今日は一月二十八日



 

 恰幅のいいロシア人の店員に見送られ、臨也たち三人は寿司屋を後にした。
 もう夜も遅いせいか、街はいつもより静かだ。通りには冷たい風が吹き荒び、臨也は思わず襟元を押さえて縮こまる。
「うわっ、寒っ!」
「こんなに寒いと酔いも冷めちゃうよね。」
 そんな臨也の後ろで、新羅は小さく笑い声を上げた。その声が少しくぐもって聞こえるのは、隣に背の高い男を抱えているせいだろう。
 抱えられている金髪の若い男──平和島静雄は、今は酔って潰れている。この寒いのにコートもなくバーテン服姿だが、きっと今は寒さも感じていないに違いない。
「シズちゃんってお酒弱かったんだねえ。」
「普段はこんなに飲んだりしないんだけど…まあ、今日は特別だよね。」
 呆れたような臨也の言葉を受け、新羅は苦笑気味にフォローする。よいしょ、と年寄りじみた声を上げ、ぐったりとしている静雄を抱え直した。

 今日は一月二十八日──静雄の誕生日であった。



 誕生日を祝うということに頓着しない静雄を、新羅が無理矢理に露西亜寿司まで引っ張って来たのは数時間前だ。せっかくの誕生日なのだし、寿司でも奢って祝ってあげるつもりだった。
 その場所に静雄の天敵である折原臨也がいたのは、新羅にも想定外のことだ。新宿に住んでいる筈の臨也は、事あるごとにこの池袋へとやって来る。そして散々街を荒らした後、たまに露西亜寿司で食事をして帰るのだ。

「へえ、今日はシズちゃんの誕生日なの。」

 それはそれは、おめでとう!と、ちっとも祝う雰囲気がないままそう言って、大好きなトロを食していた臨也はカウンターの席を横へと移動した。どうやら『ここに座れ』という意思表示らしい。
 こんな日に臨也にだけは会いたくなかったであろう静雄は、最後までそれに抵抗していた。違う店に行こうと言い出したりもした(ちなみにサイモンがそれを許さなかった)。
 しかし結局は渋々ながらも席に座ってしまったのは、珍しく臨也が静雄に何か御馳走してあげると言い出したからだ。新羅の方も、例え二人が喧嘩をしてもサイモンが居るなら止めてくれるだろう、と安直に考えて頷いた。

 三人はそれなりに付き合いが長いが、一緒に酒を交わすのはこれが初めてだ。だから臨也は静雄が酒に弱いなんて知らなかったし、酔うと眠ってしまうのも知らなかった。



「じゃあ臨也、お願いね。」
「え?」
 新羅の言葉の意味を問い返す間もなく、うなだれた静雄の体を押し付けられる。
 思わずその体を受け止めてしまったものの、臨也は眉間に皺を寄せた。
「どういうこと?」
「僕は帰るから、後はよろしく。」
「は?」
 珍しく目を丸くする臨也に対し、新羅はにっこりと笑って歩み去ってゆく。
「ちょっ、新羅!?」
 臨也が抗議の声を上げても、新羅はひらひらと手を振るだけだ。こちらに背中を向けたまま、振り返りもしない。
 その足取りはやけに軽やかで、きっと愛しい彼女の元へ帰ることが嬉しいのだろう。ひょっとしたら、実は新羅も結構酔っ払っているのかも知れない。
 さすがに静雄を抱えたままそれを追い掛けるわけにも行かず、臨也は半ば茫然と新羅を見送るしかなかった。

「くそ…、新羅の奴…。」

 思わず小声で悪態を吐き、臨也は諦めたように溜息を吐いた。
 取り敢えずは今抱えているこの酔っ払いをどうにかしなくてはならない。ずっと静雄を抱き締めたまま、ここに留まっているわけにはいかないだろう。
「ねえ、シズちゃん…。自分で歩いてよ。」
 自分より背の高い男の背を、軽く何度か叩いてみる。こうして密着してみると、静雄の体はかなり細い。良くこんな痩身であんな力が出せるものだと、感心しつつも呆れてしまう。
 臨也の願いも虚しく、静雄は僅かに唸り声を上げただけだった。殆ど意識のないその様子は、今支えているのが臨也だとも分かっていないようだ。
「…はあ、その辺に捨てて行こうかな…。」
 それともタクシーにでも放り込むか。
 しかしタクシーを拾うには、駅前へと出なければならない。それにこの街のタクシーなら、静雄は乗車拒否されそうな気もする。
 臨也は暫く逡巡し、結局静雄の肩を抱いて歩き出した。
 繁華街の裏通りには、酒に潰れた若者やサラリーマンの姿をたまに見る。中にはただのホームレスも紛れているが、それも暖かい季節の話だ。いくら静雄と言えども、この寒空に放置しては風邪を引くかも知れない。

 ──ま、別にシズちゃんが野垂れ死のうが俺が知ったことじゃないんだけど。

 言い訳のようにそう思うのは、静雄を引きずって歩く自分が不可解だからだろうか。
 普段の自分だったら、間違いなく静雄をそこら辺に放置している。その結果、風邪を引こうが誘拐されようが、自分には関係ない。寧ろ邪魔な存在が排除され、嬉しいとさえ思うくらいだ。
 それが出来ないのは、今日がこの男の誕生日だからだろうか──。
 自分にもまだそんな優しさがあったとは、驚きと共に新鮮さも覚えてしまう。

 殆ど人気のない通りを、二人は肩を組んだ体勢でのろのろと進む。静雄は一応は歩を進めるものの、覚束無い足取りで左右にフラフラしていた。

「ほらシズちゃん、月が綺麗だよ。」

 ぽん、と静雄の肩を叩いて、臨也は夜空を見上げる。ビルよりも高い位置に、白くて丸い月が浮かんでいた。残念ながら星は殆ど見えないが、月の明るさなら都心でもはっきりと見える。
「満月…ではないのかな。少し欠けてるね。」
 月の周りを漂う雲が、月光を浴びて淡く光っていた。こんなにも月が綺麗に見えるのは、それだけ冷たくて空気が澄んでいるからだろう。
 静雄は恐ろしく鈍重な動きで顔を上げた。意外にもその目ははっきりと開かれていて、月を捉えて僅かに眇められる。
「…てめえでも月が綺麗だなんて思うのか。」
「まあ、それなりに。」
 そう言って臨也が笑い声を洩らせば、静雄も釣られて小さく笑った。通行人が居ない静かな通りに、二人の笑い声だけが微かに響く。高校の頃からの付き合いだが、こうして二人で笑い合うのは初めてだった。
 意外なことに、静雄は自分を抱えているのが臨也だと気付いていたらしい。それを厭うこともせず、黙って臨也に肩を借りているのは随分と珍しかった。やはり酒のせいで判断力が鈍っているのだろう──お互いに。

 薄暗い、繁華街から逸れた道。もう閉店した店の明かりと、コンビニの白い光が二人を照らす。横断歩道を渡り、住宅街へ入って行けば、静雄の住むアパートがある。
 臨也は静雄の家の場所を知っていた。
 頭の中には静雄のデータが完璧に入っており、その中には当然誕生日も含まれている。
 ──そう、だから臨也は、今日が静雄の誕生日であることを本当は知っていたのだ。
 だからと言って別に祝う気などなかったし、会う気だって全くなかった。寧ろ喧嘩をふっかけられるのは御免だったし、会わずに済むのならそれに越したことはない。

 なのに、特に用事もなかった池袋に来てしまったのはどうしてなのか──。

 臨也がそんなことを考えていた矢先、隣を歩く静雄が突然足を止めた。
「シズちゃん?」
 胡乱げな臨也の腕を振り解き、静雄はふらつきながらも自分の足で立つ。
 顔はまだ赤く、瞳も僅かに潤んでいて、煙草の匂いに混じって強い酒気がした。まだ相当に酔っていそうだ。
「…もう直ぐ…俺んち。」
「知ってるよ。」
 ここまで送って来たのは自分だ。
 臨也は芝居がかった仕草で肩を竦めると、視線を静雄のアパートがある方向へ向けた。
「ここからは一人で帰る?」
 例え酔ってはいても、臨也を家に連れて行くのは気が進まないのかも知れない。臨也はそう考えて訊いたのだが、静雄はその問いに首を振った。
「……たく…ない、」
「え?」
 静雄の声は低過ぎて、良く聞こえない。
 いつの間にか距離が開いていたことに訝しく思いつつ、臨也は静雄へと一歩近付いた。
「…帰りたく、ねえ…って、」
 今度もやけに低い声で静雄はそう言った。
 一瞬何を言われたのか理解出来ず、臨也はぴたりと体の動きを止める。
「え…?」
 どういう意味だろうか。
 これが女性ならば誘っているという意味に捉えられるかも知れないが、相手はあの平和島静雄である。
「帰りたくないって、まだどっか飲みに行きたいの?」
 そう口にして見るものの、そういう意味ではないのだろうな、と思う。目の前の静雄はばつが悪そうに目を逸らしてはいるが、酒を飲みたいという雰囲気には見えなかった。
 ──ひょっとして、寂しいのかな。
 誕生日の夜に、一人で誰も居ない部屋に帰るのは寂しいのかも知れない。友人と飲んだ後なら、尚更に。
 臨也は独りでいることに寂しさを覚える質ではないが、静雄ならそれも有り得る気がした。

 ──でも、だからと言って…。
 一緒に居るのが自分でいいのだろうか。藁にも縋りたい思いなのか、単に酔っているせいなのか。恐らく後者なのだろうが。
「…明日、平日だよ。」
 仕事があるんじゃないの?と、言外に匂わせる。
 静雄は酒が大分回っていて、ひょっとしたら明日は二日酔いに悩まされるかも知れない。なら早く帰宅して休んだ方がいい。
「そうだけど…、」
「上司の人に迷惑掛けるのは、シズちゃんも不本意だろ。」
 その人物のことを口にしたのは、わざとだ。
 中学の頃の先輩らしいその男は、静雄に今の仕事を斡旋してくれた恩人らしい。恩を感じているのであれば、不義理な真似をするようなことはしないだろう。
 案の定、静雄は黙り込んだ。
 眉根を寄せ、地面を睨み付けるようにして俯いている。そういえば先程からずっと、臨也と視線を合わせようとしない。
「…分かった。」
 恐らくほんの数秒だった沈黙を破ったのは、やはり静雄の方だった。
 帰る、と一言だけ口にし、臨也に背を向けて歩き出す。その足取りは酔っているのが嘘のようにしっかりとしていて、まるで逃げるかのように早足だ。
 徐々に小さくなってゆく背中。真っ白なシャツが夜の闇に映え、金の髪は冷たい風で揺れる。
「し、」
 シズちゃん──。
 名を呼んで、どうするつもりだったのか──臨也は咄嗟に口を噤んだ。
 自分から誘いを断った癖に、その後ろ姿を見ただけで後悔が押し寄せる。あの平和島静雄の背中が小さく見えるなんて、自分の目はどうかしてしまったんじゃないか。
 真っ暗で誰も居ない部屋に帰り、暖かくない室内に身を縮ませる。──そんな場所に静雄を独りにするのは、嫌だと思った。
 そしてその理由を考えないまま、臨也は静雄の後を早足で追い掛ける。
「シズちゃん。」
 静雄は答えない。それどころか小走りになって、臨也から更に距離を取ろうとする。
「シズちゃんってば!」
 思わず駆け出して、強い力で腕を掴んだ。強引に体を引っ張れば、目を逸らしたままの静雄がこちらを向く。
「…なんだよ?」
「…なんでこっち見ないの?」
「はあ?」
 静雄は訝しげに声を上げるが、やはり臨也と目を合わせようとはしなかった。それはまるでこちらを拒絶しているかのようで、臨也は腹の奥底が焼け付く気がする。
「…気が変わったよ。」
「え?」
「俺もシズちゃんちに行く。」
 驚きで目を丸くした静雄が、やっとまともに臨也の顔を見た。
 その茶色の虹彩に自分の姿が映り込むのに、臨也は酷く満足した思いを抱く。
「泊めて。」
「な、なんでだよ!」
「今日はシズちゃんの誕生日だから。」
 恐らくあと数分で日付は変わり、一月二十八日は終わってしまうだろう。けれど朝を迎えるまでは、まだ『今日』だ。
「俺にもう少しだけ、誕生日を祝わせてよ。」
 臨也は低いテノールでそう言って、腕を掴んだ手に力を込める。
 こんな風に離すまいとしても、静雄の力なら振り解くのは容易い筈だ。嫌だと思うのなら、抵抗すればいい。
 二人の間に沈黙が落ちる。
 どこか遠くの方でバイクのエンジン音が聞こえた。口から漏れる吐息は真っ白で、頭上にある月は白くて丸い。冷たい風が時折吹き、夜空に浮かぶ雲が早く流れてゆく。
 臨也は静雄の腕を引いたまま、アパートまでの道のりを歩き出した。
 強い力で引っ張られ、静雄の体が僅かにふらつく。しかしそれでも手を振り払うことはなく、静雄は素直について来る。
「いいの?」
「…何がだよ。」
 住宅街に入り、角を曲がると、静雄のアパートが見えて来た。歩くスピードはそのままに、臨也が静雄を振り返る。
「俺なんかを泊めたりしたら、寝込みを襲うかも知れないよ。」
「ナイフででも刺すのか。」
「…まあ、どっちの意味でも。」
 意味が分からず首を傾げる静雄に対し、臨也は愉しげに笑い声を洩らす。
 腕を引く手を一旦離し、直ぐに静雄の手を掴み直した。酔いが冷めて来たのか、静雄の手は指先が冷たい。

 帰ったらあっためてやろうかな──。

 なんて思う自分はやっぱり不可解だったが、今はそれでいい気がした。
 この日にわざわざ池袋にやって来たのも、静雄を見捨てずに送って来たのも──誕生日だから、ということに今はしておこう。
 こうして今手を繋いでいることが、ちっとも不快ではないことも。

 静雄のアパートの階段を、二人は手を繋いだまま上る。幸いなことに、この時間にその姿を見る者は誰も居ない。せいぜい頭上に浮かぶ月が見ているぐらいだ。

 静雄が部屋の鍵を開けるのを見ながら、部屋に入ってからの第一声は、
「誕生日おめでとう。」
と、言うことにしようと臨也は思った。



(2013/01/29)
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