One shold not interfere in lover's quarrels.


※R18表現あり。






 金木犀の香りがする季節になった。
 甘ったるい香りを漂わせるオレンジ色の花を見ながら、門田は学校への道を急いでいた。
 この季節になると、昼は暖かいものの朝晩は殊更冷える。さすがに吐息が白くなることはまだないが、時折頬を撫でる風は冷たくて、門田は思わず肩を竦めてしまった。
 この寒さでは、そろそろマフラーでもした方がいいかも知れない。実際、通学路を歩く生徒たちの中には、既にマフラー姿の者もちらほらといる。
 校門を潜り、校内へと足を踏み入れると、ふと周りの空気が変わったのに気付いた。不思議に思って前方に目を向ければ、見知った金髪の男がちょうど昇降口へと入って来るところだった。
 なるほど、周囲のこのざわつきは静雄が原因か──。
 門田は納得しながらも、内心で小さく苦笑した。この学校どころか、池袋の街で知らぬ者がいないほどの有名人の登場である。
 畏怖と羨望と好奇の視線を向けられながらも、静雄はそれを全く気にした様子はない。慣れているのか、鈍いだけか──相変わらず無愛想な表情で、眠たそうに目を擦りながらこちらへ歩いて来る。
「おはよう、静雄。」
 擦れ違い様に声を掛けると、静雄は一瞬キョトン、と何を言われたのか分からぬ顔をした。その表情はほんの少し幼さを感じさせ、いつもの無愛想な顔とは大分印象が違う。
「…はよ。」
 静雄は短く門田に挨拶を返すと、直ぐに興味を失ったように歩き去ってしまった。顔もあっという間にいつもの仏頂面に元通りだ。不機嫌なわけではなく、あれが普段の静雄の顔なのだろう。それがなんだか可笑しくて、門田は僅かに口許を綻ばせる。

「おはよう、ドタチン。」

 その時、ぽんと些か強い力で肩を叩かれ、門田は驚いて後ろを振り返った。それと同時に、振り返った頬に相手の人差し指が突き刺さる。
「──は、」
「引っ掛かったー。」
 あははっ、とわざとらしいくらい大きな笑い声を上げ、臨也が門田の背中をまた強く叩いた。
「ドタチン、無防備過ぎ。」
「お前な…、」
 叩かれた背中は痛いし、悪戯される意味も分からない。それにその変なあだ名も勘弁して欲しい。
 臨也の登場で周囲が再びざわつき始めたのを感じながら、門田は静雄が消えた方向を見て安堵の溜め息を吐いた。もし朝っぱらから二人が鉢合わせでもしたら、今日一日授業にならなかったかも知れない。
「何してたの?ボーッと突っ立ってさ。」
「いや…。」
 別に呆けていたわけではない。門田は曖昧に返事を返して、さっさと上履きに履き替えた。
 平和島静雄も折原臨也も人々に恐れられているけれど、要注意すべきなのは後者の人物だと門田は思っている。静雄は意外に分かり易いが、臨也は得体が知れないところが多々ある男だ。そして二人の傍にいつもいる、岸谷新羅も同様に。
「シズちゃんに話し掛けられるのは、俺と新羅以外じゃドタチンだけかもねえ。」
 笑いを含んだその声に、門田は僅かに目を瞠った。見ていたのか、という言葉を咄嗟に飲み込んだのは、何だか嫌な空気を臨也から察したからだ。
「シズちゃんも、ドタチンには何だか打ち解けてるみたいだし。」
「…話しかけても、返事が返ってくるのは二割くらいだぞ。」
 静雄は機嫌が悪いと返事をしない。いや、機嫌の善し悪しよりも、そもそもこちらの話を聞いているのか怪しい。
「それってつまり、ドタチンを警戒してないってことだよ。」
 臨也は赤い双眸を眇め、声を上げて大袈裟に笑う。その声も顔も仕草も、やけに愉しそうに見えるのに、肌が粟立つような気がするのは何故なのだろう。
 門田は臨也から目を逸らし、「そうか。」と答えることしか出来なかった。



 折原臨也と平和島静雄は仲が悪い──。

 これは周知の事実である。彼らは顔を見合わせれば睨み合い、罵り合い、まるで空気を吸うかのように自然に喧嘩をしていた。
 ナイフで相手を切り付け、標識で相手を殴ろうとすることを、果たしてただの喧嘩と言えるのかは微妙なところだ。喧嘩というよりは殺し合いに近く、この行為により周りは多大な迷惑を被る。
 壁が破壊された教室、穴の開いたグラウンド、床がぶち抜かれた廊下。毎日毎日学校で大暴れをしているのに、怪我人が殆どいないのは奇跡に近いと思う。
 これだけの騒ぎを起こしていて、良く二人とも退学処分にならないものだ。ひょっとしたら裏で臨也が何かを手を引いているのかも知れないが、流石に門田はそこまで詮索する気はない。
 平和に、平穏に。高校生活を無事に三年間過ごせればそれでいい。あの二人の間でニコニコしている岸谷新羅のように、どちらの味方もせずに傍観者でいたい。
 そんな風に傍観している門田の目から見て、どちらかと言えば臨也の方が静雄に執心しているように見えた。静雄の何がそこまで気に入らないのか、臨也は何時も執拗に静雄に絡む。そして静雄の方も、たださえ沸点が低いのに臨也が絡むと直ぐに怒りのメーターが振り切れる。
 そんな二人を見ていると、門田は好きな子を苛めてしまう小学生を思い出してしまう。『好き』、なんて感情はあの二人からは程遠いものではあるが、そんな風に見えてしまうのだから仕方がない。
 この年齢になれば世の中は『好き』と『嫌い』だけではないことも知っている。きっとあの二人の間にも、複雑な感情が渦巻いているのだろう。ひょっとしたら本人たちも気付いてないかも知れない、重くて苦くて激しい感情が──。
 ぼんやりとそんなことを考えているうちに予鈴が鳴ってしまった。門田は慌てて教室へと向かって走る。
 いつの間にか昇降口には人が減り、臨也の姿も当然もう無かった。



 ──放課後。
 磨き上げられたリノリウムの床を、門田は小さな足音を立てて足早に歩く。赤い夕陽に照らされた廊下には、長い長い自分の影が伸びている。
 どこかの窓が開いているのか、ふわりと鼻先を擽る金木犀の匂い。時折緩やかな風が入り込んで、髪の毛が僅かにそよぐ。門田は窓の外に見える秋の夕空を見上げながら、自分の教室を目指していた。
 閑散とした校内には、殆ど残っている生徒の気配はない。グラウンドから聞こえる歓声は、部活動に励む者たちのものだろう。決して煩くはない筈なのに、ざわついた学校の雰囲気。ブラスバンドの演奏が遠くに聞こえ、どこからか小さな笑い声が響く。
 忘れ物に気付いたのが、学校を出る前で良かったと思う。今日教師から渡されたプリントは、明日の朝に提出しなければならないものだ。忘れたところで一日ぐらい教師は大目に見てくれるだろうが、何となく自分自身が気持ちが悪い。
 ──確かに鞄に入れた筈なんだがな。
 門田は首を捻りながら、早足に廊下を進んでゆく。もしもプリントを失くしたとしたら面倒だ。教師からお小言を食らい、また新しく貰わねばならないだろう。机の中に忘れていることを祈るばかりだ。
 階段を上り、廊下の端の教室が門田のクラスだ。窓から夕陽の光が射し込むとはいえ、蛍光灯が点いていない廊下は少し薄暗い。
 クラスの前に着き、扉の取っ手に手を掛けようとして──門田は動きを止めた。
 ──中から声がする。
 それが何かの物音や、ただの話し声だったならば、門田も気にはしなかっただろう。けれど耳に飛び込んで来たその声は、明らかに誰かの──、

「…あ…っ、」

 押し殺したような嬌声。
 微かな衣擦れの音。
 たまに床を擦ったような甲高い音がするのは、机か椅子が動いたからだろう。やけに静かな空間に、荒い息遣いが響く。
 そして門田にとって運が悪いことに、扉は五センチほどの隙間が開いていた。
 決して覗こうとしたわけではない。──いや、門田だって年頃だ。興味が無かったわけではない。けれどその中を覗き込むのは、酷く背徳的で嫌な気持ちになった。罪悪感にも似た、酷く複雑で不安定な感情。
 隙間から見える床の上。たくさんの机と椅子に囲まれて、やけに白い腕が見える。床に投げ出されたブレザーの制服。真っ白なワイシャツの背中に回された真っ黒な腕は、きっと学ランだ。

「…んっ、臨也…っ、」

 嬌声混じりのその言葉を聞いた途端、門田の体が凍り付いた。
 ──臨也だって?
 この学校でそんな珍しい名前を持つ人間を、残念ながら門田は一人しか知らない。作り物めいた綺麗な顔、真っ黒な学ラン姿。
「あっ、…や、んんっ、」
 ガタガタと震える机と、肉がぶつかり合う音がする。まるでアダルトビデオみたいな高い声。
 目の前の学ランに抱きついている相手が、甘えた声と共に背を仰け反らせた。さらりと揺れる、金色の髪の毛──。

 ──静雄?

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。さあっ、と門田の体から血の気が一気に引いてゆく。質の悪い冗談か、はたまた悪い夢でも見ているような気がする。
 毎日殺し合いをしているような仲の二人が、放課後の教室でセックスをしている──?
 一体なんの冗談だ。
 門田は目の前の光景が信じられず、ふらりと一歩後退した。心臓がバクバクと音を立て、驚きと衝撃で指先が震えている。頭の中は酷く混乱していて、どうすればいいのか分からない。
 そのとき不意に、静雄の腰を抱いていた臨也が顔を上げた。真っ直ぐに迷うことなく、廊下で立ち竦む門田をその目が射抜く。
「…っ、」
 思わず声を上げそうになり、門田は慌てて口を噤んだ。見なかった振りをして帰れば良かったのに、もう後の祭りだと後悔が押し寄せる。
 臨也は門田の視線を捉えると、赤い双眸を僅かに眇めた。こちらを見るその表情からは、驚きも動揺も一切感じられない。寧ろ愉しげに口端を吊り上げて、臨也はシニカルに笑った。

 ──ひ・み・つ。

 唇の動きだけでそう言って、臨也は人差し指を唇の前で立てる。
 誰にも言うなということか、それとも静雄には黙ってろということか──恐らく両方の意味で。
 臨也は門田から目を逸らすと、それっきりこちらを見ようとはしなかった。自分の腰に跨がる静雄の背中を掻き抱き、乱暴に髪の毛を掴んで口付ける。
「っ、ん、…ん、んっー。」
 ガンガンと穿つ腰の動きを激しくしながら、臨也は静雄の嬌声が洩れぬように唇を塞ぐ。それに静雄は僅かに抵抗をみせるものの、結局は臨也の口付けに応えてゆく。
 激しくなる動き、汗ばんだ体、荒い息遣い。扉の向こうにいる門田に見せつけるかのように、二人の行為はどんどんエスカレートしてゆく。
 それはまるで、餓えた獣の性交渉みたいに。
 門田はこれ以上見ていられず、そっと扉を閉めてその場を後にした。来た時よりも太陽は沈み、廊下はますます薄暗い。そんな静かな校内を、何かに追い立てられるように足早に進む。
 少しだけ冷静さを取り戻した頭に、臨也が抱えた静雄の白い太腿が思い出された。やけに扇情的でなまめかしい脚は、臨也を離すまいと腰に絡み付いていた。
 静雄には嫌がっていた様子もなく、あれはお互い合意の上での行為なのだと知れる。それももう何度も繰り返され、二人の間には慣れた空気も窺わせていた。
 臨也も静雄も、門田が今まで見たことのない表情をしていたと思う。あの甘い声だとて、普段の静雄からは想像も付かないほどの艶声だ。それらは当分の間、門田の頭から離れてくれないだろう。あの二人を見かけるたびに、思い出してしまうに決まっている。

 ──憂鬱だ。

 逃げるように学校の外へ出ると、門田は深い深い溜め息を吐いた。もう少し頭を冷やさなければ、家に帰る気も起きやしない。今はまだ、誰にも会いたくはなかった。
 男同士の性行為を見てしまったことに、嫌悪感を抱いたわけではない。それが知り合いで、それもあの二人だということにかなりの衝撃を受けたものの、感じたのは嫌悪よりも混乱の方が大きかった。
 門田はのろのろと重い足取りで、暗くなり始めた池袋の街を彷徨い歩く。ネオンや街灯の灯りを見上げながら、そういえばプリントを持って来なかったことを思い出した。
 さすがにもう一度あの教室に行く気は起きない。二人とも既にあの場所には居ないかも知れないが、それでも門田はもう学校には行きたくはなかった。明日提出しなければならないプリントだったというのに──自分の不運さを呪うしかない。
 あの二人も、何故好き好んで他人のクラスであんなことをしていたのだろう。せめて自分たちのクラスでやれ──と恨み言を考えて、門田はハッとした。
 ──まさか。
 嫌な汗が背筋を伝う。
 鞄に入れた筈のプリント。
 こちらを真っ直ぐに射抜いた臨也の瞳。
 見せ付けるように激しくなったあの行為。

 ──わざと、なのか?

 門田に対する牽制か警告か。
 静雄に対する異常な執着心を見ていれば、折原臨也ならやりそうではある。こんな簡単な謀略はあの男には朝飯前の筈だ。
 きっと静雄の方は何も知らないのだろう。臨也に散々啼かされている最中も、門田に気付いた様子は微塵も感じられなかった。
 門田はくらりと眩暈を感じ、思わず目許を手で押さえる。
 ──冗談じゃない。
 朝に挨拶を交わしたぐらいで、悋気を抱かれては堪ったもんじゃない。本音としてはホモの──いや、あの二人の爛れた関係に巻き込まないで欲しかった。──平和に、平穏に。それが門田の高校生活の目標であるからして。
 頼むから気のせいであってくれと願いながら、門田はゆっくりと家路につく。
 もう街を歩き回る気力も体力も残っていなかった。



 そうして疲れた体を引き擦って家の前に着くと、門田はいつもの癖でポストを覗き込む。なんの変哲もない銀色の郵便ポスト。その中にはダイレクトメールと幾つかのチラシと、四つに折り畳まれた何かの紙。
「…なんだ?」
 嫌な予感がしつつも、門田はそれを手に取ってみる。折られたそれを広げて見れば、『進路希望書』という堅苦しい文字。文章の一番最後には、ご丁寧に学校名が印字されている。
 それは門田が忘れたと思っていたプリントだった。そしてその余白には見慣れぬ文字で、『忘れ物』と書かれた付箋紙が貼ってある。──その文字が誰の字かなんて、愚問だろう。

 門田は再びクラクラと眩暈を感じながら、深い深い溜め息を吐いたのだった。



(2012/11/13)
め郎さんリクエスト「他者視点のイザシズ」
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