デンジャラスハニー



 カタカタとキーボードを叩く音がする。時折聞こえるエラー音と舌打ち。苛立つように話す電話の会話と、何度も鳴るメールの着信音。
 パソコンの横に置いてあるコーヒーは既にその温かさを失っている。一口も飲まれないうちに捨てられることだろう。
 ペーパーバックをパラパラと捲っていた静雄は深く溜息を吐いた。ソファに座って本を読み始めて既に数時間、すっかり飽きてきてしまった。
 そもそもだ。そもそもこの家に静雄を呼んだのは臨也である。いつの間にか静雄の休みを把握しているこの黒い男は、勝手に静雄の休日を予定に組み込んでしまった。遊びにおいで、の一言で。
 それに従ってしまう自分を呪いつつ、静雄は本日何度目かの溜息を吐く。勿論、臨也だとてこんなつもりはなかっただろう。仕事で何かトラブルが起きたのは、この様を見てれば明白だった。
「少しは休めよ」
 コーヒーの一杯くらい飲んでも良いだろうに。寧ろ少しの休憩は効率を上げる。
 優しさで(あの静雄が臨也に優しさなど!)声を掛けたが、臨也からは返事がない。静雄の声が聞こえてるかも怪しい。ひょっとしたら静雄がここにいることも忘れてそうである。全く腹の立つ男だ。
 キーボードを必死に叩く音を聞きながら静雄は考える。どうしてやろうか。このままこの男を放置して家に帰るか。そうすればまだ数時間残っている休みを満喫出来よう。それとも仕事が終わるのを待っていてやるべきか。いやこれ今日中に終わるのか? 終わらなかった場合、自分の休日はここで本を読んで終わってしまう。……段々と腹が立ってきた。
 静雄はペーパーバックを閉じると立ち上がった。テーブルの上には何冊かの本と、吸い殻が溜まった灰皿。この煙草の本数分、自分は待ってやっていたのだ。自分の寛大さに涙が出てくる。
「臨也」
 名前を呼ぶ。勿論返事はない。
 デスクの方へと回り込めば、眉間に皺が寄った顔が見えた。苛々と呪詛のように何かを呟いている。怖い。
「臨也」
 もう一度名を呼んで、静雄はデスクの書類の上にわざと腰掛けてやった。ぐしゃ、と尻の下で嫌な音が鳴る。そこで初めて臨也が顔を上げた。
「シズちゃん?」
 訝しげな視線と、咎めるような声。この様子から、静雄の存在を忘れていたわけではないらしい。
「少しは休んだらどうだ」
 言いながら横目で時計を見る。「五分くらい休んでも結果は変わらねえよ」
「あと少しだから」
 静雄から視線を外してまたパソコンを凝視する。ずっと皺を寄せていた眉間には痕が残っていた。色男も台無しだ。
「なあ」
 静雄は臨也の肩を掴むと、そっと後ろへ押す。キャスター付きの椅子のお陰で、簡単にデスクとの間に隙間が出来た。
「俺、飽きたんだけど」
 よいしょ、と言いながら臨也の膝の上に乗り上げる。肘掛けに片足を掛けて、臨也への負担を軽くしてやる。そのまま臨也の首に腕を回し、顔を覗き込んだ。
「パソコンより俺を構えよ」
「は……」
 臨也の目が驚きで丸くなる。ぽかん、と口が半開きになるが、直ぐにその目は訝しげに眇められた。
「こんな時にデレられても困るんだけど」
「暇、暇、暇。構え」
「冷蔵庫にプリンがあるよ」
 適当にいなして静雄から離れようとする。だが力と体格で圧倒的不利なのだ。静雄が臨也の膝から退く気配はない。
「一緒に食ってくんねえの?」
 顔を寄せられて、耳許におねだりの声。グッ、と臨也は唇を噛んだ。普段ツンが九割である狂暴な生き物である平和島静雄だ。臨也相手にデレる機会など、この先そうそうないだろう。だがここで屈しては臨也のプライドが許さない。
「仕事終わったらたくさん食べさせてあげるから」
 プリンでもケーキでも。
 だから退いてくれ。
「ぜってーやだ」
 離れまいと更に抱き付いた静雄は臨也の肩口に顎を乗せる。くん、と息を吸えば臨也のコロンの匂いがした。
「シズちゃん」
「お前は仕事より『俺』を選ぶだろ?」
 その通りです。
 臨也はクラクラする頭を自覚しながら、諦めたように静雄の背中に腕を回した。久し振りに感じる温もりに肩の力が抜ける。自分で思っていたよりも体は疲れていたらしい。
「……シズちゃんが憎たらしい」
「お前の嘘は直ぐ分かる」
 ククク、と肩を震わせて笑う静雄はやっぱり憎らしいのに、臨也は敗北の溜息を吐いた。



 ──五分後。
「じゃあプリン食ってくる」
「はぁ?!」
「五分って言っただろ。じゃあ頑張れ」




20201115
 

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