罪と罰




 耳をつんざくような目覚まし時計の音に、静雄はうんざりとしながら瞼を上げた。
 眠い。薄く目を開けた視界は、霞が掛かったように白く見える。四肢も怠いし、僅かに頭も痛む。明らかに睡眠時間が足りていないのに、仕事があると思えば起きなくてはならない。
 静雄は小さく溜め息を吐きながら起き上がった。室内の遮光カーテンを開くと、凶悪な陽射しが部屋に入って来る。見上げた空は既に真っ青で、静雄は太陽の明るさに目を眇めた。今日も暑くなりそうだ。
 パジャマ替わりのTシャツを脱ぎ、いつものバーテン服に着替える。まだ眠気の醒めない目を擦りながら、静雄はキッチンへと向かう。静まり返ったこの広いマンションは、まるで自分一人しか住んでいないようだ。
 のろのろとした動作でキッチンの扉を開け、静雄の足はそこでぴたりと止まる。眠気でとろんとしていた瞳が見開かれ、一瞬にして頭が覚醒した。
 窓から陽射しが入り込むダイニングテーブルに、いつもは昼まで寝ている筈の男が席に着いていた。気怠そうにテーブルに頬杖を付き、皿の中身をぐるぐるとスプーンでかき回している。
「い、」
 臨也──、といつものように名前を呼ぼうとして、静雄は直ぐに口を噤む。代わりにわざと大きく舌打ちをし、キッチンの扉を乱暴に閉めて中に入った。
 静雄に気付いている筈の臨也は、こちらに顔を向けもしない。そのことに静雄はますます腹が立つが、何も言わずに冷蔵庫の扉を開けた。
 冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、更に戸棚からシリアル食品を出す。それを皿に入れて牛乳に浸せば、朝食の出来上がりだ。
 静雄はそれをテーブルに置いて、臨也の斜め前の椅子に座った。向かい合わせになるのも嫌だし、隣にも座りたくない。かと言って他の場所で食事をするのも意識をしているようで癪だった。
 キッチンの中に重い沈黙が落ちる。見れば臨也も同じシリアルを食べていた。もう殆ど食べる気はないのか、スプーンが進んでいる気配はない。
 静雄はそれを横目で見ながら、新たにコップに入れた牛乳を一口飲む。毎朝牛乳を飲むのは、静雄にとってもう習慣のようなものだ。

「食べないの?」

 なかなか食べ始めない静雄に、臨也が声を掛ける。

「…浸してから食うんだよ。」
「それじゃあ柔らかくなっちゃうでしょ。」
「それがいいんだろが。」
「俺は堅い方が好きだけど。」
「手前の好みなんて知るか。」

 重苦しかった空気が、更に険悪さを増す。静雄はコップの中身を一気に飲み干すと、空になったそれを乱暴にテーブルに置いた。ピシッと嫌な音がしたのは、きっとひびが入ったからだ。
 苛々とする。腸が煮えくり返るように熱い。臨也相手に怒るだなんて、こんな関係になってからは少なくなっていた。二人が喧嘩をするということ自体、随分と久し振りだ。
 些細な擦れ違い、熱くなる言い争い。暴力を振るうことは無くなっても、口喧嘩だけで心は簡単に傷が付く。
 静雄は忌々しげに舌打ちをし、怒りを誤魔化すように目を逸らした。

 昨夜言い争ったのは、些細なことが原因だった。喧嘩の原因なんて、後から思い出せばそんなものばかりだろう。静雄も臨也も、まだ精神面では大人になりきれていない。
 結局何も解決しないまま、静雄は酒を煽って不貞寝してしまった。臨也の方は何をしていたか分からないが、きっと似たようなものだろうと思う。こんな風に翌日にまでそれを引き摺っているのは、お互いが意固地になっているせいだ。
 お陰で静雄の睡眠時間は酷く削られたし、未だに頭痛も続行中だ。臨也は在宅勤務だから楽だろうが、自分は池袋まで出勤しなくてはならないと言うのに。

「そのシリアル、俺が買ったんだけど。」

 そんな臨也の声に顔を上げれば、不機嫌な赤い目と視線がぶつかる。
「今手前の皿のシリアルに掛かってる牛乳は俺のだろ。」
「ならそのコップは俺のだし、お皿もスプーンも俺の物だよ?」
「コップや皿は返せるが、手前の腹に入った牛乳は返って来ねえだろうが。」
「今シズちゃんが座ってる椅子も、皿を置いているテーブルも俺のものだ。だってここは俺の家なんだから。」

 ──プツン、と。何かが切れる音がした。


 まるで小学生のような馬鹿馬鹿しい言い争い。頭に血が上っている時は、冷静にそのことを自覚する余裕もない。
 静雄は握り締めた拳を怒りで小刻みに震わせ、乱暴に椅子から立ち上がる。そのままシリアルの入った皿も、怪訝な顔の臨也も放置して、大股に歩いてキッチンを出た。
 薄暗い廊下を進み、足音も荒く玄関口へと向かう。怒りにまかせて手を出さなかったのも、何か物に当たらなかったのも、短気な自分にとっては奇跡だと思った。
 扉のノブに手を掛け、静雄はその金属の冷たさに一瞬だけ肩を竦める。その無防備になった瞬間に、後ろから伸ばされた手に二の腕を掴まれた。

「──っ、」

 強い力で引っ張られ、静雄の顔が僅かに歪む。そのまま突き飛ばすように廊下の壁に背中を打ち付けられ、思わずヒュッと息を呑んだ。
「今君が考えていること、当ててやろうか。」
 直ぐ目の前には臨也の顔。まるで能面のように静かな表情なのに、その赤い目だけは憤怒で燃えている。
「『こんな家なんて出て行ってやる──』そんなところだろう?シズちゃんの考えは短絡的だから。」
 淡々と話す臨也の声は、重くて低い。その両手は静雄の両肩を壁へと押さえ付け、その身体の動きを全て封じていた。
 こんな拘束、静雄が本気を出せばあっさりと外れる筈だ──。それなのに今の静雄は、臨也をただ睨み返すことしか出来ない。いつにない臨也の迫力に、内心で竦んでいたのかも知れない。
「…離せよ。」
「離したらどうするの?そのまま逃げる?」
 口角を片方だけ吊り上げ、臨也は静雄の目を見て意地悪く嗤う。それでも肩を掴んでいた手を素直に離すと、その手で静雄の顎に再度優しく触れた。
「ねえ、シズちゃん。君は大事なことを忘れているよ。」
 するりと冷たい指先で頬を撫でられ、静雄は目を数回瞬く。
「大事なこと?」
「ここは確かに俺の家だし、家にある物も当然俺の物なわけだけど、」
「…だからなんだよ。」
 そんなに自分のテリトリーを主張したいのなら、邪魔な俺が出て行ってやるのに──。そんな静雄の考えなど、臨也には全てお見通しなわけだけど。
「つまりここにいるシズちゃんも、」
 目を逸らしてしまった静雄の顔に、臨也は無理矢理視線を合わせて来る。
「俺の物だってことだろう?」
「なっ、」
 なんだよ、その理屈──!
 そう静雄が文句を口にする前に、顔を近付けて来た臨也によって噛み付くように口付けられた。
「っ、」
 再び肩を掴まれ、体を廊下の壁に拘束される。口腔には直ぐに舌が入り込んで来て、奥に縮こまっていた静雄の舌を絡め取られた。歯列を舐められ、唾液を啜られて、静雄は無意識に鼻に掛かった甘い声を上げてしまう。

 ──こんな朝っぱらから、自分は何をやってるんだろう──。

 朝飯がまだだとか、顔も洗ってないとか、これから仕事だとか──様々なことが頭をよぎる。けれどもそれらは直ぐにキスで翻弄されてしまって、あっという間に頭の片隅へと追いやられた。
 飲み切れなかった唾液が顎を伝って衣服に落ちる。下唇を甘噛みされ、絡め取られた舌を強く吸われた。吐息をも奪うその激しいキスは、酸素不足でくらくらと眩暈がする。
 散々静雄の口腔内を荒らすと、臨也はわざと濡れた音を立てて唇を離した。二人の間に透明な唾液の糸が引き、やがてそれもぷつんと途切れる。
「…っ、…はっ、」
 乱れた息を必死に整え、静雄は上目遣いに臨也を睨み返した。その頬はほんのりと赤く、目も生理的な涙で潤んでいる。こんな顔をして睨まれても男を煽るだけなのに、静雄はそんなことに気付かない。
「本当は、仕事なんてさせないで家に閉じ込めて置きたいぐらいなんだけど。」
 ぺろ、と己の濡れた唇を舐めて、臨也は薄く笑う。
「でもそうしたらきっと、シズちゃんは怒るだろう?」
「…当たり前だ。」
 無愛想にそう答えながら、静雄はぎゅっと自分の胸元のシャツを握り締める。それは盛大に皺になるだろうが、こうでもしないと迫り上がる胸の苦しさに堪えられそうもなかった。
「忘れないで。君は必ずここに帰って来るんだ。」
 静雄の濡れた口許を拭ってやりながら、臨也は赤いその目を眇める。睡眠不足であろう静雄の顔を確認すると、まるで労るかのように目の下の隈を撫でてやった。
「今日は早く帰っておいで。夜は一緒に寝てあげる。」
 傷んだ金髪を梳きながら、まだ釈然としない面持ちの静雄に顔を近付ける。それは優しく労るような言葉だったが、静雄にはその言葉裏の意味が分かってしまった。
 ──この男が一緒に寝るだなんて──何もしないわけがない。

「だから昨日の喧嘩は忘れて、仲直りしよう?」

 耳許で甘く囁かれるテノールに、静雄は赤くなって頷くしかなかった。




※Twitterフォロワーさんからのリクエスト。
「シリアルを食べるイザシズ」(笑)。
(2012/09/09)
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