Thank you for being born.




 寝室から出て来た静雄は、真っ先に玄関へと向かった。
 寝起きだというのに表情も服装もちゃんとしていて、僅かに寝癖が付いた後ろ髪を手櫛で整える。人工的に染め上げたとは思えない、蜂蜜色の綺麗な髪。
「もう帰るのか。」
 そんな静雄の後ろ姿を、デリックが眉尻を下げて見ていた。その表情は無愛想なものの、静雄が帰ることを寂しがっているようにも見えた。
「ああ、仕事あるし。」
 答える静雄の方は淡々としている。ポケットから取り出した携帯電話で時間を確認し、トレードマークである青いサングラスを顔に掛けた。そうすればあっという間に、いつもの『平和島静雄』の出来上がりだ。
「マスターが寝ているうちに帰るなんて、まるで逃げるみたいだね?」
 低く笑い声を上げたのは、デリックの後ろにいるサイケだ。デリックはそんなサイケを睨み付けるが、サイケの方は全く気にする様子もない。
「はっ、逃げるが勝ちって言うだろ?」
 静雄は特に怒ることもなく、鼻で笑うだけだ。普段は短気で怒りっぽい癖に、デリックとサイケには怒りを露わにしたことがない。それは自分たちと同じ顔をしているせいかも知れないし、デリックとサイケが『人間』ではないせいかも知れない。
「ああ、そうだ、サイケ。」
 そのまま部屋を出て行こうとした静雄は、突然こちらを振り返った。訝しげな顔をするサイケに対し、傍に寄るように手招きをする。
 静雄は近付いたサイケの肩に腕を回すと、ぼそぼそと低い声で何かを囁いた。デリックの性能の良い聴力でも、それは低過ぎて聞き取れない声だ。
 静雄の長くて細い指が、サイケの肩を優しく叩く。サイケはそのピンク色の瞳を僅かに見開くが、やがて静雄の言葉に小さく首肯した。
 そんな二人の様子を見ていると、チクリとデリックの胸が痛む。体内のどこかの回路が、ショートして焼き付いてしまう気がする。人間ではない、紛い物の体の癖に、胸が痛むだなんて。
「じゃ、またな。」
 静雄はサイケから手を離すと、デリックの方を見て大らかに笑った。もやもやとした想いを抱えたデリックは、それに咄嗟に答えられない。
 そんなデリックを気にすることなく、静雄はさっさと扉の向こうへ消えてしまう。
「あ、」
 扉は音もなく目の前で閉まった。
 デリックはそれを見て、小さく唇を噛み締める。静雄と次に会えるのはいつか分からないというのに、自分は別れの挨拶さえ満足に返せないとは。
「寂しい?」
 玄関口で立ち竦むデリックの背中に、サイケの笑い混じりの言葉が投げ付けられた。嘲笑か、単なる揶揄か、サイケの笑みは自分たちのマスターに似てシニカルで、見る者を微かに苛つかせる。
「デリックはシズちゃんが大好きだもんねえ。」
 サイケのその言葉は事実だ。自分と同じ顔、同じ声、同じ姿をしている静雄を、デリックは何よりも愛している。
「でもそれってナルシストみたいだよね。」
「悪いかよ。」
「別に悪いとは言ってないさ、でもシズちゃんはマスターのものだろうに。」
 そんなことは分かっている──。
 デリックはそう吐き捨てたいのを寸前で堪え、サイケに背を向けてリビングへと足早に戻った。
 静雄は最初から、自分たちのマスターである折原臨也しか見ていない。そして臨也の方も、最初から静雄しか見ていない。
 自分たちはただ、臨也が気紛れに生み出した偽物の存在に過ぎない。そんな自分が誰かを好きだの嫌いだの言うのは、まるで人間ごっこでもしているみたいに滑稽だった。

「嫉妬した?」
「…なに?」

 真っ黒で革張りのソファーに腰掛けると、サイケが笑いながら訊ねて来る。付けっぱなしのテレビからは朝の天気予報が流れていて、今日も一日晴天であることを告げている。
「俺がシズちゃんと内緒話したから、嫉妬したりした?」
 ソファーに置かれたクッションを抱きかかえ、サイケはピンク色の目を僅かに細めた。その顔に浮かんだ笑みは、何だかやけに楽しそうだ。
「んなわけねえだろ。」
 自分たちにそんな人間みたいな感情があるわけがない。
 今こうして話しているのも、頭の中のプログラムが判断して実行しているのだ。作られた人工言語、計算されたアルゴリズム。
「どっちに嫉妬したの?」
 素っ気ないデリックの否定にも、サイケは怯むことはない。
「どっちって?」
「俺とシズちゃん、どっちに妬いた?」
 サイケの華奢な手が伸びて、デリックの細い手首を掴む。ピク、と思わず身体が跳ねるのは、サイケの意図が理解出来ないからだろうか。
「…お前が何言ってんのか分かんねえんだけど。」
「そうだろうね、君は鈍いからなあ。」
 サイケに強く手を引かれ、そのままソファーの上に倒れ込む。背中に回された腕と、至近距離にある顔。さらりと冷たい指先で頬を撫でられ、デリックの胸がまた痛んだ気がした。

「朝っぱらから盛ってるね。」

 そのとき後ろから声がして、デリックは慌ててサイケから離れた。驚いて後ろを振り返れば、リビングの扉に自分たちを作った男が立っている。
「マスター。」
「シズちゃんは?」
 自分たちと同じ顔をした者が抱き合っていても、臨也は特に気にした風もない。欠伸をしながらリビングに入り、不機嫌そうに部屋の中を見回した。羽織っただけのシャツは前がはだけ、昨夜の情事の痕が色濃く残っている。寝起きが悪い彼は、朝はいつも機嫌が良くない。
「帰ったよ。仕事があるからって。」
 本当かどうかは分からないけど。
 余計な一言をそう付け足して、サイケはソファーのクッションを抱え直した。なんとなくその顔が不機嫌に見えるのは、デリックの気のせいだろうか。
「そう。他には何か言ってた?」
「ああ、そういえば───、」
 急に思い出したようにサイケは立ち上がり、臨也の耳許にその唇を寄せた。ひそひそと囁かれる声。小さく薄く、開く唇。
 全く同じ顔、同じ姿で寄り添う二人。サイケの手が臨也の腕を掴み、臨也もまたサイケに顔を近付ける。
 ──そんな二人を見ているだけで、デリックの胸がまたズキリと痛んだ。
 痛む胸に手をやって、デリックは眉根を寄せる。どうして最近こんなに身体に違和感を覚えるのだろう。どんなにハードディスクをスキャンしても、デフラグを繰り返しても、こんな風に胸が痛む時がある。
「…ふうん。」
 臨也は片眉を吊り上げると、何やら意味ありげにデリックの方を見た。
 こんな風にサイケと全く同じ顔で見つめられると、なんだかデリックは落ち着かない。その整った顔で違うのは、瞳の色だけなのだ。
「いいよ。じゃあ俺はもう一眠りするから。」
 そう言って臨也がデスクから取り出したのは、一枚のクレジットカードだった。人間が買い物の時に使う、便利なカード。
「これでそこら辺、デートでもしておいで。Suicaも勝手に使っていいよ。但し遣い過ぎないように。」
 と、まるで母親のようなことを言って、臨也はリビングを出て行く。
「え?」
 後に残されたデリックは、言われた言葉にポカンとするしかなかった。──臨也は今なんと言った?デートと言わなかったか?
「初めてだね、外出するの。」
 臨也から受け取った黒いカードを弄びながら、サイケはこちらの顔を覗き込む。ピンク色の美しい虹彩が、唖然としているデリックの顔を映していた。
「ずっと外に出てみたいって言ってただろう?どこに行きたい?何を見たい?近場じゃないと叱られるだろうけど。」
 伸びて来たサイケの手が、困惑したデリックの頬を優しく撫でる。冷たくて、けれどまるで人間のように温もりのある手。この手に触れられる度に、デリックの背筋にゾクリと何かが駆け抜ける気がする。

「……に、」
「え?」

 低い声で答えるデリックに、サイケがますます顔を寄せる。長い睫毛、薄い唇。さらりと揺れるサイケの黒い髪が、デリックの前髪と混ざり合う。
「池袋に、行ってみたい。」
 デリックがそう言葉を続けると、サイケは一瞬驚いた顔になった。が、直ぐにその双眸は剣呑に眇められる。
「シズちゃんに会いたいから?」
「え、」
「だから池袋に行きたいの?」
 頬を撫でていたサイケの手が離れてゆく。優しい温もりが急に自分から離れ、デリックは身体が急速に冷えてゆく気がした。無機質な身体の自分たちに、そんなことは有り得ないというのに。
「そ、そういうわけじゃねえよ。あの二人が出会った場所だから、ちょっと見てみたいだけで。」
「…そう。」
 サイケは僅かに柳眉を吊り上げるが、それ以上は何も言わなかった。デリックとしては、何がそんなにサイケの機嫌を損ねたのか分からない。
 二人の間に沈黙が落ちる。こうしていると、自分の機嫌まで下降してゆく気がする。サイケから目を逸らしながら、デリックは溜息を吐きたい気分だった。
 デリックとサイケは、決して仲が悪いわけではない。オリジナルである二人が仲が悪いからと言って、その関係性まで受け継いだわけではなかった。寧ろ四六時中一緒にいるせいで、仲は良い方なのかも知れないと思う。
 それでも最近、こんな風にサイケのことが理解出来ないことが多かった。元々が違う個体なのだから、全てを理解出来るわけがないのは分かっている。分かってはいるが、何となくもやもやと嫌な気分になってしまう。これが人間の感情でいう、不安というものなのかも知れなかった。
「いいよ。」
 やがて長い沈黙のあと、サイケが口を開く。
「池袋、行ってみようか。」
「…サイケ?」
 その声に諦念じみたものを感じ、デリックは眉を顰める。訝しげに名前を呼んでみても、目の前のサイケは笑みを浮かべているだけだ。
「俺も池袋は行ってみたいと思ってたし。」
 再びサイケの手が伸ばされ、デリックの手を取った。するりと指先を撫でられ、そのまま手の平を優しく包み込む。
「それに、今日は特別だからね。」
「…特別?」
 ──どういう意味だ?
「そう、特別。」

 そう言って口端を吊り上げるサイケに、デリックはただ頷くしか出来なかった。





 二人は新宿の街をゆっくりと歩いた。駅までの道を、空を見上げながら進む。青く澄んだ秋の空。白く斑な雲。風に揺れる木々は紅く色付いている。
 初めて入った新宿駅は、人がごった返していた。老若男女の人の群れ、色とりどりのお店、どこからか香る甘ったるい匂い。
「人間がいっぱいだ。」
 感心したようなデリックの言葉に、サイケは声を上げて笑う。
「出入り口もたくさんあって、まるでダンジョンみたいだね。」
「モンスターとか出ないよな。」
「そしたら走って逃げよう。」
 繋いだサイケの手に力が入る。温かい手。それに酷く安心する自分がいて、デリックは小さく笑って頷いた。
 緑色のラインの電車に乗り、やがて池袋の街に着いても、二人は手を繋いだままだった。たまに擦れ違う人間がそれに気付き、ギョッとした顔になる。人間は大人になると、手を繋がなくなるらしい。それが同性なら尚のこと。
 二人は池袋の駅を出て、取り敢えず繁華街を目指すことにした。駅前も、公道も、建ち並ぶ店も、どこもかしこも人が溢れかえっている。太陽を遮る高い建物、クラクションを鳴らして行き交う車、昼間から瞬くネオン。横断歩道を渡る集団は、みんな騒がしい。
 人々の好奇の目。デリックは初め、注目されるのはこの服装のせいだと思っていた。お互い上から下まで真っ白で、ピンクのシャツやコードが目立つ。その上男同士が手を繋いで歩いてるのだから、人目を引くのは仕方がないだろうと。
 それを言うと、サイケは何故か楽しそうな顔になった。何か悪戯を考えているかのような、少し質の悪い顔。
「ここはね、『池袋』なんだよ。」
「あ?」
「この街では、デリックのその顔は有名なんだ。」
 平和島静雄と同じ顔──。
 池袋最強と言われる男と同じ顔なのだ、注目を浴びるのは仕方がない、とサイケは笑う。そして恐らくは折原臨也も同じ扱いだ。
 池袋の街で、静雄と臨也の喧嘩を目にしたことがある者は多いだろう。二人が仲が悪いのはこの街では有名なわけで、同じ顔をした二人が一緒にいるのはきっと奇特に見えるに違いない。
「静雄に迷惑が掛けちまうかな…。」
 戸惑うデリックに対し、サイケは軽く肩を竦めるだけだ。
「寧ろ面白がるんじゃない?少なくとも怒ったりはしないと思う。」
 シズちゃんは、デリックに甘いし──。サイケの言葉には僅かな苦味が滲んでいたが、デリックはそれに気付かない。
 尚も困惑した様子のデリックの手を強引に引き、サイケは再びさっさと繁華街を歩き出した。
 ティッシュ配りを素通りし、横断歩道を渡ってメインストリートへ入る。タイムセールをするドラッグストア、呼び込みをするメイド、どこからか香る美味しそうな匂い──。
 二人にとっては何もかもが新鮮で、物珍しい光景だった。勿論情報としては知ってはいたが、体験するのとでは全く違う。
 水族館やプラネタリウムを覗き、様々なショップを見て歩く。猫がいる公園に行ってみたり、静雄たちの母校も見に行った。時折吹く冷たい風と、空を流れる白い雲。街路樹は紅葉で色付き、枯れ葉はひらひらと舞い落ちる。
 街を歩いている間中、サイケはずっとデリックの手を離さなかった。最初は困惑していたデリックも、握り返す手に力を込める。
 単に、見知らぬ土地で離れないように、ということだったのかも知れない。それでもサイケの手の感触や温もりは、デリックを酷く安心させてくれる。

「最後に寄りたいところがあるんだけど。」

 東の空が暗くなって来た頃、サイケは振り返ってそう言った。正面の西日が眩しいのか、デリックを見つめる双眸がほんの少し眇められる。
「…別にいいけど、」
 ──どこに?
 小首を傾げて問えば、サイケは口端を吊り上げて歩き出した。どうやら目的地に着くまでは、場所は言わないつもりらしい。
 そうしてデリックが連れて行かれたのは、とあるスイーツの有名店。店内に漂う甘い匂いと、見た目も可愛いスイーツたち。ハロウィンが近いせいか、お店のウィンドウにはオレンジ色のかぼちゃが飾られている。
「ケーキ?」
 マスターにでもお土産にするのだろうか。臨也はそんなに甘い食べ物は食べなかった筈なのに。
「このケーキを1ホール。」
 疑問に思うデリックを前に、サイケは店員に向かって注文をする。それは苺と生クリームをふんだんに使った、オーソドックスな大きなケーキだ。
「そんなに食えるのか?」
 自分たちは食べることが出来ないから、食べるのは臨也ひとりだけだ。
「今日は特別な日だから。」
 ──特別?
 そういえば出掛ける前もそんなことを言っていたことを思い出す。
「今日って、なんかあんの?」
「うん。」
 サイケはそれ以上は何も言わず、大きなケーキとロウソクを受け取って店を出た。目指すは池袋の駅で、帰るのは新宿のマンション。
 外は陽が暮れるのが早く、もう薄暗い。途中、壊れた自動販売機を道端で見かけた。転がった缶ジュースを踏んづけて、サイケはくっくっと喉奥で笑う。
「マスターと派手にやり合ったみたいだね。」
「池袋に来たのか。」
「たぶん、シズちゃんを迎えに来たんだよ。」
 左手にケーキの箱を持ち、右手はデリックの手を握って、サイケは鼻歌を歌い出す。今にもスキップをしそうな足取りをして、随分と機嫌が良いらしい。
「言っただろう?今日は特別な日だから。」
「…俺には何の日か分からない。」
 ハロウィンにはまだ早いし、マスターや静雄の誕生日でもない。では一体何の日だ?
 人が行き交う道の真ん中で、サイケは突然足を止めた。デリックの手を強く握ったまま、腕ひとつ分の距離を詰める。
 鼻先が触れ合うほどの至近距離。デリックの視界いっぱいに、サイケのピンク色の瞳が見える。サイケの瞳には、驚いた顔の自分が映っていた。

「今日はね、君が起動して一年が経った日だよ。」

 ──え?

 思考が停止した。まるでどこかのケーブルが切断されたみたいに。

「朝ね、シズちゃんに言われたんだ。祝ってやれよ、って。」
 サイケの双眸が細められる。自嘲するような、幾分悔しげな笑みを浮かべて。
「それをマスターに言ったら、じゃあケーキでも買ってくればって。」
 今朝のあの内緒話は、こういうことだったらしい。デリックは驚きで目を瞠ったまま、ぽかんとただ口を開けていた。きっと酷く間抜けな顔をしているだろう、と自覚はあった。
「…全然、分からなかった。」
 そう言われて見れば、体内の稼動時間は8760時間を過ぎている。つまり、一年が経ったということだ。
「良くあのシズちゃんが覚えてたよね。それだけ自分と同じ姿の存在は、衝撃的だったのかも知れないけど。」
 ずっと繋がれていた手が離れ、サイケの温かな手がデリックの頬に触れる。涙が出ているわけではないのに、親指で優しく目許をなぞられた。
「俺はマスターやシズちゃんみたいにお金や物で祝ってあげることは出来ないけど──、」
 サイケの手がデリックのヘッドホンに移動し、するりと指先で髪を梳く。その動きは穏やかで優しいのに、デリックの身体は小さく震えた。
「君が造られて本当に良かったと思ってる。自分と同じ存在がいるのは、とても嬉しい。」
 そう言って笑うサイケの顔は、珍しく穏やかだった。内蔵されたプログラムどおりではない、人間みたいに自然な表情。そんなサイケの顔を見ているだけで、デリックのない筈の心臓がまた痛む。
「俺は、」
 震える指先、熱くなる身体。
 どうしてこうもサイケ相手だと、身体に異変が起きるんだろう。静雄と臨也と親密に話しているのを見ただけで、とても嫌な気持ちになる。
「俺はお前に祝われるのが、一番嬉しいと思う。」
 らしくない、消え入りそうな声で、やっとの思いでデリックはそう言った。サイケのことだから笑うかも知れないけれど、これだけは伝えておきたいと思った。
 静雄も臨也も大切だけれど、自分にとってはそれよりも──。

 次の瞬間、デリックは強い力で抱き締められた。
「は、」
 息も付けぬほど──というのはこういうことを言うのだと思う。手にしたケーキが崩れるのも構わずに、サイケは腕の中にデリックを閉じこめる。
「ちょ、サイケ?」
「うん。」
 抱き締める腕は離さぬまま、サイケは顔だけをこちらに向けた。黒い前髪が鼻先を掠め、あまりの近さに瞬きをする。その瞬間に、ちゅ、と可愛らしい音を立て、それは柔らかく重なった。

「な、」

 唇を重ねる行為。
 これは人間が良くやる、キス、というものだ。

「誕生日おめでとう、デリック。」
 目を丸くするデリックを見て、サイケは口端を吊り上げる。その目は面白がっているように見えるのに、何故かデリックを射抜いて離さない。
「今日は取り敢えず、これで我慢してあげる。」
「…我慢って…、今日はってなんだよ。」
 嫌な予感を覚えて問うものの、サイケは笑って答えない。抱き締められていた腕を離したかと思えば、再び手を掴まれてしまった。
 そのまま指を絡め、二人はまた駅へと歩き出す。
 デリックは眩いネオンの光を見て、そういえばここはメインストリートだったことを急に思い出した。
 注がれる驚きと好奇の目。雑踏の中には、茫然と固まっている者も見える。
 ──これはひょっとして、あの二人にかなり迷惑を掛けたんじゃないだろうか。
 青くなるデリックをよそに、サイケの方はえらくご機嫌だった。
 殆ど顔が触れるほどに密着して、歩きづらいだろうに繋いだ手は離さない。駅に向かう足取りは軽く、歩く度にピンクのコードが跳ねる。
 そんなサイケを見ていればデリックも、「ま、いいか。」なんて思ってしまう。

 だって今日は『特別』なのだ。

 今日は自分が起動して一年経った日だけれど、サイケと出逢って一年経った日でもある。
 今日ぐらいは多少あの二人に迷惑を掛けたとしても、許して貰おう。

 デリックは目を細めると、繋いだ手に力を込めた。




(2012/10/31)
デリ誕に盛大に遅刻。
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