しんでるのに比べたらな」
吹雪は目を見開いて気づいた。
染岡は自分が肉体的な痛みと戦っているというのに、言葉をくれる。
自分が戦えず、フィールドの外に立つしかない現実はどんなに悔しいだろう。
でも笑う事が出来る。
励ます事が出来る。
託される、という事はこう言う事だ。総てを受け入れなければならない事。自分はどの程度理解していたのだろう。
やらなければならない。
この人の夢を潰えないためにも、自分は再びピッチに立たねばならないのだ。
「ありがとう、染岡君」
染岡は吹雪の腕を一際強く握り返してから、精一杯の願いを込めて言った。
「また一緒に風になろうぜ」
風が吹いて周囲をなぶる。
出来たらいい。また二人でサッカーが出来たら。
今はまだ二人ともサッカーは出来ないし、どうすればボールを蹴られるかもまだ解らないが、出来た目標は真新しく、そして今までも願ってきた事だ。
吹雪は自然に微笑む。
それを見て、染岡は少しだけ安心して笑い返した。
自分も早く治さなければと思いながら。