I'm always with you.





 折原臨也が死んだ──んだろう、多分。


 新羅はマグカップにコーヒーを注ぎ、ミルクと角砂糖を準備する。ミルクはふたつ、角砂糖はみっつ。
 新羅には甘過ぎるそれは、静雄用の飲み物だ。
 静雄は「サンキュー」と小さく言って、それらをぶちこんだコーヒーをかき混ぜて、一口飲む。本当はブラックだって飲めるくせに、静雄はこの甘いコーヒーが好きだ。疲れてる時は甘いものが欲しくなるというし、静雄も案外疲れてるのかなあ…なんて新羅は思う。
 少しだけ顔色の悪い静雄から、新羅は恐る恐るその隣へと視線を走らせた。真っ黒な髪に真っ黒な衣服。とても性格が悪い癖にそれと反比例した綺麗な顔で、臨也がにっこりと微笑んで突っ立っている。明らかに不自然な──半透明な姿で。

 ──これって幽霊っていうのかな…。

 新羅はゾクゾクと肌が粟立つのを感じながら、それを誤魔化すように熱いコーヒーを口に含んだ。勿論そんなことをしても、目の前の幽霊は消えてはくれないのだけれど。


 臨也の幽霊が見えるようになったのは、今から十日ほど前のことだ。どうやら静雄には見えぬらしく、必死に空中を指差す新羅を、静雄は可哀想な者を見る目で見返して来た。よりによって静雄にそんな目で見られるのは屈辱である。
 初めは自分の幻覚かと思ったが、臨也のそんな姿が見えるのは自分だけではなかった。セルティや門田、サイモンや来良の高校生たち、臨也とは直接知り合いじゃない者にまで、その姿ははっきりと見えるらしい。そのせいでダラーズの掲示板は今、その話題で持ちきりだ。
 幽霊ということは死んでいるかも知れないと言うことで、臨也が誰かの怨みを買って刺されたとか、交通事故に遭っただとか、何か重い病気だったのだろうとか、ネットでは様々な憶測が飛び交っている。中でも一番有名なのは、『平和島静雄がとうとう折原臨也を殺した。』という噂である。
 折原臨也の幽霊は、何故か静雄の傍で目撃されるのだ。それはつまり、臨也が自分を殺した静雄を怨んで憑いている──という噂を産む。この二人が仲が悪いのはこの街では有名だったので、池袋にいる殆どの者がこの噂を口にしていた。──尤も本気で信じている者など少なかっただろうが。
 新羅もさすがに静雄が臨也を殺しただなんて思ってはいない。寧ろ臨也は静雄以外に殺される可能性の方が高いだろうとふんでいた。以前は刺されたこともあるのだし、新宿の情報屋を邪魔に思う者はかなり多いのだ。
 新羅はそこまで考えながら、ハーっとカップに向かって大きく息を吐いた。そうして舞い上がったコーヒーの湯気越しに、臨也の幽霊をそっと盗み見る。
 こちらの思惑など知ってか知らずか、臨也は至極愉しそうに静雄を眺めていた。その姿はとてもこの世に未練や怨みを遺した霊には見えない。相変わらず余裕綽々のシニカルな笑みと、人を食ったような態度。生前と少しも変わらない。
 セルティや門田、他の者たちも臨也について色々調べ回っていた。新羅は矢霧の女にも連絡を取ってみたが、臨也は二週間ほど前から行方不明だと言う。普段は雇い主に冷たいあの女性も、今度ばかりは心配しているようだった。臨也の幽霊の噂は、彼女の耳にも届いているのだろう。
 本当に死んでいるのか、はたまた生きているのか──。以前、新羅は恐る恐る幽霊である本人に聞いて見たものの、臨也からは何も返答は無かった。はっきりと姿は見えても、どうやら会話は出来ないらしい。悪さをするわけでもないし、憑かれている静雄は平気なようなので、どちらにしろ新羅はどうすることも出来なかった。


 ──もし、臨也が本当に死んだのだとしたら。
 彼の心残りは静雄だったのだろうな、と新羅は思う。
 こんな風に幽霊になってまで、静雄の傍に居るのはそういうことなのだろう。例え静雄本人に見えなくても、会話をすることが出来なくても、きっと彼は傍に居るだけでいいのだ。きっと臨也は静雄のことを──好きだったのだろうから。

 新羅はマグカップに視線を落とし、今よりもっと若かった高校生の頃を思い出していた。初めて二人が会った時のことや、些細な言い争いからの喧嘩、半壊した教室や、穴の開いた壁や廊下。
 思えば恐ろしい関係だったなあ、と新羅は口許に苦笑を浮かべる。喧嘩をして、陥れて、傷付けあって。この関係のどこに、互いに惹かれ合う要素があったというのだろう。
 ──そう、恐らく二人は互いに惹かれていた。正確に言えば、惹かれているとか好きだとか恋だとか愛だとか、そんな歯の浮くような言葉では表せない感情だったのだろう。それは執心や執着という言葉の方が似合うような関係だった。例え本人たちが頑なに、それを認めようとしなかったとしても。
 静雄が臨也を睨む眼差しは、嫌悪と憎悪とそして少しの切なさを孕んでいた。何だ二人とも同じなんじゃないか──新羅はそれを見て呆れと苦笑を覚えたものだ。馬鹿馬鹿しい、好きなら好きって言えばいいのに。好きな子を苛める小学生じゃあるまいし!
 二人の気持ちを分かっていて、新羅は敢えてそれを黙っていた。自分はあくまでも他人。本人同士が歩み寄らないのなら、口を出すべきではない。どちらの味方もせず、中立の立場で、二人の関係をただ傍観しているだけ。

 ──でも、今思えば。

 コーヒーに映る自分の顔を見て、新羅は考える。
 今思えば、少し背中を押すくらいはしてやれば良かったのかも知れない。こんな風に、片方が死んで幽霊になってしまうのなら。こんな風に、生身では身を寄せることも出来なくなるのなら。
 新羅の胸に巣くうのは、後悔と言う名の重い痛み。傍観者気取りでいた昔の自分に、諦念じみた思いを抱く。今更こんなことを思い出しても、もう遅いのだけど。

「そろそろ帰る。」
 甘ったるいコーヒーを飲み干して、やがて静雄は立ち上がった。気付けば新羅が持つカップも冷えてしまっていて、一体どれくらい考えに沈んでいたのだろうと苦笑する。
 玄関先までいつものように送ろうと付いて行くと、靴を履いた静雄が不意に新羅を振り返った。
「最近お前んちに──、」
「え?」
「…いや、やっぱ何でもねえ。」
 きょとんとする新羅から目を逸らし、静雄は再びこちらに背を向ける。いつもはっきりと物事を言う静雄が、何かを言い掛けてやめるだなんて珍しい。
 ──最近お前んちに、臨也は来てるか?
 恐らく訊きたかったことはそんなところだろう。噂に疎い静雄は、臨也の幽霊が自分に憑いているなんて夢にも思っていない筈だ。周囲も静雄には言いづらいだろうし、静雄自身はきっとまだ何も知らない。
 けれど臨也が最近池袋に姿を見せないことを、静雄は不審に思っている。いつも顔を合わせれば喧嘩をしていた男が急に現れなくなったら、怪しんで当たり前だろうと思う。特に静雄は臨也の気配には敏感で、池袋に現れれば直ぐ察知する。
 何か臨也にあった、とは静雄も考えているだろう。素直に心配だとは口にはしないだろうけど、臨也が行方不明なことを知ったら──静雄はどうなるのか。

 ズキン、と、また新羅の胸が痛む。
 また自分は何も言えない。昔と同じく何も口に出せない。今度は傍観者気取りのつもりはないけれど、臨也の幽霊だなんて静雄が信じるわけがない。
「じゃあな。」
「うん、また──。」
 短い挨拶を残し、今度こそ静雄は部屋を出て行く。その背中が消えた扉に、半透明な臨也の体がすり抜けて行った。こちらを振り返ることもなく、昔も今も、静雄だけをただ追いかけて。

 静雄だけに見えない臨也。
 静雄の傍にだけ居る臨也。

 あの赤い目は、もう新羅を見ることは二度とない。

 後に残された新羅は、暫くその場に立ち尽くしていた。




(2012/11/22)
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