I wish you a Happy New Year



「寒いな。」
 はあ、と静雄が口を開けば、真っ白な吐息が空へと上がってゆく。勿論その息は頭上を越えた辺りで、直ぐに霧散して消えてしまった。
「そうだね、夕方まで雨が降っていたから。」
 臨也は目を僅かに眇めると、静雄と同じく空を見上げる。濃い灰色の都会の夜空に、白い月がぽっかりと浮かんでいた。雨上がりのせいで風は肌を刺すように冷えていたが、いつもより空気は澄んでいる気がする。
「寒いならちゃんとマフラーしなよ、風邪をひく。」
 少し着崩れた静雄のマフラーを、臨也の手がするすると器用に巻き直してゆく。子供扱いのようなそれに静雄はムッと拗ねたように唇を尖らせたが、結局は臨也の好きなようにさせたままだった。
 昼間は雑踏でごった返す通りも、大晦日の深夜は殆ど人通りがない。開いている店は年中無休の飲み屋やファミリーレストランぐらいで、他の店は殆どが営業を終了していた。
 時折どこからか歓声や笑い声がするのは、どこかのクラブで飲んだ酔っぱらいが騒いでいるのだろう。年越しは家族で過ごす風習の日本でも、友人同士で年明けを迎える者も少なくはない。
「シズちゃんって、お酒弱いよね。」
 マフラーを後ろで結び終え、臨也が揶揄するかのように笑う。目の前の静雄は寒さのせいだけではなく、頬がほんのりと赤くなっていた。
「別にいいだろ、お前だってそんな強くねえ癖に。」
「まあねえ…、普段から好んでは飲まないから。」
 今日は大晦日だから特別だよ、と言いながら、臨也は薄暗い通りを歩き出す。その足取りも声も幾分愉しげで、酔っているのは自分だけではないのだなと静雄は思った。
 今日は新羅のマンションで、知り合いを集めて飲み会のようなことをした。門田たちのグループや、いつもの高校生たち。
 年が明ける前にお開きになったのは、これから家族と過ごす者への配慮だろう。静雄は年が明けてから実家に帰るつもりでいるし、臨也はそもそも実家に帰る気は無いらしい。
「いや、単に新羅が首無しと早く二人きりになりたかっただけだよ、きっと。」
「…そうかもな。」
 新羅のセルティへの執着は皆が知るところだ。臨也の言葉に静雄は同意するが、それについて別に怒ったり呆れたりすることはない。長い付き合いである二人には、新羅の病気にはとっくに慣れていた。
 二人は暫く無言で街を歩く。隣に並んではいるが、半歩ほど臨也の方が先を進んでいた。身体のどの部分も触れ合うことがない、一定の距離を保ったまま。
 静寂に包まれた池袋の街。閉ざされたお店のシャッターには、正月を祝う張り紙や注連縄が飾られている。明日の朝にはバーゲンや初売りが行われ、また街はいつものように賑わうのだろう。せっかく今はこんなに静かなのに──静雄にはそれがほんの少し寂しい。

「じゃあ、俺はこっちだから。」

 交差点の前に差し掛かると、臨也は駅の方を指差した。そちらは静雄の家がある方向とは反対側の道だ。今まで通って来た道とは違い、まだネオンや街灯が瞬いている。
 「またね」と、あっさりと踵を返した臨也の二の腕を、静雄は咄嗟に掴んでしまった。
「…あ、」
 自分でも驚いたが、引き留められた臨也はもっと驚いたようだ。珍しく目を丸くしていて、その顔は実年齢よりも幼く見える。
「どうしたの?」
「あ…、いや──…。…帰るのか?」
 当たり前のことを訊く静雄に、臨也は僅かに眉根を寄せた。じっとこちらの顔を見つめて来る赤い目に、静雄は落ち着かなく視線をさ迷わせる。
「帰って欲しくない?」
「ち、ちげえっ、」
「シズちゃん、酔ってるね。」
 焦る静雄に対し、臨也は小さく笑い声を上げた。それは馬鹿にしている笑いではなく、何だか少し楽しそうに見える。
「一緒に年を越すのが、俺なんかでいいの?」
 弟でも親友でも上司でもない、仲が悪いと言われる俺なんかで。
 臨也はそう言って、薄く笑った。赤い目は真っ直ぐに静雄を捉え、その真意を確かめるかのようにこちらを射抜く。
「俺は──、」
 何と答えるべきか──。自分でも良く理解出来ない衝動を、言葉にするのはとても難しい。
 静雄は唇を噛み締め、臨也の二の腕を掴んでいた手をゆっくりと離した。そんな強い力で掴んでいたわけではないが、臨也のコートには僅かに皺が付いてしまっている。
 臨也は拒絶をしたわけではない。拒絶ではないが、静雄にはそれと同等の言葉に感じた。ここから踏み出す勇気のない、自分には。
 臨也の目をまともに見れぬまま、静雄は踵を返す。「またな」も、「さよなら」も、口から出ては来なかった。逃げ出したいような気分のまま、乾いたアスファルトを歩き出す。人が殆ど居ない交差点に、静雄の靴音だけが響いて消えた。
「…ほんと、シズちゃんって、」
 後ろから聞こえる深い溜め息。静雄がほんの数歩を進んだところで、背後から伸びて来た手に腕を突然掴まれた。
「!、なっ、」
「諦めが良過ぎる。」
 臨也は強い力で静雄を引き寄せると、そのまま反対方向へ歩き出した。
「ちょ、…おい!」
 明らかに駅へと向かう足取りに、静雄は慌てて抗議の声を上げる。即座に掴まれた腕を振り解こうとするが、意外に力強い手は外れない。
「どこ行くんだよ!そっちは──、」
「新宿。」
「はあ?!」
 何で新宿に?! そう問おうとした声は、臨也の言葉によって遮られる。
「強情なシズちゃん相手に、俺の方から折れてあげるってことだよ。」
「なんだそれ!意味分かんねえし!」
「黙って俺に浚われろ、ってこと。」
「なっ、」
 ぽかんと、静雄は今まさにそんな顔をしているのだろうと自分で思った。頭が混乱し、臨也の言葉の意味が浸透するまでに時間が掛かる。新宿だの、浚われろだの──要するにそれは臨也の家への招待だと気付いたのは、既に駅が見え始めた時だった。
 驚愕し、狼狽している静雄を気に留めることもないまま、臨也はさっさと横断歩道を渡ってゆく。途中で擦れ違った騒がしい若者の集団が、自分たちの姿にギョッとしたのが滑稽だった。
 仲が悪い筈の自分たちが、腕を引いて歩いている──年が明ける頃には、さぞかしダラーズの掲示板あたりが騒がしくなっていることだろう。メインストリートにはまだ人が少ないものの、ここに来るまでに既に何人かと擦れ違っているのだ。もう既にネットでは、情報が出回っているのかも知れない。
 いつの間にか抵抗をしなくなった静雄は、大人しく臨也の後を付いて来ていた。元々静雄がもし本気で抗ったのなら、臨也の拘束など無いにも等しい。こんな風に臨也に連れられて歩くこと自体、合意と同じだと本人は分かっているのだろうか。
 そんなことを考えながらも、臨也は静雄の腕を離さなかった。駅に着き、改札を通り抜ける頃には、掴んでいるのは腕ではなく掌にしていた。
 いい歳をした大人が、まして男同士で手なんか繋ぐのは、さぞかし滑稽な姿だろうと思う。けれども臨也はその手を離す気など無かったし、静雄の方も振り解こうとはしなかった。
「いいの?」
「…何が。」
「黙って付いて来て。」
 やがて新宿駅に着いた頃、臨也はやっと口を開く。もう直ぐ年明けだというのに、電車は意外に乗客が多かった。恐らく大半が明治神宮へと向かうのだろう。
 臨也に手を引かれて歩く静雄は、借りてきた猫のように大人しかった。駅の外へ出るとさすがに寒いのか、心なしか臨也の方へと身体を寄せて来る。マフラーへ顔を埋めるその仕草も、なんだか小動物のようだ。
「もう、俺んちに着いちゃうけど?」
 そうしたら逃げられないよ──。
 そんな意味を込めて、臨也は静雄の手を掴む手に力を入れる。勿論、今更逃がす気はなかったけれど。
「…別にいい。」
 意外なことに、静雄の方も手を握り返して来た。ずっと繋いでいた二人の手は、互いの体温ですっかりと温かくなっている。
「だって俺は今、酔ってるからな。」
 ぐいっと、今度は静雄が臨也の手を引っ張るようにして、半歩先を歩く。
「シズちゃん。」
「俺が酔ってるって言ったのは、お前だろ?」
 静雄は前を向いたまま、ぶっきらぼうにそう言った。斜め後ろの臨也からはその表情は見えないが、金の髪から覗く耳はほんのりと桜色だ。
 それは酔いのせいだけじゃなく、きっと──。
 臨也は思わず、ぷっと吹き出した。ここで可愛いなんて言ったものなら、確実に静雄は臍を曲げてしまうだろう。だが腹の底から湧き上がる笑い声は、とても抑えることが出来ない。
「何笑ってんだよ。」
「いや?」
 案の定、憮然とした静雄に対し、臨也は肩を竦めることで誤魔化した。隣に並んで身体を密着させれば、静雄の肩がびくんと小さく跳ねる。
 本当は腰を引き寄せるなり、肩を抱くなりしてやりたいと思った。が、せっかく繋いだ手を離すのが勿体ない。
 だから臨也は手を繋いだまま、静雄の首筋にゆっくりと顔を寄せる。驚いた静雄が足を止めるのを見計らい、半開きになったその唇を素早く塞いでしまった。
「んっ、」
 触れていたのはほんの数秒間。殆ど互いの温もりを感じることもないまま、臨也は重ねた唇を直ぐに離してやる。
「…なんて顔してるの。」
「…えっ?、え?」
 まだ混乱したままの静雄は、茫然と臨也の顔を見つめ返すしかなかった。唇には微かに何かの感触が残っていて、今しがたされたことを遅れてやっと理解する。

「なっ──?!」

 顔を赤くして唇を押さえる静雄を見て、臨也は愉しげに低い笑い声を漏らす。ここはまだ新宿駅の地下道で、こんな時間でも行き交う人々は意外に多い。しかし幸いなことに、二人の戯れは誰の目にも留まらなかったようだ。
「続きは家に着いてからね。」
「は!?」
「俺の家に来るってことは、こういうことをしてもいいってことだろう?」
 さらりと爆弾発言を落としながら、臨也は静雄の手を引いて歩き出す。その足取りは軽く、鼻歌も漏らしていて、今更ながら臨也も酔っていることを思い出した。

「…言っておくが俺は男相手は初めてだぞ。」
「俺だってそうだよ。」
「…優しく扱えよ…。」
 唸るようにそう告げる静雄に、臨也はそれはそれは愉しそうに目を眇める。

「そうだね、善処するよ。」

 静雄はマフラーに火照った顔を埋めると、臨也の手をそっと握り返してやった。



(2013/01/01)
HAPPY NEW YEAR
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