a happy love word




 いい匂いがする──。
 くん、と鼻を動かして、静雄は木々が生い茂る住宅街で立ち止まった。良くこの時期に嗅ぐ、甘ったるい匂いが漂って来る。
 キョロキョロと辺りを見回すと、塀の向こうに目的の木を見つけた。可愛らしい、オレンジ色の小さな花。金木犀の木だ。
 ──もう、すっかり秋だな。
 日々吹く風は冷たくなって、朝晩の気温差も激しい。木々も紅く色付き始め、空には一面の鱗雲が広がっている。
 肌に感じる秋の気配は静雄の胸をざわつかせ、一生忘れられないだろう思い出を呼び起こす。
 嬉しさと切なさと、そして罪悪感にも似た感情。あれから一年経っても未だこんな気持ちを抱くのは、静雄の中にまだ隔たりがあるからだろう。

「何してるの?」

 ぽん、と軽い調子で肩を叩かれて、静雄は驚きで肩を跳ねらせた。どうやら自分の思考にはどっぷりとまり込み、周囲の気配に気付かなかったらしい。
「あ…、」
 慌てて声の方を振り向くと、予想通りの人物が真っ黒な出で立ちで立っていた。その赤い双眸で静雄の顔を捉えると、眩しいものでも見るように細められる。
「金木犀?、いい匂いだよねえ。」
 臨也は木を見上げると、さり気なく静雄の肩に腕を回した。そのままぐいっと身体を引き寄せられて、思わず静雄の頬は熱くなる。
「おい、臨也──、」
「大丈夫、誰も見てないよ。」
 耳許に唇を近付け、まるで内緒話でもするように臨也は笑う。その吐息が耳朶に当たり、静雄は擽ったさに肩を竦めた。
「にしても偶然だね。ちょうどシズちゃんちに行こうかと思ってたんだ。」
 肩に回していた臨也の手は、いつの間にか静雄の頭を優しく撫でている。人工的な蜂蜜色の髪を後ろへ柔らかく梳き、指を差し入れて毛先を弄ぶ。
「シズちゃん、携帯の電源切れてるでしょ?」
「……こないだ壊れたんだよ。」
「どうせ苛々して叩き割ったんだろう。」
 呆れたように臨也は言うが、口調とは裏腹にその顔は穏やかだ。そんな顔を間近で見せられたら、静雄はもう何も言えなくなってしまうのに。
 ふわりと香る、金木犀の甘い匂い。秋の冷たい風と、澄んだ高い青空。耳に掛かる臨也の声と、触れて来る臨也の体温。
 こうしていると、やはりあの時のことを思い出してしまう。髪の毛を臨也の好きに触れさせながら、静雄はそっと目を伏せた。
 今からちょうど一年前。冷たい風と甘い匂いと、そして臨也の真っ直ぐな眼差しと──。

「君が好きなんだ。」


 そう告げた声。




 ──聞き間違いかと思った。
 手にしていた標識がするりと落ち、アスファルトでけたたましい音を立てる。静雄はそれでも目を丸く見開いたまま、呆然と臨也の顔を見ていた。
「俺は、君が好きらしい。」
 臨也は見慣れたいつもの笑みを浮かべ、ゆっくりとこちらに近付いて来る。その手にはナイフも何もなく、悪意や殺気は微塵も感じられない。
 熱っぽいその眼差しに、静雄は無意識にひゅっと息を呑んだ。後退りたい、逃げてしまいたい怯えが身体に湧き起こるのに、自分の足は一歩も動かない。
「返事は?、シズちゃん。」
 直ぐ目の前まで詰め寄ると、臨也はその赤い双眸を静かに細める。冷たい秋風が吹き、二人の髪の毛がふわりと揺れる。どこからともなく香る、金木犀の甘い匂い。
「シズちゃん──、」
 耳許に囁かれるテノールと、頬に触れて来る臨也の冷たい指先。指の腹で乾いた唇を撫でられて、静雄はぎゅっと目を瞑る。心臓の鼓動が急に早くなり、息が苦しい。手足が小さく震え、意識が遠退きそうだ。
 ふ、と微かに笑った気配がして、臨也の手が肩に掛かる。頬に触れる吐息、フレグランスの香り。あ、と思う間もなく、静雄の唇に何かが重なった。





「ねえ、シズちゃんち行こうよ。」
 いつの間にか臨也は静雄の手を掴むと、歩き出そうとする。一年前は緊張からか冷たかった臨也の手も、今はほんのりと温かい。
「ちょ、手、離せよ!」
 人通りが少ないとは言え、静雄の家まではまだ大分距離がある。その間手を繋いで歩くだなんて、何の罰ゲームだ。
「いいじゃない、手を繋ぐぐらい。俺たちは付き合っているんだし…それともここでシズちゃんを押し倒して、キスでもしようか。」
 なんて言う臨也の目は本気の色を浮かべていて、静雄はぎょっとして黙り込んだ。──そう、いつだって臨也は本気だ。静雄を好きだと言ったことも、付き合おうと言ったことも。
 口を噤んだ静雄の手を強く握り締め、臨也は再び通りを歩き出す。冷たく乾いた風が髪をそよぎ、臨也の黒いコートの裾を揺らした。前を歩くその背中は迷いもなく、静雄の手を離す素振りもない。
 白皙の肌、通った鼻筋、長い睫毛、薄い唇──。眉目秀麗なんて言葉が似合う人間を、静雄は臨也の他に知らない。
 こんなに綺麗な顔の男が、自分を好きだと言う。
 高校生の頃から女の噂が絶えなかった癖に、何故同性の自分なんかを好きだと言うのだろう。何かの気紛れか、はたまた血迷ったのか、静雄にはちっともその理由が分からない。
 初めは臨也の悪意や策略を疑った静雄も、今ではすっかり絆されている。寧ろ、こうやって臨也が自分に会いに来るたびに、嬉しいとさえ思ってしまっていた。そして同時に、不安や不信や疑心が湧いて、胸が苦しくなる。
 臨也ならきっと、もっと綺麗な女や可愛い女の方が似合うというのに。
 そう思っているせいか、あれから一年も経つのにまだちゃんと臨也に返事を返せていない。付き合うとも、好きだとも、静雄はまだ口にしたことはなかった。
 緑が多い公園を過ぎ、少し人通りが増えると、静雄は僅かに手を引いてみた。が、やはり臨也の掴む手は離れない。それどころかぎゅっと、更に強い力で手を握り返されてしまう。
 街を行き交う人々の中には、手を繋ぐ二人に不躾な視線を送る者もいる。静雄は誰かの視線を気にするほど繊細ではないが、臨也と一緒だというだけで酷く居た堪れなく感じた。
 こうやって臨也が会いに来てくれるのは嬉しい。嬉しいけれど、

 自分では臨也に不釣り合いだと、そう感じてしまう。



「携帯、新しいの買う?」
「え?」
 突然振られた話題に、静雄は一瞬意味が分からずに顔を上げた。手を引いて数歩先を歩く臨也は、前を向いたまま振り返らない。
「なんならプレゼントするよ。」
「…別にいい。また壊すかも知れねえし。」
「する。」
 有無を言わせぬ強い声。
 静雄はそれに驚き、僅かに目を丸くする。
「俺がシズちゃんに、プレゼントしたいんだ。」
 そう言って振り向いた臨也の顔は、まるで怒っているかのように硬い表情だった。
 いや、ひょっとしたら悲しんでいるのかも知れない。怒りや悲しみや憤りでごちゃ混ぜになった瞳の色をして、真っ直ぐに静雄を見つめて来る。
 本当は静雄の携帯電話が壊れていないことを、臨也は知っているのだろう。臨也からの着信が怖くて電源を入れられない静雄を、臨也はとっくに分かっている──。
「…臨也、」
 名を呼ぶ自分の声は、微かに語尾が掠れてる。掴まれた手は僅かに震え、指先が急速に冷えてゆく。
「シズちゃんがどう思おうと、俺は君が好きなんだ。」
 告げる臨也の声は、真剣そのものだ。
「シズちゃんとキスしたいし、」
 繋がった手に力が込められる。
「シズちゃんを、抱きたい。」
 そう言って抱き寄せられて、肩口に顔を埋められる。
「い、臨也──、」
 こんなところで。
 昼間の住宅街と言えども、人気がないわけではない。まして臨也も静雄も、この街ではそれなりに有名人だ。
 静雄は慌てて臨也から離れようとするが、反対に強く抱き込まれてしまった。肩を押そうとした手を掴まれ、その指先に軽く口付けられる。
「シズちゃんが怖くなくなるまで、俺は待つよ。」
「別に怖がってなんか…、」
 反論する静雄の声は弱い。言い当てられた、と内心動揺したが、必死に無表情を装う。尤も静雄の微かな動揺など、臨也には手に取るように分かってしまうだろう。
 臨也はそれ以上なにも言わず、再び手を取って歩き出した。どうあっても静雄を離す気はないらしい。痛みを感じないほどの力加減で、きつく静雄の手を拘束する。
 ──この『束縛』も嬉しい、だなんて。
 自分の歪んだ精神も相当重症だ。
 静雄は再び目を伏せ、微かに苦笑する。こんなに浅ましい自分なんかの、どこがそんなにいいのか。

 「好きだ。」と──。

 束縛されて、キスされて、女のように抱かれて──それでも自分はまだ、臨也の言葉を信じられないと言うのか。
 逆に、静雄がその言葉を口にしたのなら、何か関係は変わるのだろうか。

「臨也。」
「ん?」
 先程よりも冷たくなった手。繋がれているのに、互いの体温は冷たいまま。
 時折吹く風が、金木犀の甘い香りを運んでゆく。

「…俺は、」

 静雄がゆっくりと口を開く。
 その言葉の力が、どんな影響を互いに与えるのか分からぬまま。



 想いを口にして、静雄はやっと自分が楽になった気がした。



(2012/10/22)
ゆめさんリクエスト
「イザヤに告白されて、ほとんど付き合っているけど、イザヤにはもっと他にいい子がいる気がして縛り付けるようで好きって言葉にしたくてもできない乙女シズちゃん」
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