虚空を漂う言葉



 少し潰れた煙草の箱を確認すると、残り一本のそれが重力のせいで斜めに転がっていた。
 手に取って口に銜え、安物のライターで先端に火をつける。同時に吸い込めば、白くて薄い紫煙が夜空に舞った。

「…まっず」

 良くもこんな物を吸える物だと思う。体に悪く、残り香も臭い。吸い続ければ歯まで黒くなる。正に百害あって一利なしだ。
 臨也はそれを直ぐに唇から離すと、持っていた空箱に押し付けて火を消した。一瞬、物が焼ける嫌な匂いが鼻に付くが、気にせずに丸めてゴミ箱に放り投げる。灰皿なんてこの部屋にはないのだ。
 煙草を吸えない事はない。不味いのでやらないだけだ。出来るのにやらない、臨也にはそんな事がたくさんある。何かのきっかけや気紛れがあれば、いつかそれらに挑戦しようとは思う事はあろう。そう、今ここで好奇心で普段吸わない煙草を口にしたように。
 不思議と凪いだ気持ちの自分を自覚しながら、間接照明だけが頼りの薄暗い部屋を後にする。背後に閉まる扉の音がやけに強く響いた。
 そう広くない廊下を進み、一番奥の部屋の前で足を止めた。ポケットから取り出したなんの変哲もない鍵で扉を開ける。ドライバーさえあれば開けられるようなそれは、セキュリティ的には最低ランクだった。施錠など意味のない物だと分かってはいるが、いつもこの部屋には鍵を掛けてしまう。どうせこの部屋にいる人間が本気を出せば、どんな強固な鍵だろうが無意味なのだ。それが分かっていて、こうして毎回律儀に鍵を掛ける自分は滑稽だった。
 部屋の中に入るとひんやりとした空気が肌を撫でる。暗く、家具ひとつない広い部屋。冷たいフローリングの上には大きな箱が一つ。
 臨也は裸足のままペタペタと箱に近付いた。棺桶のような箱。だが中はふわふわの毛布が敷き詰められていて、その中にあるものを守っている。まるで繭のように。
 ほんの少し緊張している自分に苦笑しながら、臨也はそっと箱の蓋を開けた。ガタン、と思っていたよりも大きな音がする。
 中を覗き込めば、金髪の男が膝を抱えた状態で横たわっていた。薄暗いせいで表情は分からない。僅かに聴こえる吐息の音から、眠っているのだと分かる。

「……シズちゃん」

 相手が嫌がる愛称を口にする。男はピクリとも動かなかった。眠りが深いのだろう。呼吸は長く、緩やかだ。
 ここ数日、彼の瞼が開くのを見ていない。置いていた食事の皿は空っぽなので、食欲はあるようだ。それ以外はずっと眠っている。

「……つまんないなぁ」

 つまらない。
 臨也の声は淡々と冷たく部屋に響いた。その口元にはいつもの笑みはない。
 ここに連れてきた当初は暴れて大変だった。彼を封じ込める為の拘束具も薬も、手間と金が随分と掛かっている。簡単に逃すわけにはいかなかった。毎日毎日臨也は生傷を作りながら静雄と対峙し、痛め付け、そして愛でた。毒のように愛を囁き、褒美を与えるように快楽を与える。愉しかった。あの平和島静雄が徐々に自分に心酔し、依存してゆく様は臨也に言いようもない悦びを与えた。今まで生きてきて、今が一番幸せだと思った。麻薬のような快感。

 それなのに。

 嫌いな男の言う事を素直に聞く男など、平和島静雄ではないのだ。
 臨也はそれが堪らなく嫌だった。あの爛々と憎悪で輝いた瞳で見られたかった。口を開けば暴言と舌打ちばかりだったあの頃に戻りたかった。今の静雄は自分に対してすっかりと牙を喪ってしまったのだ。これを悲劇と言わずしてなんと言えよう(ひょっとしたら喜劇かもしれない)。
 臨也は深く溜息を吐くと、目の前の金髪に手を伸ばした。毛先が傷んだ細い髪の毛。もう長い間ここに閉じ込めているせいで根元が黒い。襟足も瞼も、伸びた髪の毛で隠されてしまっている。

 そろそろ潮時かなぁ。

 池袋の街では、今日も彼の弟や親友が彼を探し回っている。旧友である闇医者は意味ありげにこちらに探りを入れてくるものの、それ以上は何も言わない。だが時間の問題だろう。中立の立場を気取っているくせに、あれは昔から彼に肩入れしているのを知っている。
 今の臨也の心は虚無感でいっぱいだ。これが欲しくて欲しくて堪らなかった筈なのに、これは欲しくなかったものに変質してしまった。

「うーん」

 金の髪を優しく撫でながら様々なパターンを頭の中で考える。どんな方法でこれを捨てるべきか。誰に発見させるのか。効果的な捨て方は。ああしてこうしてそうして、するとこうなって。臨也の頭の中では色々な登場人物の行動が視える。大抵の人間は臨也の思い通りに動くので予測するのは簡単だった。

「ん……」

 むずかるような声が聞こえ、臨也は撫でていた手を止めた。箱の中にいた男の肩が僅かに動き、金の髪がサラリと揺れる。男の閉ざされていた睫毛が微かに震えた。
 起きるのか。このタイミングで。
 それを残念に思う自分と喜ぶ自分がいる。
 死体のように白い肌をした男が覚醒するのを息を詰めて見守った。瞼が緩やかに開き、現れた薄いヘーゼルの目が臨也を捉える。真っ直ぐに射抜くその瞳。
 ──……ああ、見たくなかったな。
 その目を見てしまうと結局自分は彼を手離せなくなってしまうのだ。

 静雄は箱の縁に手を置き、ゆっくりと身を起こす。そして感情のない表情のまま、薄い唇を開くと臨也の名を呼んだ。


 囚われているのは自分の方なのだと、臨也は知っていた。




20201113


×