金平糖




 空が高い──。
 真っ青な空を見上げ、静雄は口端の血を手の甲で拭った。口の中は血の味がし、僅かな砂利が入り込んでざらついている。
 けぶるように砂塵が舞うグラウンドに唾を吐けば、それは思っていたよりも真っ赤な色でゾッとした。自分の中にこんな赤い血が流れているなんて、反吐が出そうだ。

 ──赤は嫌いだ。
 嫌な奴の目を思い出す。

 見下ろしているだけで口の中が痛む気がして、静雄は踵を返して校舎へと歩き出した。グラウンドには静雄にやられた他校の生徒たちが数十人、死屍累累と倒れていたが、静雄の興味はもうそこにはなかった。自分が殴った相手の顔も、既に忘却の彼方だ。


 放課後の校舎は閑散としていて、テスト前のせいで部活動に励む生徒もいない。時折遠くで聞こえる笑い声は、まだ居残っている生徒たちのものだろう。皆が皆、真面目に勉学に励むわけではない。
 陽の光が反射するリノリウムの床を歩きながら、静雄はひとつ深い溜め息を吐く。体にも、心にも、大きな疲労が蓄積しているのは分かっていた。
 毎日毎日毎日毎日。こうも挑まれることが多いと、いい加減嫌気がする。怪我をすることは殆どないが、制服がボロボロで使い物にならなくなったりするのは勘弁して欲しい。金銭面も馬鹿にならないのだ。
 やけに足音が響く階段を昇り切り、自分の教室を目指す。さすがにもう、幼なじみの男も自分を待ってはいないだろう。あの男は家に愛しの彼女がいるからと、いつもさっさと帰宅するのだ。


 自分の教室に着くと、静雄はなんの躊躇いもなく扉を開けた。中に人がいるとは思わなかったので、そこに人影を見つけてギョッとする。
 窓際の真ん中の席に、学ラン姿の男が座っていた。頬杖を付き、こちらに後頭部を見せて、外の風景を眺めている。教室に入って来た静雄にも気付いているだろうに、こちらを振り向きもしない。

「……臨也。」

 低い声で名前を呼べば、やっと男はこちらを振り返った。静雄が大嫌いな赤い目で、真っ直ぐにこちらを射抜いて来る。
「今日は随分と手間取ったね。さすがのシズちゃんも、数十人相手は疲れる?」
 逆光で陰になった顔に、愉しげな表情が浮かんでいる。白皙の肌、通った鼻筋、赤く薄い唇──ムカつくぐらい綺麗な顔をして、臨也は低くくぐもった笑い声を洩らした。
「…やっぱりてめえの仕業かよ。」
 盛大に舌打ちをしながら、静雄は教室の中へと入る。机がきっちりと整列された教室は、まだ夕方前だというのに既に薄暗い。この男は静雄に嫌味を言う為だけに、わざわざここで待っていたのだろうか。
「残念ながら、あれは俺じゃないよ。」
 視線を再び窓の外に向け、臨也は僅かに口端を吊り上げる。この教室の窓からはグラウンドが丸見えで、臨也がここから喧嘩の一部始終を見ていたことを静雄は知る。その窓から見える空は真っ青で、いつもよりも澄んで見えた。
「…元はと言えば、てめえが俺の名前を広めたせいみたいなもんだろ。」
 地を這うような声でそう吐き捨て、静雄は自分の席へと座った。カバンに教科書やノートを詰めて、早くここから立ち去る準備をする。今日は疲弊しているせいか、この男とやり合う気はなかった。

「怪我してるね。」

 いつの間に傍に来たのか、直ぐ耳許で声がして静雄は目を見開いた。弾かれたように顔を上げれば、吐息が触れるほどの至近距離で赤い瞳がこちらを覗き込んでいる。
「殴られたの?、珍しい。」
 臨也はくすりと笑い、静雄の切れた口端に指を伸ばして来た。指先で触れられた瞬間、ピリリと鋭い痛みが唇に走る。
「見てたのなら知ってるだろ。……離せ。」
 触れられた箇所が熱くなった気がして、静雄は臨也の手を振り払おうとする。が、その前にあっさりと、臨也の方から手を離してしまう。
「口の中も切ったの?、歯を食いしばらなかったんだね。」
「不意打ちだったんだよ。」
 揶揄するように笑う臨也に嫌気がさし、静雄はカバンを手にして立ち上がる。早く、今直ぐにでも、二人きりのこの空間から出て行きたかった。
 ──薄暗い、静かな教室。
 喧嘩をするわけでも、言い争うわけでもなく、こうやって静謐な空間に二人でいることが、静雄には堪らなく気持ちが悪かった。
 臨也は時々こうやって、無造作に静雄に触れて来ることがある。陥れて、蔑んで、人に死ねばいいと平気で宣う癖に、触れてくるその手は優しくて温かい。
 その行為の理由が、臨也の気紛れや、何かを企んでのことだとしても、静雄はそれを拒もうとは思えなくなっていた。臨也の手が気紛れに自分の体に触れ、やがて呆気なく離れてゆくのを、静雄はじっと堪えているだけだ。
 そんな与えられる温もりに慣れてしまう自分が怖くて、静雄は臨也と二人きりになるのが苦手だ。まだここに新羅がいたらマシなのに、幼なじみの男はとっくに帰宅してしまっている。

「手を出して。」
「は?」

 さっさと教室を出て行こうとする静雄に対し、臨也が突然変なことを言い出した。臨也の考えや行動はいつも自分には理解出来ないけれど、今の言葉は突拍子もない。
 静雄は思わず立ち止まり、臨也を訝しげに振り返った。
「なんで、手なんて──、」
「いいから。早く。」
 有無を言わせぬその声に、静雄は戸惑いながらもゆっくりと片手を差し出した。人を殴り、暴れた後の、少し汚れた自分の手──そう思えば一瞬びくりと指先が震えたが、臨也はそれに何も言わなかった。
 そんな静雄の手に降って来たのは、ピンクや青や黄色の色とりどりの小さな粒たち。同時に甘ったるい砂糖の匂いがし、静雄は目を丸くしてそれを見下ろした。
 これは──。

「……金平糖?」
「あげる。シズちゃん甘いもの好きだろう?」

 目を丸くする静雄を見て笑い声を洩らしながら、臨也はそれを一粒口の中へと放り込んだ。閉じた臨也の口の中から、カリッと金平糖を噛み砕く音がする。
「なんで──、」
 手の平いっぱいのその砂糖菓子に、静雄は目をパチパチと瞬かせる。どうして自分がこれを臨也から貰わねばならぬのか、いまいち状況が把握出来ていない。
「妹たちが最近ハマっててね。いま家に金平糖がたくさんあるんだ。」
「いや、俺が訊きてえのはそんなことじゃなくて──、」
「血の味より、こっちの方がいいだろう?」
 臨也はそう言ってまた金平糖をひとつ口に放り込んだ。そして静雄が何かを言おうとする前に、その口を己のそれで塞いでしまう。

「──っ、」

 焦点が合わないほどの至近距離で、赤い双眸が静雄の瞳を見つめている。唇に触れる臨也のそれはほんの少しだけ乾いていて、けれど柔らかくほんのりと温かい。
 驚きで瞠目する静雄の唇を割り、小さな粒が口腔内に入って来た。温かく滑る臨也の舌。唾液は砂糖菓子の味がして、尖っていた粒はあっという間に溶けてゆく。
「んん…っ、」
 口移して食べさせられたことに気付き、静雄は一気に頭に血が昇った。慌てて臨也の肩を掴み、その体を離そうとする。静雄の手の平からは、ポロポロと金平糖が幾つも床に落ちた。
「…うん、甘い。」
 呆気なく唇を離すと、臨也は静雄から距離を取った。ぺろっと舌で唇を舐め、眩しいものでも見るようにして静雄を見つめる。
「金平糖もたまには悪くないね。」
「…っ、」
 顔が熱い。耳まで熱い。
 今の自分の顔が赤くなってないことを切に願うが、きっとそれは虚しい願いだろう。鼓動の音が耳に煩くて、心臓のある場所はずきりと痛んだ。
「何すんだ、くそが!!」
 怒声と共に拳が出てしまったのは、ただの条件反射だ。照れと恥ずかしさと怒りがごちゃ混ぜになって、静雄の頭はいま大混乱中だった。
「血の味がするキスより、甘いキスの方がずっといいじゃない。」
 そんな静雄の拳をあっさりと避けると、臨也は両手を上げて肩を竦める。その態度は芝居がかった大袈裟なもので、とても今同性にキスをした男には見えなかった。
「味なんてどうでもいいだろ!」
 問題はどうして自分がこの男に口付けられなければならないのか、だ──。
 静雄は今にも噛みつきそうな顔で吼えるが、臨也の方はどこ吹く風だ。
「キスをする意味なんて、ひとつしかないと思うけど。」
「はあ?」
 眉間に皺を寄せて仏頂面をする静雄に対し、臨也は酷く愉しげに笑い声を上げる。
「今はまだ、分からなくていいよ。」
 ──そのうち嫌でも気付くからさ。
 臨也はそう言うと扉を開け、するりと教室の外へと出て行ってしまった。少し呆けていた静雄はそれに遅れを取り、慌てて追いかけて廊下へ出る。
「おい。臨也──!」
「また明日、シズちゃん。」
 ひらひらと手を振りながら、臨也は廊下の向こうへと消えてしまう。学ランの裾を翻して、一度もこちらを振り返らないまま。

 後に残された静雄は、暫く教室の扉の前で立ち尽くしていた。腹底から湧き上がった怒りはいつの間にか消失し、胸の奥には言いようのない痛みだけが残る。口の中には、ほんのりと甘い味。
「…なんなんだよ、くそ。」
 未だに煩い心臓の音に気付かない振りをして、静雄は手の中の金平糖に視線を落とした。幾つかは床に落としてしまったけれど、それらはちゃんと静雄の手の平に収まっている。
 その中のひとつを指で摘まむと、静雄は口の中へと放り込んだ。直ぐに口腔内に広がる甘ったるい砂糖の味。それを奥歯で噛み砕けば、カリッと軽い音がする。

 ──確かにもう口の中は血の味なんてしないけれど、

「ファーストキスが金平糖味って、どうなんだ。」

 そう呟いた静雄の顔は、可哀想なくらい赤く染まっていた。



(2012/10/13)
テーマは『金平糖』でした。
×