五月四日の終末。



※R18。自己責任。







 平和島静雄にとって、ゴールデンウイークはただの平日だ。
 家族と旅行する計画もなく、恋人とデートする予定もなく。朝から晩まで借金の取り立てをし、夜は家に帰り疲れて眠るだけ。毎日繰り返される、いつも通りの日常。
 別にそれを不満に思ったことはない。
 社長や上司からは一日くらい休めと言われているが、静雄自身は休む気が全くない。休んで嫌なことを色々と考えてしまうより、働いている方がまだマシだと思っている。
 例えば連休の中のとある日付のことだとか、その日が誕生日の男のことだとか──そんなことを思い出すだけで、腑が煮えくり返る気がするのだ。
 そんな想いを抱えたまま、一人で休みを過ごすなんて静雄は御免だった。それならいっそ、仕事に追われている方がいい。
 テレビも見ない、携帯電話の日付も見ない。そうすれば一時的にそれを忘れることは出来る。
 なるべくその事を考えないようにして、連休が過ぎるのを待てばいい。




 そんな風に日々過ごして、連休もあと二日。

 無理矢理に頭の片隅に置いていた日が、当日を迎える。
 五月四日、みどりの日、あの男の誕生日。
 静雄はこのことをなるべく意識しないようにし、安穏に一日を過ごすことにした。
 街は祝日のせいかいつもより人で溢れていたが、特にチンピラに絡まれることも、何かの事件に巻き込まれることもなかった。
 ただの平日と同じ。なんの変哲もない一日。
 仕事を無事に終え、上司と適当に夕飯を食べて、静雄はアパートまでの道のりをのろのろと歩く。
 手にはコンビニの袋をぶら下げ、中に入った数本の缶ビールが揺れる。ビールはあまり好きではなかったが、今日はアルコールでも飲んで直ぐに寝ようと思っていた。
 数メートルごとにある街灯の光を頼りに歩き、ふと遠くの空を見上げれば白い月が浮かんでいる。都会の空は霞がかかったように曇っていて、繁華街の明かりのせいで星は見えない。五月と言えども夜の風は少し冷たくて、静雄は薄いワイシャツに包まれた腕を温めるように擦った。
 今、何時だろう──。
 ふと思ってポケットから携帯電話を取り出すが、ずっと電源を切ったままだったのを思い出す。腕時計をするのは好きではないが、いい加減ひとつくらい買ってもいいかも知れない。時間が分からないというのは、やけに落ち着かないものだ。
 そんなことを考えながら歩いていて、静雄は前方のそれに気付くのが遅れた。もう少し早く気付いたなら、きっと踵を返して逃げ出していたかも知れない。

「やあ。」

 人通りの少ない深夜の住宅街。街灯の白い明かりの下で、全身真っ黒な男が佇んでいた。

「…な、」
「久し振り。」

 静雄と目が合うと、男は目を細めて笑う。いつもの服装、いつもの表情。昔から、一人だけ何も変わらないまま。
「…なんで手前がここにいる。」
 静雄は足を止め、目の前の男をきつく睨み付けた。口から発せられた声は、地を這うかのように低い。
「俺がここにいる理由なんて、ひとつしかないと思うけど。」
 全身真っ黒なその男──折原臨也は、静雄の視線を真っ直ぐに受け止めると目を細めて笑った。
 揶揄するような笑みと、通りの良い甘い声。相変わらずなその態度と仕種に、見ているだけで反吐が出そうだ。
「何の用だ。」
 喉奥まで出掛かった悪態を全て飲み込んで、静雄は吐き捨てるように問う。薄汚れたガードレールに腰掛け、目の前の男から苛立たしげに顔を背けた。
 薄暗い道路のずっと向こうから、車のエンジン音が小さく聞こえてくる。いくら池袋と言えども、深夜にもなれば住宅街はあまり煩くはない。
「シズちゃんちに行こうよ。」
「…話ならここでも出来るだろ。」
「ここじゃ落ち着かない。」
 するりと伸びて来た臨也の手が、静雄の細い二の腕を掴む。掴まれたその手は思いの外力強く、静雄は思わずびくりと肩を震わせてしまった。
「じ、じゃあ、他の場所で──、」
「ここからじゃ、シズちゃんちの方が近い。」
 有無を言わさず静雄を引っ張って、臨也はアパートへの道を歩き出す。それに対して静雄は抗議の声を上げるが、勿論臨也には聞き入れて貰えない。
 結局静雄が抵抗するか逡巡している間に、古いアパートの前まで辿り着いてしまった。
 老朽化でボロボロな様相のアパートの階段を上り、目的の部屋の扉前で立ち止まる。溜まったチラシが廊下に落ちているのを踏みつけて、臨也は静雄へと手を差し出した。
「鍵。」
「……。」
 無言でその白い手を睨み付け、静雄は渋々とポケットから鍵を取り出す。キーホルダーのひとつも付いていない家の鍵は、こうしてあっさりと静雄の手から奪われてしまった。
 臨也は右手で静雄の腕を掴んだまま、器用に左手だけで扉の鍵を開ける。その薬指にプラチナのリングが光るのを、静雄は気付かない振りをした。
 そのまま開いた扉の中に身体を押し込まれ、躓きそうになりながら慌てて革靴を脱ぐ。薄暗い部屋の中、静雄は明かりを点けようと空間に手を伸ばした。が、後ろから伸びてきた臨也の手に、あっさりと阻まれてしまう。
「いいよ、明かりは要らない。」
「な、」
 振り向いて、その名を呼ぼうとして──唇を相手のそれによって塞がれた。
 手に持っていたコンビニ袋が床に落ち、中のビール缶が嫌な音を立てる。
「…っ、んっ、」
 唇に噛み付かれ、直ぐに隙間から舌が滑り込んで来た。ぬるりと歯列の表面を舐められ、頬の粘膜を舌先で突つかれる。ねっとりと優しく、しかし徐々に深くなる口付けに、静雄は抵抗するように臨也の両肩を押しやった。
「…やめっ…、ふ…っ、」
 臨也の唇は一度離れ、直ぐにまた塞いでくる。腰を引き寄せられ、もう片方の手は後頭部に回されて、更に口付けが深くなった。
 臨也の舌は生き物のように静雄の口腔内を這い回り、混ざり合った互いの唾液が顎を伝って滑り落ちる。熱くざらついた舌がそれを舐め取るたび、静雄はぞくりと身を震わせた。
 時間を掛けた深い口付けに、抵抗する気を失って目を閉じる。怖ず怖ずと自分からも舌を差し出して、臨也の舌を強請るように吸ってやった。
 薄くて柔らかい、甘い唇。この唇の感触も、唾液の味も、静雄にはもう何年も前から馴染み深いものだ。
 例えそれが、今は自分以外の誰かのモノだとしても。

 いつの間にか臨也の手は、静雄の衣服の前をはだけさせていた。
 白く冷たい手の平が、静雄の薄い胸を緩やかに辿る。もう既に反応し始めている突起に指先が掠めれば、静雄は小さく甘い声を漏らした。
「シズちゃん…。」
 耳許に囁かれる掠れたテノール。
 ゆっくりと顔を上げれば、薄暗い部屋の中で熱に浮かされた双眸と目が合う。その瞳を見ただけで胸が痛んで、静雄は逃げるように臨也の肩口へと顔を埋めた。
 身体を這う臨也の左手には冷たい無機質の感触があり、否が応でも静雄にその指輪の存在を知らしめる。

 どうして──。

 どうして、臨也はこうしていつも静雄を抱くのだろう。
 どうして、臨也は伴侶を裏切ることが出来るのだろう。

 罪悪感、背徳感、怒り、悲しみ、敗北感──。
 それらが全て押し寄せ、静雄はいつも息が出来なくなる。
 まるで水の中にいるみたいに苦しくて、いくら藻掻いてもそこから浮上することが出来ない。

 五月四日、折原臨也の誕生日──。

 こんな日は、本来なら伴侶の女性と過ごすべきろう。
 穢れた同性の愛人とではなく、将来を誓い合った女性と過ごすべきなのだ。

 なのにどうして、臨也は今自分の隣にいるのだろう。



「あ…っ、ん、…あぁっ、」
 腰を両手で掴まれ、臨也が背中から覆い被さってくる。結合部からはじゅぶじゅぶと湿った音が響き、溢れ出た白濁の液体が内腿を伝って落ちた。
 苦しい。気持ちいい。けれど苦しい──。
 きつく閉じた瞼からは涙が零れ、白いシーツにいくつもの染みを作る。朝に変えたばかりのリネン類は、もう二人分の汗と精液でぐちゃぐちゃだ。
 臨也の舌が耳裏をねっとりと舐ってゆく。やがてそれは項へと下り、首の付け根に強く吸い付かれた。見る者が見れば、静雄の首にキスマークが付いているのが分かるだろう。これが臨也の嫌がらせなのか所有印なのか、静雄には判断が付かない。きっと臨也のことだから、ただの気紛れなのかも知れないけれど。

 ──こっちからも痕を付けてやろうか。

 臨也に抱かれる度に、いつも静雄はそう思う。
 背中には赤い爪痕を、首筋には噛み痕を。若しくは一生消えない傷痕を、臨也の白い肌に刻んでやりたい。
 それを見た臨也の伴侶は、一体どう思うだろう。誰か他の女を想像するだろうか。まさか浮気相手が男だなんて思わないに違いない。
 静雄は臨也の嫁に会ったことがないし、彼女が浮気に気付いているのかどうか分からない。二人が仲睦まじいのか、はたまた結婚生活は破綻しているのか──全く知らないし、知りたくもない。
 ただ偶に、声高にこの関係をバラしたくなる時があった。信じていた伴侶が、同性である男と不倫していたらどう思うのか知りたいと思う。

 けれど静雄はいつも、結局臨也に痕を残すことはしなかった。
 臨也のことだ。言い訳などいくらでも思い付くだろう。若しくは言い訳などもせず、全く意にも介さないかも知れない。
 罪悪感、背徳感、怒り、悲しみ、敗北感──。
 そんなことをすれば、それが更に膨らむだろうと静雄には分かっていた。
 どんなに不満をぶつけようが、気持ちのいいセックスをしようが、自分と臨也は結婚することは出来ないのだ。
 女になりたいと思ったことはない。まして臨也と結婚したいなんてことも思ったことはない。
 けれども同性というだけで始めから「負けている」のだと思えば、静雄の胸に言いようのない影を落とした。
「あ…っ、ふ、」
 ドクドクと身体の奥に熱い迸りを感じる。静雄は自身も腹の上に白濁を吐き出しながら、白いシーツの上に身体を弛緩させた。
 汗ばんだ身体が熱い。何キロ走っても疲労しない体力が、数十分の情事で息も上がっている。
「…あ…ん…っ、」
 ぬるりと臨也の性器が出て行く感触に、静雄はびくりと身体を震わせた。まだ足りない──と身体は訴えているけれど、それを口に出すのは矜持が許さない。どうせ臨也は家に帰らなくてはならないし、これ以上ここに長居をするのはまずいだろう。
 テーブルに無造作に置かれたデジタル時計を見れば、まだ日付は変わっていない。さすがに妻が居る身で朝帰りはしないだろうし、ましてや今日は臨也の誕生日だ。彼女は旦那の帰りを待っているかも知れない。
 静雄は気怠い身体を叱咤して無理矢理起き上がった。早くシャワーを浴びて、後始末をして寝なければ。明日はまだ休日だが、静雄は普通に仕事だ。
「まだいいじゃない。」
 立ち上がろうとした静雄を、臨也の両手が押し留める。上気した鎖骨を撫で、汗が滲む背中を撫でて、明らかに情欲を含んだ手が静雄の下腹部に下りてゆく。
「っ、…。…帰らなくていいのかよ…。」
 努めて不機嫌に問う声は、思いの外に熱く掠れてしまう。
 萎えていた筈の静雄のそこは、臨也の手で煽られて天を向いていた。先端を親指で愛撫されれば、透明な液体がぷくりと滲み出す。
「…はっ、ん、」
「今日、何の日か知ってる?」
 口端を吊り上げて、臨也は静雄の耳に唇を寄せる。柔らかな耳朶に歯を立てられて、静雄はまた甲高い声を漏らしてしまった。
「…知らねえ…よ、何の日かなんて…。」
 肩で息をしながら、静雄は臨也の肩にしがみつく。いつの間にか臨也の指は、柔らかな静雄の後孔を深く探っていた。
 じゅぷ、という水音と共に、中から臨也の吐き出した精液が溢れてくる。悪戯な指先が中のしこりを掠めるたび、静雄は甘い嬌声を上げた。
「誕生日なんだ、俺の。」
「──…へえ…。」
 そんなこと知ってるよ、馬鹿──。
 静雄は内心で悪態を吐く。
 どんなにこの日を意識していたか、お前は知らないだろう。ずっとこの日を考えないように、仕事に逃げていたことをお前は知らないんだろう。
「『おめでとう』って、言ってくれないの?」
 揶揄するような声。
 全ての元凶である臨也は、静雄の目を覗き込みながら低く笑い声を漏らす。罪悪感も、道徳心さえも欠如してるであろうこの男は、汗で張り付いた静雄の髪を優しく梳く。そこには愛情も憐憫も、何一つないというのに。

 ああ、ほんと憎たらしい──。

 静雄は小さく唇を噛み締め、臨也の顔から目を逸らした。
 このじくりと重い胸の痛みは、一体いつになったら慣れるのだろう。一体いつになったら、忘れられるのだろう。
「おめでとう。」
 吐き捨てるように、けれど出来るだけ冷たい声で答えてやる。
 そんな口調とは裏腹に、静雄は臨也の下肢にわざと股間を擦り付けてやった。そんなことより早く続きをしろ、というおねだりを込めて。
 そんな静雄に臨也は喉奥だけで笑い、静雄の両足を開かせると膝裏に手を掛けた。目の前に晒され、収縮する静雄の濡れた秘部に、臨也の熱い先端が押し当てられる。
 ゆっくりと、けれども簡単に奥まで挿入され、静雄は深く溜め息を吐いた。薄く瞼を開ければ、自分の赤く熟れた胸を愛撫する臨也の左手が目に入る。その薬指には、相変わらずプラチナの指輪が鈍い光を放っていた。
 静雄はそれを視界の隅に収めながら、臨也の背中に緩やかに腕を回す。
 徐々に深くなる腰の動き、部屋の中に響く卑猥な音。耐え切れぬほどの快感に、生理的な涙が静雄の目尻から零れ落ちる。
 臨也の汗ばんだ背中と、嗅ぎ慣れた香水の匂い。それらに深い安堵を覚えながら、静雄は絶望的な悲しみを覚える。

 ──もうこんなことは終わりにしよう。

 今までに何度もそう思い、結局何も変わらずにいたけれど、自分の心はきっともう限界だ。
 この街を出るか、どこかに身を潜めるか。それは簡単にはいかぬだろうが、臨也から離れるにはそうするしかない。
 街から逃げ出した静雄を、きっと臨也は嘲笑するだろう。或いは邪魔者が居なくなり、内心ホッとするかも知れない。

 どちらにしろ、静雄にはどうでも良かった。
 新しい環境と暮らしの中で、この男をさっさと忘れてやろうと思う。

 臨也の背中に緩く爪を立てながら、静雄は口端を歪めて嗤った。




(20130505)
誕生日を祝う内容じゃない。
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