「コンソメスープの中には、優しさが詰まっていると思わない?」

「はぁ?」




飴色の世界




ちぇるしーさんの部屋にお呼ばれすることになった。
俺は夏休みを目前にテスト期間真っ最中で、夕方4時ごろにテストを2科目だけ終えて帰ってくると(なんと今日のテストは1科目めは9時から、2科目めは14時半からと言うタイムシフトだったのだ。面倒くさい。)、本日お休みだったらしいちぇるしーさんと1階の玄関で出くわしたのだ。


ちぇるさんはちょうど夕飯の買い出しから帰ったところだったようで、このくそ熱いのにいつもの紫の長袖カッターシャツを着ていた。でもネクタイはしてない。
あ、と俺が声を出すと、ちぇるさんは一瞬俺を見て目を見開き、次の瞬間笑って手をヒラヒラと振った。


「おお、ののくん、どうしたの。」

「ちぇるさんこそ・・・俺はテスト終わって帰ってきたんすよ、明日もテストだし。」

「あぁそうなんだ、お疲れだね。俺は今日仕事休み〜。夕飯の買い出ししてたんだよ。」

「ふーん。っていうかその服あっつくないすか、見てるだけで暑い!」

「あーこれね。まぁ暑いけど、実は昨日疲れて帰ってそのまま寝ちゃってさあ。で、面倒くさいからそのままシャワー浴びずに買い出しいってた。」

「げー。だらしね。じゃあ昼まで寝てたんっすか?」

「うんまぁね〜。これからご飯作って、シャワーだよ。一緒に浴びる?」

「お断りします!あっでもメシだけなら食いに行きます!」

「シャワーもご一緒でいいんだよ・・・メシ食いに来るか、じゃあ二時間後においでよ」


そういってちぇるしーさんはさっさと自分の部屋へ上がって行ってしまった。
メシ食いに行きますっていうのも半分は冗談だったんだけど、まぁ、どうせ今日は俺も一人だし、断る暇もなく逃げられたので、ご馳走になりに行くことにしたのだった。


それで、今。


ちぇるさんは風呂上がりでわりと適当な恰好をしてて、グレーのTシャツにゆるいベージュのクロップドパンツを履いていた。俺はと言うといつもの黒のポロシャツに、ジャージの下だ。風呂上がりだったせいか、ちぇるさんのTシャツの背中が汗でひっついていたので、掌でバシバシと押し付けて恥ずかしい感じにしてやった。グレーのシャツは汗が分かりやすい。


「そういうイタズラはやめろよ〜!」

「えーなんのことですか?」


俺はとぼけて、ちぇるさんの手元を覗き込んだ。中鍋に、玉ねぎがいっぱい入ったコンソメスープ。モヤシと細切りにした人参と、すりおろした生姜も入れてあって、ブイヨンのいい匂いがする。

でも、クーラーの効いた部屋だけど、なんで夏にスープなんか。おなじ熱いものなら、夏はカレーとかじゃないだろうか。スープの湯気でメガネが曇りそうになって、俺は鍋の上から顔を引っ込めた。


「コンソメスープ嫌い?」

「や、嫌いじゃないけど暑くないっすか?」

「夏だからって冷たいものばっかり食べてたら体壊すよ〜。素麺やアイスばっか食べてない?」

「うーん、まぁ確かに…」

「だからね、たまには温かいもの食べた方が良いんだよ、っつって俺がスープが好きなだけだけどね、簡単だし。今日は入れてないけどトマトスープとか大好き。」

「へぇ。」

「ののくん、生姜焼き買ってあるから隣のコンロで焼いてよ。」

「あいあーい」


そう言われて冷蔵庫を開けて生姜焼き用に味付け済みの豚肉を出す。普通、人んちに来て冷蔵庫勝手に開けるなんて失礼だけど、もうここには結構何度もお邪魔しているし、ちぇるさんはあまり細かくそういう事を気にするタイプではないようなので俺も抵抗なく手伝いができる。足元にある棚からフライパンと菜箸を引っ張り出して、ざざっと洗って火にかけた。

パック詰めされた肉のラップをはがしながら、さっき言われたことを思い出す。
『優しさが詰まってる』?


「・・・ちぇるさん、コンソメスープ、優しいっすか?」

「うん、優しいね。優しい色してるだろ?」


ちぇるさんが笑いながら言う。

もうスープはほとんど出来ていて、とろ火にされて鍋には蓋がしてあった。
ちぇるさんは冷凍庫からラップにくるまれたご飯を2つだして、凍ったままのそれを茶碗にセットして電子レンジに入れた。


「俺はコンソメスープの中で死にたいね。それか、シチュー」

「なんっすかそれ」


フライパンに油を少しだけひいて、パックから取り出した肉をそのままフライパンにひっくり返した。まだ熱し具合が足りなかったのか、肉は鈍くジジジという音を立てた。菜箸で肉をほぐして、もともと肉に絡んでいた生姜焼きのタレを全体に行き渡させる。
なるほどこういうのを買うと自炊が楽なんだな、とちょっとだけ感心する。


「その中で死ねたら幸せだと思わない?」

「やーわかんないっす。っつーか死にたくないっす」

「確かに」


ご飯を電子レンジの解凍にかけたちぇるさんは俺の隣に来て、ちょっとだけフライパンを覗いてから、スープの蓋を開けた。お玉を出して、飴色になったスープをかき混ぜながら、うん、美味しそう、とつぶやいた。


「ちぇるさんって結構変なこと言いますよね」

「そうかな。でもこのコンソメワールドはきっと優しさに満ちているに違いないと思うんだね、俺は。」

「コンソメワールドって!ますます意味わかんねっすよ。でもちぇるさん的にはそこが素敵な世界なんですね。」

「そう。」

「シチューも?」

「シチューの世界はちょっとコンソメワールドとは違うけど、あそこも割と居心地がいいんじゃないかな。白くて、まったりしてるからね。だからコンソメの幸せで優しい世界に行きたいときと、シチューの白くてまったりした空間に行きたいときと、その時の気分があるわけだ。」

「うーん、わかるようなわからんような。」

「まぁ、冗談。今度俺のシチュー顔にかけてあげよっか?」

「うえぇ?!なんっすかそのヘビーなセクハラ?!最悪!もう帰っていいですか?」


俺がそう言うとちぇるさんは流石にそれこそ冗談だけどさ〜と笑ってスープの味見をした。
ご飯を作っているときにそんな濃密な冗談はやめてほしい。俺の方の生姜焼きもしゃべっている間に焼き上がったので、ちぇるさんがそれを見てお皿を出してくれた。電子レンジが鳴って、ご飯も解凍されたようで、ほとんど食事の用意が出来上がった。

コンソメワールドで死にたいちぇるさんの気持ちは分からなかったけど、俺はちぇるさんがそういうワールドを持っているのが嫌いじゃないなと思った。まあ、何度も言うようだがセクハラは切実にやめてほしいけど。


「じゃ、食べようか」

「うぃっす!いただきまーす!」


料理が出来上がって、七時過ぎ。夕食にはいい頃合いだ。二人分の料理を並べて、毎日沸かしているらしい麦茶を注いでくれた。
ちぇるさんの部屋には大きいコタツ机が置いてあって、それを挟んでソファとテレビが向かい合うように設置されている。普段絶対ここでダラダラしてるんだろうなって感じ。
俺の部屋に置いてあるのはイスとテーブルだから、なんだか同じ間取りなのにずいぶん違う部屋のように感じる。ソファに座るとお尻が沈んで食べづらいので、俺はソファにもたれるようにして白いカーペットの敷いてある床にそのまま座って胡坐をかいた。ちぇるさんは慣れてるのか、ソファに座ったまま食べるようだ。


「お酒は?いる?」

「んー飲みたいですけど明日テストなんで…帰ったらまた勉強っす。」

「そっかー学生も大変だね、単位落とすなよ〜」

「ギリギリの単位で卒業したちぇるさんに言われたくないっすね」

「え、なんで知ってんの?」

「いや、前言ってましたから・・・」

「おお」


ちぇるさんはよく自分で言ったことを忘れる。人が言ったどうでもいいことはよく覚えていたりするのに、変な人だ。
俺はスープ皿を手に取って、スプーンですくってコンソメ味のそれを啜った。美味しい、けどちょっと味付けが濃い。お酒が欲しくなる。
メガネが曇るので、外して机に置いたら、ちぇるさんが俺の顔を覗き込んだ。


「・・・なんすか」

「うまい?」

「うまいっす、でも酒飲みの料理っていうか味付けが濃い。」

「いやー、でも俺お酒好きだけどそんなに強くないよ。もともと濃口なんだよ、ばあちゃんの味。」

「へぇ。」

「俺、ののくんの目の色好きだな。」

「へ?」

「きれいな目してるね、緑色。メガネ外した方が可愛い。」

「はぁ・・・」


無自覚なんだろうか、それって口説いてますよね?
彼女、いますよね?っていうか、そういうこと、もしかして誰にでも言ってます?
俺は何となくイラッときて、ちぇるさんから目をそらしてご飯を食べた。


「ちぇるさん、そういう事あんま言うの、よくないっすよ」

「なんで?」

「なんか・・・だって、勘違いされません?」

「勘違いしたの?」

「違う!」


ぎっとちぇるさんを睨むと、彼はけらけら笑ってテレビをつけた。
ふと生姜焼きの皿を見ると、なんかもう半分以上ない。


「あっ俺の分の肉まで!」

「早いもん勝ちだよ」

「もうほんとこの似非ホストくたばってくれ」

「ふふん。あ、彼女の好きな番組。」


テレビを見ると、大御所のお笑い芸人がMCをするトーク番組。いろんな評論家が出て、いろんなことについての学説を唱えている。たしかに面白いけど、結構俗っぽい。


「・・・彼女さんと長いんですか?」

「うん、もうねー、5年くらいかな。ののくんの年齢にはもう付き合ってたよ。」

「なにそれ嫌味?そっかでもそう思うとちぇるさん、オッサンだと思ってたけど俺と2、3歳しか変わんないのかあ。」

「なにそれ嫌味?」

「へへ。結婚は?するんすか?」

「どうだろ、出来ればしたいね。」

「同棲とか?」

「んー、それもね、考えてるよ。」

「・・・ねえ、また今度、テスト終わったら鷹猿とかとみんなで飲みましょうよ」


テレビを見ながらさりげなく言ったつもりだったけど、どう聞こえただろうか。
ちぇるさんが箸をおいて、手をにゅっと伸ばして俺の頭をがしがし撫でた。


「ちょ、なんなんすかあ」

「いい子だね、ののくんは。」

「子ども扱いしないでください!」

「そうだね、もう酒も飲めるし、大人だもんな。」


ちぇるさんがまた俺の目を覗き込む。

眠たそうでどこか色っぽい気もする、黄色い飴色の目。コンソメの色かもしれない。優しい世界がこの中にあるのかもしれない。でも、俺はその世界には住めない。

なんだか悲しくなって、俺はさっさと飯を平らげて自分の部屋に帰ろうと思った。



「じゃあ、ごちそうさまでした。」


俺はホントにさっさと飯を平らげて、そういえばテスト勉、全然やってないのあったんですよ、やばい、とかなんとか言って、だらだら居座ってしまわないように席を立った。
親の都合でこのマンションの大家代理を仰せつかっている俺だけど、一人暮らしはなんだかんだ寂しいので、誰かのところへ遊びに行ったり、自分のところへ来てくれたりすると、つい際限なくダラついてしまう。でもちぇるさんはそれなら去る者追わず、といった感じで、冷蔵庫からダイエットコカコーラを出して俺に渡してくれた。


「じゃ、テスト勉頑張ってね。俺も明日は仕事だわ。」

「はあい、ご飯ごちっす。コーラも、ありがとうございました。」

「いいよ、またみんなで飲もう。」

「はい。じゃ、おやすみなさい・・・」

「おやすみ。」


ちぇるさんがバイバイ、と手を振って扉を閉めた後、俺はダッシュで1階の自分の部屋まで戻った。ジャージのポケットからカギを出して扉開けると、ちぇるさんの部屋に行く前につけていた冷房のおかげかまだ少しだけ涼しかった。


「ふぅ・・・」


電気をつけて、靴を脱いで、コーラを冷蔵庫に入れて、ああ、どうしよ。よく考えたら本当にご飯食べさせてもらっただけで、3時間もいなかったんだった。デジタルの腕時計は20:47を表示していて、勉強するにも風呂に入るにも、まだ十分に時間はあった。一瞬、明るい声が聞きたくなって亮くんに電話しようかと迷ったけど、この半端な時間では迷惑だろう。向こうは高校生だし。

満腹のせいか、なんだかぼうっとする。ちぇるさんの言ってたことを思い出す。
コンソメワールドと、シチューの中で死にたいちぇるしーさん。そういうことを、彼女にもよく言っているのだろうか。誰にでも言うのか、それとも、俺にしか言わないの。

たぶん、どちらでもない。ある程度人を選んでいうのだ。だってそういうタイプの人だ。彼の世界を分け与えてもいい人を選んで、世界を見せるのだ。羨ましかった。そういう世界を持っているちぇるしーさん。そしてそういう世界を受け入れている、ちぇるさんの彼女も。

俺にだって俺の世界はある。だけど、もっと一般的だ。おそらく。
人に見せても否定されることはないだろう、ある程度、当たり障りのない世界。
ねえ、それじゃあダメですか。


「それじゃダメ、ですか」


虚しくなった。
俺はおとなしくシャワーを浴びて頭をすっきりさせて、貰ったコーラを飲みながらテスト勉強をすることにした。だって明日もテストだから。
服を脱いで、風呂場に入った。一応、うちのマンションはバスとトイレは別の作りになっている。シンクは風呂と一緒。お湯と水の蛇口をひねって、ちょうどいい温度に調整して、少しぬるめのシャワーを浴びた。


シャンプーで頭を洗いながら、ああ、そうだ、明日はシチューを作って誰かと食べよう。そう思った。それでその誰かに、「この暑いのになんでシチュー?」って、言われるんだ。「せめてカレーじゃないの?」って。そしたら俺は、今日はシチューの気分だし、夏だからってアイスや素麺ばっかり食ってたら体に悪いぜって返せばいい。


そう考えて、俺は少しだけ笑った。




END.



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