自虐的自慰行為(inspire)



1.
ギリギリと音をたたせるほどに、右手についているフックで、深く深くもう一方の手首をえぐる。いっそ両腕なくなればいい。いっそ自分も、こんな世界もなくなればいい。そう思いながら、俺は自分自身の左手首を強く強く傷つける。

もちろん、痛みはある。でもその時の俺には、“こんなことしちゃってる自分”ってものに対しての快感のほうが強くて、恍惚とその手首から溢れ出す自らの血液に陶酔してしまう。

その時はいつも、自分でもにやにやと口の端が緩むのがわかる。
そしてこう思うんだ。

―――この世界には俺しかいなくて、きっと誰もこのことをとがめなくて。
そうして俺はそのことに絶望して、自分を傷つけている。
ああ、なんて美しい行為なんだろう―――

・・・そうやっていつも、我ながら馬鹿馬鹿しくって気色の悪い妄想をしながら、一人きりの時にその「遊び」にふけるのが好きだった。

生きては死んで、死んでは生き返る、この狂った世界での唯一の救いともいえる娯楽が、俺にとってはそれだった。

でも、ある日。

俺がいつものように、毎日望んでもいないのにまっさらに元通りになってしまう自分の腕に傷をつけながら遊んでいたところに、偶然、ある男が立ち入ってきてしまった。

男は、ひょろ長い体をのけぞらせて、驚いた様子で俺を見た。なにをしているんだとその青い目を見開いて、息を詰めているように見えた。
俺は突然のことに気を取られて呆然としたが、次の瞬間この愚かしいヒトリアソビを見られてしまったことに絶望した。

(・・・ああ、こりゃ、変態だって思われるなぁ。)

そう思って涙が出た。
だって、俺は、ちがう、ちがうんだよ。
そう思ったけれど言い訳が何も浮かんでこなかった。俺は好きでこの遊びをしていて、でも人に見られたかったわけではなくて。

そう思いながらも、どうしていいか分からなくて、そのまま何も言わずにうつむいていると、男が近くまでやってきた。

そいつは俺の左手を傷つけている、右手のフックを掴むと俺の「遊び」をやめさせた。 
もちろん相手はこの行為が「遊び」だなんて思っていないだろうけど、いたたまれない俺はまだ下を向いて、そいつの方を見ることが出来ない。

だけど、ああ、もういい。どうにでもなれ。なんとでも言え。
心配されることはいやだったし、頭がおかしいと思われるのもごめんだったが、こうなってしまった以上仕方ない。

覚悟を決めた俺は、まだ俺の腕をつかんだままでいる、そいつの顔をやるせない気持ちで見た。

(・・・ああ、ランピー。俺、変態だよ。俺、頭がおかしいんだよ。)

怒った顔をしていたらそう言おうと思った。憐れんだ顔をしていたら、ヤケになって怒鳴ろうかと思った。

でも、そいつは予想に反して、何とも読めない、いつものぼんやりとした顔をしていた。
そして次の瞬間には、

「・・・ラッセル、釣りに行こう。」

へらへら笑ってそう言ったんだ。
俺は、あまりにも予想外のその言葉に、ポカンとしてしまった。


2.
本当に馬鹿馬鹿しいと思ったが、俺はその後そいつと二人で釣りに行った。
ランピーはさっき見た俺の「遊び」について、何も聞いてこなかった。
信じがたいことだが、釣りをしている間、俺はランピーと“いつものように”談笑しながら釣りをしただけだった。

ただ、家を出る前には、曲がりなりにも医者らしく俺の腕の状態を見て、神経が切れてないかなぁ、なんて言いながらその手首に包帯を巻いてくれていた。

3.
それから次に会ったときは、どうしてか俺は、その行為をやめてしまえばいいのに、ランピーの前でそれをするようになった。
もっと言うと、ランピーの前だけで、それをするようになった。

それは、「自分だけの世界に閉じこもっている自分」を誰かに見てほしいというナルシズムだったのかもしれないし、この馬鹿げた「遊び」をいつかこいつが叱って、止めてくれるんじゃないかと思ったからだった。

だけどランピーはいつもその行為を止めなかった。
ただ、俺が、薄く笑って自らの手首を傷つけては、傷口から溢れる血を満足そうに眺める様子を、いつものぼんやりした目で見ながら、一緒にいてくれるだけだった。
そして毎回、そのヒトリアソビが終わるたびに包帯だけ巻いてくれたんだった。


4.
しばらくそんな日が続いた。
もちろん皆といるときは“いつもの俺”でいたけれど、ランピーがいるときだけは、なぜだか俺は、俺だけの世界にいることが出来た。そして、その時の幸福ともいえる充足感がとても好きになっていた。

だけどそのうち俺は疑問を感じるようになった。どうして、ランピーはこの行為を止めようとしないのか。どうして、最後には治療をするくせに何も言わずに見ているのか。

この行為にふける俺のことを、ランピーはどう思っているのか。

その疑問が出てくると同時に俺は強烈な不安に襲われた。
いや、今までそのことを考えてこなかった俺がおかしかったに違いない。
だけど、あの日、ランピーが初めて俺の「遊び」を見つけてしまったときに、あの行為に対して何も言ってこなかったことも間違いなくおかしかったんだ。

それをいいことに、俺はずっとその異常さに気が付かないふりをして、俺が俺の世界にひきこもって「遊ぶ」ことを許してくれたランピーに甘えて、ある種のマスターベーションともいえる行為にふけっていたんだ。

そう考えてぞっとした。
ああ、俺は、なんて高慢で自己中心的で、気持ち悪くて、異常なんだ。
ナルシズムなんかじゃすまされないことだった。

吐き気を催して、その日は一日もどして寝むれなかった。

5.
次の日、ランピーが遊びに来た。ここのところ、俺は俺の「遊び」に付き合ってくれるランピーと会うのが好きで仕方がなくて、しょっちゅう自分でランピーを家に招いていたんだった。

だけど俺はもう、ランピーと顔を合わせるのがとても怖かったし、自分の気色悪さにほとほと嫌気がさして泣きたい気持ちだった。

だから、今日からは「遊び」はしないことにしようと思ったんだ。
皆といる時みたいに他愛のない話をして、ランピーと二人だけでも、“いつもの俺”でいて、釣りをして、馬鹿なことやって、笑って、死んで、生き返って…
そうだ。まだ戻れるかもしれない。今までのことは悪い夢で、きっとランピーも見逃してくれるんじゃないか。そう思った。

だけど、遊びに来たランピーは、俺の“いつもの”振る舞いなんてお構いなし。
残酷にも、こう言ってきた。

「ラッセル、今日はあれしないの?」

その言葉を聞いて、俺は情けなさに泣き崩れた。
そんな言葉を投げかけられるほどに、俺はランピーに依存して、あんな「遊び」に没頭していたんだ。そう思った。

本当に心から情けなくなって、あれはもうしない、と小さく言って、あんなことに今まで付き合わせて、本当に悪かったと心底謝った。

一度謝ってしまうと、自分の中の浅ましさがいっぺんに溢れ出してきて、どうしようもなくなって、跪いてランピーの足にすがった。そしてさながら狂ったように(いや、もともと狂っていたんだ)、悪かった、俺気持ち悪かったよな、本当にごめんとひたすらに何度も何度もあやまった。

ここまで来たら、もうどう思われようがよかった。
ただ、嫌われたくなかった。

俺は、あの日、あの「遊び」を見られてしまった時からランピーに嫌われるんじゃないかと怖くて・・・ただそれが怖くって、現実から逃げたり、ランピーの優しさに甘えたりして、自分の異常さを受け入れようとしなかった。

だけどきっともう無理だ。
ランピーは俺に愛想をつかして、俺を捨てるだろう。
もう家に遊びに来てなんかくれないだろう。
包帯も巻いてくれなければ、見守ることもしてくれずに、会えばただ、軽蔑した目で見て、周りに当たり障りないように表面上だけ仲良く振る舞うようになるだろう。

一緒に釣りをすることもきっともう一生ない。
ああ、だから最後だけ、お前にしがみつかせてよ。

そう思って俺はひたすら、極力みじめに見えるように泣いて、すがった。
もしかしたら、能天気でお人よしのランピーなら、同情してまた仲良くしてくれるかもしれないと一縷の望みも託して、すがりついた。
その下心がばれて、さらに軽蔑されたとしても、どうせ最後ならそれでもよかった。

そして、俺は、自分のあざとさ、気持ち悪さや異常さを呪いながら、ひたすらにめちゃくちゃに泣いた。そうしながらランピーの動きを待った。

だけどランピーは、俺を足にしがみつかせたまま動かなかった。
俺は泣き疲れて、もう声も枯れて、ランピーに慰められるでもなく愛想を尽かされて出て行かれるでもなくそのままにされて、どうしていいかわからなかった。

困ってしまった俺は、ついに泣くのをやめてランピーに聞いてみた。
「なんで、どうして・・・何もしないんだよ。せめて、何とか言ってくれよ・・・。」

どうして、いつも何も言わないで見ているだけなんだよ。
こんな俺を。どう考えてもおかしい、狂ってる俺のことを。


そうしたら、ランピーは笑って、今まで俺に対して思っていたことを言ってくれた。
それは、俺の想像とは全然違う、だけど、ずっと、俺がほしかった言葉だった。

「僕はねえ、」

突っ立ったままだったランピーが俺の目の高さまでしゃがんで、話し出す。
相変わらず読めない、その不思議な目でみじめな俺を見つめて。

「僕は、ラッセルのこと見てると、楽しいんだよねぇ。だってさ、なんか自分のことかわいそうって思いこんでるんだもん。僕から言わせてみれば、この世界にいるみんな、全員かわいそうなのに、ラッセルは自分だけが特別にかわいそうだって思いこんでるんだもん。面白くってさぁ。」

「そりゃ、最初にアレをやってるのを見たときは驚いたよ。だって、わざわざ自分で自分を傷つけなくたって、ここじゃ生きてるだけで死ぬのにさ。でも、なんか可愛くってね。放っておけなかったって言うか。包帯巻いた僕も僕だしねぇ。」

「今だって、かわいそうな自分をずぅっと演じてたわけでしょ?僕が同情してくれるの、ずぅっと待ってたんでしょ?なんだか見ててすっごくゾクゾクしちゃったね。ラッセル、かわいいよ。ずっとそのままでいなよ。」

「僕はさあ、君がそうやって、自分に酔っ払っちゃってカワイソウなことしてるの見るの、楽しかったんだよね。だから止めなかったの。」

「もうさ、正気に戻らなくたっていいよ。僕の前で、ずっとそうやってなよ。きっといつかそれもいやになっちゃったら、その時は僕が殺してあげるよぉ。」

「だからさぁ」


「ずっと、僕は君のこと見ててあげるから、安心してよ、ラッセル。」



にっこりと笑ってそう言われた。
ああ、だからさ。俺。

さっき枯れた涙が、また、嬉しさであふれてきたんだ。




END.

相互サイト様の『Lost and Found.』の紫槻さやか様へのプレゼントとして書かせていただきました!この小説は紫槻さんのピクシブにある小説「自虐的自慰行為。」からのインスパイアさせて書かせていただいたものです。ピクシブにも同じものをのせています。




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