特効薬





 新宿の街は深夜でも明るい。
 とは言ってもそれは繁華街がある地域の話で、オフィスビルが多い西新宿はそれほど明るくはなかった。深夜バスを待つ人の群れや、道の街灯がいくらか眩しいくらいだ。
 意外に緑が多い通りを歩きながら、臨也は時折吹く冷たい風に身を縮ませる。さすがにもう秋の色も濃くなり、薄い上着一枚では深夜は寒い。このまま直ぐに冬になるんだろうな、と思いながら、臨也は濃い灰色をした都心の夜空を見上げた。
 夜空には真っ白な月が浮かんでいる。何かの小説のように赤くもなければ、大きくもない、ただの欠けた月。それでも秋は空気が乾いているせいで、他の季節よりは月が綺麗に見える。
 はあ、と息を吐きながら、臨也は視線を前方に向けた。マンションが建ち並ぶ道に続くガードレール。街路樹と街路灯の下に、見慣れたコントラストの男が腰掛けているのが目に入る。
 あれは──、

「…シズちゃん?」

 思わず名を呼べば、男は真っ直ぐにこちらを向いた。
 この時期にしては薄着の服装に、いつもの青いサングラス。だらりと下りた右手には、紫煙が立ち上る細長い煙草。
 その瞳には覇気はなく、いつも臨也に向けている鋭さはない。
「どうしたの?」
 そんな静雄の様子から喧嘩を売りに来たのではないと分かり、臨也は僅かに肩の力を抜いた。
 最近は多忙なのもあって、静雄の怒りを買うような行為はしていない。池袋の街にももう1ヶ月以上は行っていなかった。つまり静雄と喧嘩をする理由などない──筈だ。勿論、蓄積された鬱憤は溜まっているだろうが。
 静雄は意外にも、理不尽に誰かに怒りを向けて来たりはしない。彼には彼なりの怒りのルールがあり、理由なくして暴力を振るうわけではない。ただ人よりもずっとずっと沸点が低く、恐ろしく短気なだけだ。
「珍しいね。こんな時間に新宿にいるだなんて。」
 明日はただの平日で、当然静雄には朝から仕事がある。借金の取り立て屋というアングラな仕事の癖に、彼はまるでサラリーマンのように出勤時間が決まっているのだ。
「…たまたま通りがかっただけだ。」
 手にしていた煙草を踵で揉み消して、静雄はゆっくりと立ち上がる。近付いて見れば、足下のアスファルトに何本もの吸い殻が落ちていた。一体どれくらい前から、ここにいたのだろう。
「何か用?」
「だから、通りがかっただけだって、」
「こんなに身体を冷たくして?」
 臨也は口端を吊り上げて笑うと、不意に静雄の二の腕を掴んだ。薄いワイシャツ越しに、冷たい体温が手の平へと伝わって来る。
「…風邪引くよ。鬼の霍乱って言葉があるんだから。」
「どういう意味だよ、それ。」
 臨也の言葉にムッとして、静雄が片眉を器用に吊り上げた。子供のように唇を尖らせるその姿は、やはりいつもの剣呑さは微塵もない。
 こうして間近で見ると、静雄の衣服はあちこち薄汚れている。傷の有無は見た目では確認できないが、恐らく喧嘩でもしたのだろう。
 気怠げな仕草と、覇気のない声。どうやら今日は随分と疲弊しているようだ。
「こんな殊勝なシズちゃんも珍しいね。」
 腕を掴んでいた手を解いて、臨也は静雄の頬にそっと触れた。思っていたとおり、その顔も氷のように冷たくなっている。
「何かあったの?」
「…何もなかったら、来ちゃいけねえのかよ。」
 笑い混じりの問いにそんな風に返され、臨也は僅かに目を瞠った。
 静雄のサングラスの奥の目は伏せられ、触れていた冷たい頬はほんのりと温かくなってゆく。
 珍しい、シズちゃんが照れている──。
 臨也は内心酷く狼狽し、慌てたように静雄から手を離した。
 二人の間に沈黙が落ちる。時折冷たい風が吹き、街路樹がざわめく葉音がした。遠くの道路からは車のエンジン音がし、アスファルトを滑る道路脇の枯れ葉の音がやけに大きく聞こえる。
「──帰る。」
「え?」
 やがて沈黙を破った静雄は、突然くるりと背を向けて歩き出した。駅へと向かうその足取りは少しも迷いがなく、臨也は一瞬反応が遅れる。
「ちょ、シズちゃん!」
 慌ててその背中を追い、数歩進んだところで静雄の腕を掴んだ。そのまま強引にこちらを向かせ、高さの違う目線を無理矢理に合わせる。
 するとサングラス越しの瞳は驚きで丸くなり、目を何度か瞬いて臨也を見た。その顔はまるで少年のように幼くて、臨也の胸がドキリと音を立てる。
「癒されに来たの?」
 目を細め、ペロリと自身の唇を舐めながら、臨也は静雄の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。僅かに静雄の身体が身動ぐが、離さないとばかりに腕を掴む手に力を込める。
「…通りがかっただけだと言っただろ。」
「こんな時間に?」
「わりぃかよ。」
 ぶっきらぼうにそう言って、目を逸らした静雄の顔はほんのりと赤い。先程まで氷のように冷たかった頬だが、きっと今触れたら熱くなっているに違いなかった。
 ──ほんと、素直じゃないなあ。
 喉奥で笑い声を漏らしながら、臨也は空いている腕を静雄の腰へと回す。
 驚いて顔を上げる静雄を無視し、そのまま強い力で痩身を引き寄せてやった。互いの身体はまだ冷たかったが、触れ合った箇所からは熱が生まれてゆく。
「今日は俺の家に泊まって行く?」
 耳許でそう訊ねれば、静雄の身体は分かりやすいくらいに震えた。文句を言おうと静雄が口を開く前に、背中に回した腕で身体を拘束してやる。
「ベッドが一つしかないから、一緒に寝ることになるけど──、」
 鼻先を静雄の肩口に埋め、くん、と鼻を動かす。鼻孔を擽る煙草の匂いと、仄かなシャンプーの香り。静雄の匂いだ、と思う。

 ──朝までたっぷりと癒してあげるから──。

 甘くそう囁いてやれば、腕の中に捉えていた身体が熱くなった気がした。抱き締めているせいで顔は見えないが、きっと真っ赤に染まっていることだろう。──可愛い、だなんて、口が裂けても言えないけれど。
 静雄は臨也の首筋あたりに顔を伏せ、何やら低い声で悪態を吐いている。内容は聞き取れなかったが、臨也に対する文句や暴言だろうとは予想は付く。照れているせいだと分かっているから、別に腹も立たない。
「ほら、行くよ。」
 このままここにいては本当に風邪を引いてしまう。
 臨也は静雄の手を握り締めると、マンションがある方角へと歩き出した。抵抗されるかと思ったが、静雄は素直に臨也に付いて来る。冷たかった互いの手が、徐々に体温を上げてゆく。

「臨也。」
「なに?」

 名を呼ばれて振り返れば、静雄はまだ俯いていた。顔ははっきりと見えないが、髪の隙間から見える耳は未だに赤い。
「ほ、本当にたまたま通りがかっただけだから…自惚れんなよ。」
 別に、お前に会いに来たわけじゃねえから──。

 そう言って顔を上げた静雄の頬は可哀想なくらい真っ赤になっていて、臨也はやっぱり笑ってしまったのだった。


(2012/10/07)
デレ期、襲来。
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