一緒にいられますように。





「ちゃんと大きな病院に行って、入院した方がいい。」
 珍しく真剣な表情でそう言うのは、中学生時代から付き合いのある闇医者だ。
 もう私服なんじゃないかと思えるほど馴染みの深い白衣に袖を通し、先程から熱心にカルテに何かを書き込んでいる。英語や数値、たまに日本語。
 新羅の書く文字は意外に丁寧で読みやすく、カルテをドイツ語で書くなんてのは迷信なのだな、と臨也はぼんやりと思った。
「聞いてる?」
「聞いてるよ。ねえ、もう帰っていいかな?」
 言うが否や臨也は立ち上がり、傍らに置いてあったコートを手に取った。真っ黒で、ファーが付いたいつものコート。長く着ているから、そろそろ新調した方がいいかも知れない。──いや、最期までこれを着ているのもありか。
「臨也、僕が君の病状を診るのも限界があるよ。設備が整った病院なら、先端医療を受けられる。」
 憤りを隠しもしない新羅に、臨也はちらりと視線を送る。新羅が本気で自分を心配をしているのは分かるけれど、今の臨也にはそれが少し鬱陶しい。
「大きな病院に行ったって完治するわけじゃないだろう。ならいいよ。」
「でも寿命は延びるかも知れない。」
「数ヶ月生き延びたところでなんになるの。」
 話は終わりだ、とでも言うように臨也はさっさと診察室を後にした。後ろで「臨也!」と名前を呼ばれたけれど振り返らない。消毒液の匂いがするこの場所に長居をする気はなかった。
 新羅は追って来なかった。今頃は頭を抱え、深い溜め息でも吐いていることだろう。飄々としているように見えて、彼は意外に激情家の面がある。そして闇医者のくせに善良だ。
 新羅のマンションを後にし、臨也は池袋の街へと出た。
 先を急ぐ人の群れ、耳障りな笑い声、車のクラクション──都心の空気はいつも汚れている。それでも臨也はこの街が好きだ。ひょっとしたら今拠点にしてる、新宿の街以上に。
 雑踏が行き交うメインストリートを通り抜け、人の波に流されるように横断歩道を渡った。俯けば自分の靴先が僅かに汚れていて、なんだか自嘲じみた笑みが出てしまう。余裕ないな、なんて、全く自分らしくない。
 笑顔を浮かべるティッシュ配りを素通りし、ちょうど信号が青になった横断歩道を再び渡る。駅前は車通りも多く、空気が更に悪い。紫煙が舞う喫煙所を足早に通り抜けて、臨也は新宿に帰る為に駅へと入って行った。
 最近体調が悪いな、と思ったのは、もう一年ほど前のことだ。
 その時は風邪の引き始めかな、とか、疲れが溜まったのかな、とかもっと軽く考えていた。大抵の人間は怠いとか熱っぽいとか、そんな良くある不調ではなかなか病院には行かない。
 同級生だった闇医者に診て貰ったのも、何かのついでの時だったと思う。多分、首無しに仕事を頼みに行った時だろう。
 新羅は何故か少し困った顔をして、臨也の問診をしてくれた。さすがにレントゲンやエコーなんてのは出来なかったけれど、簡単な尿検査や血液検査もした。
 ──その結果はあまり芳しくなかったらしく、検査が出来る他の病院を紹介されたのは数日後だ。この歳になって人間ドッグを体験するなるなんて──その時の臨也はうんざりした気持ちと、ほんの少しの不安を抱えていたと思う。

 そこで見つかった重い病気。
 自分には縁のないことだと思っていた病名。

 今すぐ手術をし、入院すればまだ一年は生き長らえるかも知れない──そんなことを言われたのは半年前だ。
 『かも』、なんていう言葉の不確定性。手術をすることの危険性。それらを考え、臨也は結局、今のままでいることを選んだ。ほんの数ヶ月の生に執着する自分の姿なんて、想像も付かなかった。
 今では常時痛み止めがなければ立っていられぬ程になった。両腕を抱き締めるようにして腰を折り、前屈みになって激痛に堪える。四肢は痺れ、額には脂汗がいくつも浮かぶ。そんな滑稽な自分の姿を、誰にも見られなくなかった。
 だから今の臨也は、鎮痛剤を規定の量より飲み続けている。



 鍵を開け、自分の家の扉を開けると、焦げた嫌な匂いが鼻についた。心なしか、空気も白くけぶっている。
「…シズちゃん?」
 まさか火事ではあるまいな、と、臨也は同居人の名を呼んだ。匂いの出所である、キッチンの扉を勢い良く開ける。
「い、臨也!?」
 中にいた男は素っ頓狂な声を上げ、何かを盛大にシンクに落とした。その慌てた様子に、臨也は眉を顰める。
「…何してるの?」
「べ、別に…っ、てか、お前夜に帰るって言ってただろ!」
 なんでここにいるんだ!と、まるで帰ってきたのが悪いみたいになじられ、臨也は肩を竦める。どうやら何か、臨也に後ろめたいことをしていたらしい。
 コンロの上には真っ黒に焦げたフライパン。おそらくオムレツかオムライスだろうか──炭のように黒く、もう原形を留めていない。床には塩と思われる粒がそこら中に飛び散っており、ケチャップのような赤いシミが血のように広がっている。まるでここで乱闘が行われたようだ。
 静雄は青のエプロンを身に付け、臨也の視線にばつの悪そうな顔をしていた。シンクの上には泡だて器やら何かを混ぜたボールが積み重ねられ、野菜の皮や卵の殻もあちこちに散らばっている。
「何か作っていたの?」
 ──もしくはテロか。
 と、心の中だけで呟いて、臨也は床に落ちている雑誌に気付いた。色々な物が付着してボロボロになったそれは、どうやら料理の本だ。
 中を開いてみようとして、伸びてきた静雄の手に奪われる。
「ちょっとやってみようと思って…、な、なんか悪いかよ?!」
 口調は乱暴だが、静雄の顔は照れている為に真っ赤だ。雑誌を握り締める手にはいくつも傷が付いていて、恐らく包丁ででも切ったのだろう。
「悪いなんて言ってないよ。──でも、そうか、ふうん…、」
 確かに臨也は今日、静雄に何時に帰宅するかと訊かれ、夜になると答えた記憶がある。つまりこれは、臨也の帰宅に合わせた夕飯の準備なのだろう。まだ夕方というのにも早い時間帯だったが、あまり料理をしたことのない静雄には無難な準備期間なのかも知れない。
「俺の為に夕飯作ろうとしてたんだね。」
「なっ、」
 さらりと言われた臨也の言葉に、片付けようとしていた包丁が静雄の手から滑り落ちた。幸いにも怪我はなかったものの、臨也は一瞬ひやりとする。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか。」
「て、手前が変なこと言うからだろ!別に手前の為に作ってたわけじゃねえから、自惚れんな!」
 噛み付くように怒鳴る静雄の顔は、熟れたトマトのように真っ赤だ。その顔は言葉とは反対の答えを教えてくれているのだけど、臨也はそれを指摘しないことにする。
「取り合えず、これ片付けようか。」
 臨也は込み上げる嬉し笑いを誤魔化す為に、包丁を拾い上げる。まずは生ゴミを捨ててフライパンを洗って、それから──、
「そしたら一緒に作ろう?」
「え、」
 続いた臨也の言葉に、静雄はきょとんとした顔になる。
「俺も料理はあまりしないけど、二人でやればまだマシなんじゃない?」
 もっと壊滅的になる可能性はこの際置いておいて。
 コートを脱ぎ、さっさと食器を片付け始める臨也に、静雄は困ったような顔をして突っ立っていた。戸惑っている気配がこちらまで伝わって来る。
 静雄は悔しそうに目を伏せ、照れているように頬を赤くし、やがて小さな声で一言、
「ごめん。」
 と、口にした。

 そんな静雄が可愛らしくて、臨也は今度こそ声を上げて笑う。じわりと、胸に染み入る温かさが広がってゆく。
 臨也に揶揄されていると思ったのか、静雄は拗ねたように唇を尖らせた。その口が悪態を吐く前に、腕を伸ばして痩身を抱き締める。

「なっ、なに、」
「好きだよ、シズちゃん。」

 例えあと少ししか一緒に居られなくても。

 この温もりも匂いも声も顔も体も。

 自分がこの世界から居なくなる瞬間まで覚えていようと。

 壊れるほど強く抱き締めてくる臨也に、静雄は苦しそうに抗議の声を上げる。が、どうやっても離してくれない相手に諦めたのか、やがてゆっくりと臨也の背中に腕を回した。
 まるで宥めるようにぽんぽんと、軽く臨也の背中を撫でてやる。
「なんか、あったのか?」
「なにが?」
「凹んでるように見えるから。腹でもいてえの?」
「…何もないよ。」
 小さく笑い声を洩らして、臨也は目を瞑る。抱き締めた温もりがあまりにも心地好くて、うっかり何もかも話してしまいそうだ。

 このたまに勘のいい男を、いつまで自分は騙せるだろうか。

 君に何も言わずに逝く俺を、君は恨むだろうか。


 怒って暴れて絶望して、それから、

 君は泣いてくれるだろうか。


 君が俺を想って泣いてくれるのが嬉しい、なんて。
 そんなことを思うだけで、臨也は死への恐怖がなくなってしまう。

「さ、早く片付けよう。何を作るつもりだったの?」
「…オムライスとか、ハンバーグとか…。」
「……(やっぱりあの黒い炭は卵料理だったか)。」
「いま何かムカつくこと思っただろ。」
「そんなことないよ。」
 二人で笑い、たまに言い争いながら、キッチンを片付けて行く。
 こんな風に静雄と一緒にいる間は、臨也も自分の病気のことは忘れられる。

 結局、数時間後に完成した料理の味は酷いものだった。
 二人はそれに文句を言いながらも、長い時間を掛けてその全てを完食した。また一緒に何か作ろうか、なんて約束までして。

 ──その約束を、俺はいつまで守れるだろう。

 君を遺して居なくなる俺に、何かの約束をする権利はあるのだろうか。

「次は弁当作ってもいいな。ピクニックとか行きてえ。」
 使用済みの食器を洗いながら、静雄がそんなことを言い出す。料理の腕はないが、食器を洗うのは手際が良いようだ。
「えー、やだよ。子供じゃないんだから。」
「たまには田舎の空気でも吸いてえんだよ。春になったら行くぞ。」
「……まあ、いいけど。」
 冗談だと思ったら、静雄は至極本気だったらしい。臨也は小さく溜め息を吐き、そして笑い声を洩らした。

 ──そしてまた、いつ叶うか分からない約束をする。

 春まではあと半年しかない。恐らくその前に、自分の寿命は尽きてしまうだろう。
 根が真面目な静雄のことだ、約束を破ったらきっと酷く怒るに違いない。

「悲しむより、怒ってくれた方がいいかな。」
「?、何の話だ?」
「ううん、なんでもないよ。」




 神を信じていない筈の自分が、生まれて初めて神に祈る。

 せめて春までは、君と、



 一緒にいられますように。




(2012/10/16)
そしてナチュラルキラー細胞が活性化して完治する臨也。
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