一杯のコーヒーにまつわる話。





我らがメシアこと松下一郎は、たったの八歳だというのに毎朝のようにコーヒーを飲む。
いや、精神年齢やこの世以外の場所で過ごしたのであろう時間のことを考えたら、実際のところ幾つなのか見当もつかないが、とにかく肉体としては八歳である。
そして、その彼のたしなむコーヒーを作るのは俺か、蛙男さんかのどちらかだ。

最近では慣れたものだが、当初、自分でコーヒーを淹れるという習慣がなかった俺には、それはなかなか難しい作業だった。しかしこれでも以前よりずいぶんと評価が上がったもので、最初のうちなどは今使っている豆さえ使わせてもらえなかった。

メシアはなかなかのコーヒー通のようで、今日使った豆はエチオピアかどこかから取り寄せた良い値の豆である。初めて俺がコーヒーを蛙さんに変わってメシアに淹れた日、そのコーヒーを一口すすると眉をひそめて、「お前はもうこの豆は使うな」と言われてしまった。

正直、俺には何が悪いのか全く分からなかったし、初めて淹れたコーヒーをけなされてずいぶんプライドが傷ついた。しかしメシアは俺のプライドなどどうでもよかったようで、俺が淹れるときは、近くの喫茶店で買った安い豆を使うように指示してきた。
子どもに与えるための朝の一杯のコーヒーの為に、どうしてそこまで、と思ったが、

「メシアが直々におっしゃってくる、唯一のことだぞ。千年王国の件以外のな。」

などと蛙さんに言われると、もう俺は刃向かうことなど出来ないのだった。


まぁそういうわけで俺は懸命にうまいコーヒーを淹れるために色々なことをした。
しかしそれも失敗続きで、コーヒーだけでは胃に悪いからとカフェオレにしたときは「甘い、お前が飲め」と突き返され、ならせめてアメリカンに、と薄めてみれば不味いと言われた。それならば、と体に良さそうなたんぽぽコーヒーなるものを買ってきたり、わざわざ有機栽培の豆を自分で購入し、ミルで挽いて淹れてみたりもしたけど駄目だ。「凝り過ぎで気持ちが悪い」と罵られた。気持ち悪いは、正直ちょっと泣けた。

しかし俺は試行錯誤の末、どうにかこうにかそれなりに美味しくできるコーヒーの淹れ方を覚えた。今からメシアの朝の一杯の為に作るついでに、諸君らに説明しよう。

まず、琥珀色の紙でできたコーヒーフィルターの端を、丁寧に折り曲げる。それを上品な陶器のドリッパーへ取り付け、形を整える。ドリッパーとは三角にすぼんだ底に、穴が開いているマグカップみたいなものだ。次に、すでに粉にされたコーヒー豆を、計量スプーンにすりきり一杯測る。それを先ほどのペーパーをセットしたドリッパーへ入れたら、コンコンと少し叩いて豆の粉末を平らにならす。準備が整ったら、丸いフラスコのようなガラス製のコーヒーサーバーにセットしておく。

ちなみにこのサーバーは、もともとはドリッパーとセットの陶器製のものだったのだが、まだコーヒーを淹れることに慣れていなかった頃の俺があやまって割ってしまい、代わりにホームセンターで安い耐熱ガラスのものを買ってきたものだ。おそらくかなり高級な品物だったのだろう、あの時はメシアにも睨まれたし蛙男さんにもため息をつかれたが、まぁ今はその件については置いておく。

次に。コーヒーカップに少し湯を入れて温める。カップが冷たいとせっかく淹れたコーヒーが冷めやすくなってしまうからである。
カップが温まったら、湯を捨て、今度はポットに一人分のお湯を入れる。
ポットの先から均一な細さで湯が出るように気を付けながら、豆の真ん中へめがけてお湯を注ぐ。少し蒸らして、豆がふんわりと膨らんだら、また同じように均一な細さの湯を注いでいく。サーバーに表記された1杯分の目盛りまでコーヒーがたまったら、ドリッパーに残ったあとのモワモワした泡と液体はアクなので、さっと取り外してキッチンシンクに置いてしまう。そしてサーバーに抽出されたコーヒーを先ほど温めたカップに注いだら完成だ。

「よし」

さあ、出来た。それでは昨日から寝ているのか寝ていないのだかわからないメシアのもとへと持っていきましょう。俺はなみなみと注がれた琥珀の液体をこぼさないよう、カップをそろいのソーサーへそっと乗せ、さらにそれを小さめの四角い盆にのせてキッチンから出て書斎へと急ぐ。引き戸を開けると、メシアが机の前にぽつりと座って魔術書を読んでいる。おれはその背中に、いかにも上品めいた口調で声をかける。

「おはようございます、メシア」
「あぁ。」
「研究は進みましたか」
「そうだな。」

はっきり言うとこの時点でメシアは俺の声なんてほとんど聞いていないも同然だ。しかし俺も変に水を差してメシアの邪魔をするのもどうかと思うので、それでいいと思っている。ただおせっかいを言えば、もうすこしきちんとした生活習慣であってほしいと…まぁ、いまさら乾布摩擦なんて言うようなことはしないけれど。俺の世話焼きな性格は、いつだってこの小さなメシアの眉間に深いしわを作らせてしまうことはもう十分に分かっているつもりだ。

「コーヒー出来ましたので、どうぞ」

そう言うとメシアは少し魔術書から目を離して、俺の方を向く。メシアが初めて俺の声をきちんと聞き入れる瞬間がここだ。俺はメシアの隣まで寄って、小さくキチキチとカップとソーサーのこすれる音をたたせながら、物々しい机の上に乗せた本と対峙して座っている彼の右横に、そっとコーヒーを置く。立ち上るゆらゆらとか細い湯気は、とろけそうなクモの糸みたいに見える。

メシアはごく自然なしぐさで、そのコーヒーを手に取って一口すすった。

「うん、まぁまぁだね。」
「まぁまぁですか。」

そのいつもと変わらない評価に俺は苦笑する。
蛙男さんのコーヒーは美味しいというメシアに、俺はいつも少しだけ嫉妬する。俺だって頑張っているのになぁ、といつも頭の隅っこで思う。

そう思いながら、俺はコーヒーをすするメシアの伏せられたまつ毛を見ていた。
彼の髪色と揃いの、ほとんど白に近いグレーのまつ毛。そしてそのそばに立ち上るコーヒーの淡く白い湯気が、とても似つかわしい。それをぼんやりと眺めていたら、どうしてだか俺は、昔のことを思い出してしまった。俺はこの一杯のコーヒーの為に、どんなにみじめな気持になったことがあっただろうかということを。今となっては俺にすらメシアと呼ばれる、この悪魔くんというあだ名の子どものせいで、俺は姿かたちを変えられ、3カ月もの長い期間を腹ペコで歩き回り、一杯のコーヒーすら弁償できないような情けない境地に置かれたことがあったということを。

コーヒー一杯の弁償代も出せなかったあの時の自分。
本当に情けなすぎて、その場では居直ったが、あの時、ただ無知で、世界のすべては自分の為にあると、若者らしい考えをどこかで持っていた俺には、その屈辱といったらプライドもなにもズタズタだった。ここから消えたいとすら思ったが、俺は生き続けた。死ぬことなど一つも考えなかった。執念のように、妄念のように、この目の前にいる少年に会わねばと心底思っていた。
この子供を探し出して、元に戻してもらう。そしてこの異能児を普通の平凡な子供に戻し、社長に褒めてもらうのだ。初めはそうだった。そこから、この松下一郎という子供の驚異的な力を徐々に心底恐れるようになり、一度はその恐怖や、金や身勝手な欲望に取りつかれ、この小さな子供を殺してしまうところまでに至ったのだ。
しかしやはり只者ではなかった彼は生き返り、こうして、俺の前で、コーヒーをすすっている。俺はあの時、この子供に仕え、そして彼の研究の共の為にコーヒーを淹れることになろうなんて思ってもみなかったのだ。運命とは本当に分からないものだ。

しかしそのことを目の前の子どもは、我らのメシアは知らないのだ。いや、もしかするとすべてを知って、何もかもをわかって俺の前にいるのかもしれない。きっと、そうに違いない。しかしメシアはいつもの無表情で、例の物々しい机や本を前に、俺の淹れた『まぁまぁ』のコーヒーをすすっている。

「・・・じゃ、俺はキッチンを片付けますので、飲み終わったらまた下げに来ますね。」
「あぁ。ありがとう。あまり無理するな。」

病気の俺に彼はそう言う。無理をしているのはどちらなんだろう。やはり、俺だろうか。
曖昧に笑いながら、不意に思い出してしまった過去のことを振り切るように、俺はさっと立ち上がり、部屋を出て、メシアの気のなさそうな「ありがとう」という言葉に奥歯をかみしめながらキッチンへと戻る。そして俺は、もう一度同じ豆で、メシアに出したコーヒーと同じものを自分の為に作った。一杯の上等なコーヒーの香りは俺を落ち着けてくれて、その思い出してしまった過去を飲み干すのに役に立った。

「・・・はぁ。」

俺はわざと自分に聞こえるようにため息を吐き出す。ああ、俺は、一杯のコーヒーなんかよりも、ずっとずっと苦くて酸味のある感情をいつまでもこの胸に抱えているんだ。
だけど、俺の居場所はもうここにしかなかった。それに慣れつつある自分もそこに居た。
俺は自分自身で、メシアである悪魔くんに仕え、使徒の一人として彼に尽くす、その生き方を選び取ったのだ。

だから。俺は次こそ自分のコーヒーを美味しいと言ってもらうために、もっと頑張りますからね、メシア。そう呟いて、下を向いて口元だけで笑った。


END.


相互リンクさせていただいてるサイト「Clover」の管理人、サコさん主催の部誌に載せさせていただいた佐松です。佐松なのかな・・・・!




,back