「すてぃぐま?」

「うん、スティグマ。聖痕とも言うのかな」



二つのアルバイトで一人暮らしの生活資金を賄っている染岡にとって、吹雪が身につけているメンズブランドの服は金銭的にも容姿と釣り合うかという点でも容易に手が出せない、雑誌の表紙を飾る服だった。

吹雪は諭吉数人を叩かないと買えないそれを無造作にベッドサイドに脱ぎ捨てて、真昼間の空間に白い裸体を曝しながら、これからの行いを請うように染岡の肩に頬を寄せた。

細くて小さくて甘いその肢体を染岡の脳みそはいつも異性と誤認しかける。

それはこの関係がまともでない事も起因していて、吹雪が女だったらという無意味な願いを、脳みそだけが叶えようとしているのかもしれなかった。


どうせ今着てた服も女から貢がれた物なんだろう。

猫のように擦り寄って来る吹雪の髪を撫でながら、染岡は苦虫を噛み潰したような顔になった。

嫉妬心とは多分違う。不愉快ではあるが、気掛かりといった面が強い気がした。


吹雪のマンションで倒錯的な行為を始める前から、吹雪の回りには複数の女の匂いがした。

洋服だって香水だって鞄の中身だって携帯の履歴だって、下手したら財布の中身すら女からの物。


吹雪は大学内で有名な、女の為に生き、そして女によって生かされている男だった。



染岡は吹雪がスティグマと称した、ミミズ腫れのような赤黒い模様に指を這わせた。

白い肌の上に広がるそれは見ただけで痛々しくなる程悲惨な光景だだ。
カサブタのように固くはなく、皮膚に若干の盛り上がりがあるだけのように思えるが、なんせ色が毒々しい。痛くはないらしいが、見てるこっちの気分が悪くなる。

しかもそれは文字なのか絵なのかは解らないが、確かに何かの形になっていた。
口には出さないが、若干引いてしまうぐらいには不気味だった。


「これ前からなのか?つーかこんなのがお前の体にあんの見た事ねぇぞ」

「隠してたもん。染岡君に…見られたくないし」

「隠す、って…どうやって。やる時は素っ裸になるくせによ」

「……なんっでそういう事言うかなぁ。染岡君って本当デリカシーないよね」

「……悪ぃ」


謝った所でデリカシーに欠けているのは自覚がある真実だし、どうやって隠していたかなんて染岡には想像出来ない。

行為をする時だって、熱には浮かされているが吹雪の肌には幾度だって触れるし、何処だって目に入る。見た事がない場所なんてないと豪語出来る程だ。

それとももしや触れる場所すら吹雪の思うままになっているのかと思い至って、もしそうだったら自分の男としての自尊心は木っ端微塵に吹っ飛ぶなと、染岡は思った。


「これ二、三日経てば消えるんだ。そういう物みたい。前にこれ見た知らないおじさんがそんな事言ってた気がする」

「――知らないおじさん…?」


我知らぬ間に語尾に怒りが混じったようだ。吹雪がしまったという顔をした。


そもそもの話、染岡と吹雪の出会いが出会いなのだ。

性的行動に頓着しないこの男が発展場で見知らぬ男に可愛い顔を向けていたとしても、染岡は怒りこそすれ驚きはしないだろう。

吹雪は染岡の怒りを目を泳がせて外しながら、違うよ、と否定した。


「ごめん言い方間違えた。昔、ウチの母親がこれを相談に行った教会の牧師さんがそう言ってたんだ。今までもあったから直ぐに消える事は知ってるし、だから出てる間は染岡君としないようにしてた、って話。それだけ」

「…っつーか牧師?」

「うん。そういう部類の話みたい。スティグマはね、急に現れて跡形もなく消える、不可思議な物なんだって。徳がある人だと予言したりもするらしいよ」

「ふーん…予言なぁ。で、吹雪のこれは予言したりすんのか?」


腹部をさらりと撫でると吹雪は少しだけ身震いした。


「……もし予言していたとしても、こんな図形みたいなの僕に解る訳ないでしょ」

「そりゃそうだな」


拗ねたような口調も一つのきっかけだ。
上目遣いをされて、吹雪の手が染岡の服に忍び込んで背骨をなぞる。脱げと言っているのだ。
なだれ込む為のスターティング。吹雪が請うならそれでいい。


「…………すきもの」


吹雪が言って、染岡は薄っぺらい胸元に舌を寄せてどっちがだ、と乳首を舐めた。



あぁ、そうだ。
俺は吹雪が好きだった。








「僕、染岡君の事嫌いなんだ。気持ち悪いからもう二度とマンションに近付かないでね」


へらりと笑いながら別れを突き付けた吹雪に、悲しみよりも怒りが前面に出て、勢い余って殴り飛ばすぐらいには、あいつの事が好きだったんだ。










「………はぁ?」

その突然の別れから二十三日後。
深夜に染岡がアルバイトから帰宅すると、部屋の前に吹雪の幼なじみだと言う男が立っていた。

薄汚れた街灯が時々接触不良で闇を落とす。
一瞬の暗闇の中でそいつは円堂と名乗って、アパートの場所は以前に吹雪から聞いていたと、怪しんでいる様子を隠さない染岡に無断の訪問を表面上では謝った。


「話がある…って、今更警察とか言われたって行かねぇぞオレは」


久しぶりに聞いた吹雪という言葉に、染岡は少なからず動揺していた。

あの日から大学構内ではもちろん、被っているであろう生活範囲内でも吹雪を見ていない。
染岡に避けているつもりは全くないのだから、ただ偶然に会う機会がなかったか、それか吹雪の方が避けているかのどちらかだ。

あの時染岡は思い切り殴った。
人より腕力が強い人間の理性がない力は暴力でしかなく、歯は折れはしなかったものの口内は出血沙汰で、当分の間固形物は食べられなかったに違いない。

自分に愛想が尽きただけでなく怯えたのかもしれないと考えて、自分の考えに染岡は舌打ちした。
悪いのはどっちだ。


円堂は染岡の不機嫌さを気にしつつも何かを自己解釈したのか、本題とばかりに真剣な目で染岡を見た。


「多分、お前は知らないと思ったから言いに来たんだ。――……吹雪、死んだよ」

「……は?」


染岡は本当の意味で、言葉という存在を理解する事が出来なかった。


「三日前の話なんだ。もう通夜も葬式も終わってる。マンションの方はまだゴタゴタしてるみたいだけど、でも」

「……ちょっと待て。何だてめぇ、いきなりどういう冗談だよ」


円堂は可哀相な物でも見たかのように一瞬視線を逸らして、でもすぐに思い直したのか真っ直ぐに染岡の怒りを見返した。


「吹雪は自分のマンションでストーカーに刺し殺された。ニュースにもなった。信じられないなら、古新聞を調べたらすぐに解る」

「――――いや、違ぇよ…そうじゃねぇ、オレが言いたいのはっ」

「オレはこの話を嘘だなんて絶対に言わないよ」


円堂はくしゃりと顔を歪めた。


「……事実なんだから」


もし、自分を他人の目で見る事が出来たなら、言葉も表情も何もかもが固まってしまった滑稽な自分を、染岡は大層馬鹿にしただろう。

しかし自分は自分でしかなく、事実は事実でしかない。
今日は四月一日でもないし、目の前の男は詐欺師ではない。

ただの、真実を喋る男だ。


「………いつ」

「え?」

「吹雪が……死んだ、のは。いつなんだ」

「…○月○日の午後七時頃。マンションのエントランスホールで待ち伏せていたんだ。犯人は××の×で、吹雪を数ヶ月前から逆恨みしていたらしい」

「……」


――○月○日

あぁ、そうか。
染岡の中に浮かんだ感情は、悲しみでもなく怒りでもなく、静かに落ちてきた納得だった。

まだ吹雪の死を実感していないだけかもしれないが、非情な話にも程がある。染岡は笑った。何故か情けない笑いが込み上げてきた。


「円堂…とか言ったな。お前は吹雪からスティグマの話は聞いた事あるか」

「――……あぁ、あるよ」

「そうか。…意味も?」

「…知ってる」


スティグマ。
あの意味不明な図形。
予言をする、と吹雪が言った物。



あの時の吹雪は図形なんて読めないと言ったが、もしかしたら吹雪は自分の聖痕が読めていたのかもしれないな、と染岡は思った。



○月○日は染岡の誕生日だった。

もし別れていなかったら絶対にマンションを訪れていただろうし、七時という時間帯だったらそのストーカーと鉢合わせしていたかもしれない。相手はストーカーだ。染岡の事もよくよく知っていただろう。


突然の別れに理由が欲しいだけの、自己満足な推測かもしれない。
でも染岡はそれでいいと思った。自分がそう思えばそれでいいんだと納得して、無言の円堂を見つめた。


「吹雪は、自分が殺されるって事を知っていたと思うか?」


聞くと、円堂は首を振った。


「知らないよ。…吹雪がそれを知っていたかどうかなんて、オレは知らない」

「……そうか」


染岡は星すらない、淀んだ空を見上げた。

感情を伝えるすべはない。思いも伝えられない。ただあるのは記憶だけ。しかも染岡は曖昧にぼかしてしまう低性能の脳みそしかない。

吹雪は自分の命で何を守ったんだ。
それの答えすらない。



「――…俺は吹雪が嫌いだったよ」

一世一代の大嘘に、信じているのか疑っているのか円堂は小さく「あぁ」とだけ応えた。それだけだった。



円堂が去っていく。

染岡も自分のアパートに入ろうとして、その時自分の足が立ちすくんだまま動こうととしない事に気付いた。

もしかしたら、体がこの事実をやっと受け入れ始めたのかもしれない。

遅れてやって来た驚愕による動揺は冬の寒さによく似ていて、その寒さを融いてくれる温かさは既に亡いのだと気付き、染岡は少しだけ泣いた。



あの時殴らずに愛しているから別れたくないと、嘘偽りなく全力で吹雪を抱きしめたら何かが変わっただろうかと考えても、吹雪が死んだ今となってはあまりにも、あまりにも意味のない愛だった。










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