cold kiss




「くそっ。」

 吐き捨てるようにそう呟くと、静雄は大きく舌打ちをした。
 大切な弟から貰った大事な衣服はナイフで切り裂かれ、肌には僅かに血が滲んでいる。もうこのシャツは捨てるしかないと思えば、弟への申し訳なさと、ナイフで切り付けて来た天敵への怒りが沸々と湧く。
 アスファルトには先程放り投げた自動販売機が、それはそれは無惨な姿で横たわっていた。商品である缶ジュースが飛び出してしまったそれは、もう使い物にはならないだろう。これでまた静雄の借金の額も増える。
 静雄はそれを苛立たしげに蹴飛ばすと、人通りが疎らな路地を抜け出した。ほんの少し歩けば騒がしい繁華街に出て、雑踏のざわめきや音楽が聞こえて来る。街に流れるクリスマスキャロルの音色。チカチカと瞬く青や金色のイルミネーション。通りにはサンタクロース姿のチラシ配りもいて、もうすぐクリスマスだというのを嫌でも自覚させられた。
 ──嫌な季節だ。
 静雄は不機嫌に眉根を寄せ、人混みを掻き分けるように進んで行く。
 この季節は嫌いだ。華やかなクリスマスツリーも、陽気な音楽も、何もかも静雄の神経を逆撫でする。
 昔は静雄もクリスマスケーキを食べたり、親からのプレゼントが楽しみな子供だった。しかしそれは本当に幼かった頃の話で、いつしか──恐らく高校生の頃から、クリスマスが大嫌いな人間になっていた。
 高校生の頃──それはもう、約十年ほど前の話だ。自分が今よりも青く、ちっぽけな存在だった頃の話。
 人の一生から言えば、十年は長いと言えるだろう。赤子が育ち、物事を考えられる歳になる。つまりそれくらい長い間、静雄は『それ』に縛り付けられていた。





 それは、もう直ぐ冬休みというクリスマスの時期だった。
 吐く息が真っ白で、とても寒い日だったのを覚えている。朝に見た天気予報で、クリスマスは雪が降るかも知れないと言っていたのを思い出した。冷たい冬の空は高く澄んでいて、西の方角が夕陽で赤く染まっていた。
 殆どの生徒が帰宅した校舎。廊下はひんやりとし、歩む足音がやけに周りに響く。そんな人気のない廊下を、静雄は幾分疲れた足取りで歩いていた。
 その日は追試験があり、いつも一緒に帰宅している新羅は先に帰ってしまっていた。静雄が受けた追試はなんとか合格点で、課題であるレポートも無事に提出したところだった。これによって冬休みの補習を何とか免れ、その時の静雄は心底ホッとしていたのだ。
 ゆっくりと休めるという安堵から、少し気が緩んでいたのだろう。校舎は人の気配が殆どなく、自分も早く鞄を取って帰ろうと思っていた。無意識に歩む足は早くなり、リノリウムの床に上履きの擦れる音が反響する。
 自身のクラスの前に着くと、扉を開けようとし──ピタリと静雄の手は止まった。誰も居ないと思っていた教室の中で、誰かの話し声がしたからだ。
 片方は、女の声。
 そしてもう片方は──恐らく静雄がこの世で一番嫌いな男の声。
 嫌な予感がする、と頭の片隅で思いながら、静雄はそっと扉を開けて中の様子を覗いた。どっちにしろこの教室に入らなければ、鞄を取ることが出来ない。
 中に居たのはやはり予想通りの人物で、静雄は内心舌打ちをした。なんで自分のクラスにあいつが居るんだと不満が湧いたが、一緒に居るのは静雄と同じクラスの女だ。他人にあまり関心がない静雄でも、クラスメートの顔くらいは分かっている。
 二人は何かをボソボソと話し、やがて僅かに沈黙が落ちた。そして男の方が小さく首肯すると、やがて顔を寄せ合って──。

 静雄はなるべく慎重に、けれど素早く扉を閉めた。些細な物音や気配で、きっとあの男にはバレてしまうから。
 踵を返し、ゆっくりと元来た道を引き返す。誰もいない廊下を、ただひたすら歩を進めた。そして階段を下り、後ろから誰も追って来ないことを確かめると、静雄はそこから逃げるように走り出した。
 もう鞄のことなんてどうでも良かった。頭がぐちゃぐちゃに混乱していた。怒りなのか羞恥なのか悔しさなのか、何故自分がこんなにも動揺しているのか、理由が全く分からなかった。
 靴を履き替え、校舎の外に出て、静雄はとにかく何かを振り切るように全速力で逃げ出したのだった。



 街はイルミネーションが輝いている。
 赤と緑と金色の光。明るく楽しげなクリスマスソング。ショーウィンドウにはツリーが飾られ、サンタやトナカイの人形が立ち並ぶ。
「…ちくしょう。」
 地を這うような低い声で悪態が出た。いつもは心が騒ぐクリスマスの雰囲気が鬱陶しい。華やかなクリスマスの飾りも、美しい歌声のクリスマスキャロルも、やけに耳障りに感じた。
 嫌なものを見た、と思った。他人の──まして天敵の色事など。興味も無ければ、関わりも無い。どうでも良いことの筈なのに、胸が軋むような気がする。
 ──くそ。
 また悪態を吐きそうになり、思わず片手で口を覆う。いつの間にかメインストリートを抜け、中央公園へと足が向いていた。いつも人や猫で賑わう公園は、寒さのせいか人の姿は疎らだった。
 円形になったベンチの前を通り、短いアーケードをくぐってビルへと向かう。取り敢えず寒さを凌ぐ為に、何かの建物に入ろうと思った。鞄だけではなくマフラーも学校に忘れて来たのだ。この時期に制服だけの軽装では、さすがの静雄も寒さが堪える。
 俯き、溜息を吐きながら静雄が扉に手を掛けた時──背後から、ポン、と軽く肩を叩かれた。
「え、」
 驚いて後ろを振り返れば、愉しげに眇められた赤い瞳と視線がぶつかる。
「っ、臨也!」
「忘れ物。」
 口端を吊り上げながら、臨也は手にした鞄を静雄へと押し付ける。学生が持つ鞄にしては軽いそれは、ろくに教科書が入っていない静雄の物だ。
「バッグを忘れて帰るとか、少し間抜け過ぎない?」
 ククッと低い声で笑って、臨也は芝居がかった仕草で静雄の顔を覗き込む。こちらを揶揄するようなその眼差しに、静雄の眉間に深く皺が寄った。
「お前、なんで──、」
 ──ここにいるんだ。
 彼女はどうしたのだとか、ひょっとして追って来たのかとか、訊きたいことは多々あった。
 が、結局静雄は口を貝のように閉ざしてしまう。自分から覗いてましたなんて言えるわけもない。例え、本人には既にバレている事だったとしても。
 途中で口を噤んだ静雄をどう思ったのか、臨也は喉奥で低い笑い声を洩らす。何がそんなに愉しいのか、この男はいつも笑ってばかりいる。
「勿論、シズちゃんを追い掛けて来たんだよ。」
「…何で。」
「逃げられたら追ってしまうのは、人間の本能かもね。」
「意味分かんねえよ。」
 静雄は小さく首を振り、諦めたように壁に背を付く。ガラスの扉の向こうはきっと暖かいだろうに、ここの通路の壁はまだ冷たい。
「キスシーンが嫌なのか、俺のだから嫌なのか、どっちなのかな。」
 ──嫌な男だ。
 静雄は努めて平静を装って、内心で強く毒を吐いた。自分でも良く分からない複雑な胸中を、この男は既にお見通しだとでも言うのか。
「見たくて見たわけじゃねえ。」
「分かってるよ。出歯亀なんて、シズちゃんらしくない行為だしね。」
 そう言って笑う臨也の顔は白い。常に余裕めいたこの男でも、寒いのは苦手なようだ。
「でもね、あれは頬にキスしただけなんだ。」
「は?」
 思わず間抜けな声が出た静雄に、臨也はまるで悪戯が成功した悪ガキみたいに笑う。
「『キスしてくれたら諦める』だなんて、まるで少女マンガみたいだと思わない?」
 だから気紛れにしてあげたのだと、臨也は嘲るように嗤う。臨也にとって、興味が湧かない人間が自分をどう思おうが、関係無いことなのだろう。ただ面白そうだから、という理由だけで相手に口付けてやったのだ。
「…趣味わりぃな。」
「俺としては、どうしてシズちゃんが逃げ出したのかが興味あるんだけどね。」
 笑いを滲ませて言われた言葉に、静雄はまた黙り込む。自分でも良く分からない行動なのに、それを答えられるわけもない。
 端から答えなど期待していないのか、臨也はそれ以上は促して来なかった。いつの間にか忘れて来た静雄のマフラーを手にし、壁に凭れた静雄の方へと一歩近付く。
「シズちゃんって、ファーストキスはまだ?」
「なっ、」
 何でそんなことを訊かれなきゃならない──。
 さっと頬が紅潮するのが自分でも良く分かった。怒りのせいか羞恥のせいか、恐らく後者だろうけど。
「そっか。じゃあ、」
 臨也の赤い双眸が、眩しいものでも見るかのように細められる。首にふわりとマフラーが巻かれ、静雄の意識は一瞬そちらに逸らされた。
 ──何が、「じゃあ」だ?
 そう問う筈だった唇は、臨也の冷たい唇によってあっさりと塞がれてしまった。

 ──え?

 柔らかく、乾いた感触がするりと表面をなぞる。驚きで固まった静雄の目に、睫毛を僅かに伏せた赤い瞳が映り込む。
 それは明らかに、キスという行為。
 もし、誰か第三者がここを通り掛かっても、二人が何をしていたか分からなかっただろう。臨也は上手いことマフラーで静雄を覆い隠し、直ぐに唇も離してしまったから。
 それは後から思えば、酷く幼稚な口付けだった。唇同士が触れ合っただけで、時間もそんなに長くはない。熱を感じることもなく、行為に意味も存在しない。子供のような、戯れのキス。
 けれど静雄はこの瞬間から、呪いに掛かってしまったのだ。




 ──あれから約十年。静雄の呪いは未だに解けない。

 街にはクリスマスソングが流れ、美しいイルミネーションに人々は歓声を上げる。人も、街も、十年も経てば変わるのに、静雄だけが取り残されたまま。
 たまに思い出す唇の感触は、この時期になるとハッキリと痛みを伴った。
 何度も唇を拭った。乱暴に、痛いほどに。
 乾燥する季節だからというわけでも無く、静雄の唇はこの時期は荒れている。感触を忘れたくて吸い始めた煙草も、この季節は本数が増える。
 臨也は覚えちゃいないだろう。あんな子供騙しのキスのことなど。案外覚えていても、他のたくさんいた彼女とのキスと、記憶が混ざっているに違いない。
 だから、あのキスに囚われているのは、静雄だけ。静雄だけが、未だにあのキスを忘れられない。
 瞬くネオンを視界の端に捉えながら、静雄は目の前にあるクリスマスツリーを睨み付ける。反射するLEDの光、赤や黄色のプレゼントボックス。サンタクロースと同じ格好の小人たち、杖を持ったスノーマン。

 クリスマスは嫌いだ。あの時の事を思い出すから。
 少しでもあいつが思い出さないか、期待してしまう自分がいるから。
 何時までもそれを引き擦る、自分が大嫌いだから。

 静雄は煙草を一本を咥え、再び街へと歩き出した。今年も後少しでクリスマスが終わる。そうすれば直ぐに年が明け、新たな年がやって来る。そうすれば多忙になり、こんな下らないことはあまり思い出さないようになるだろう。少なくとも次の十二月までは、忘れた振りをすることが出来る。
 紫煙が舞う煙草を離すと、静雄はまた手の甲で乱暴に唇を拭った。荒れて乾いた唇は、ほんのりと血の味がする。
 十年という長い月日が経ちながら、静雄はまだこの感情に名前を付けてはいなかった。




(2012/12/26)
クリスマスに遅刻。
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