本能




 ──息が苦しい。

 静雄は額を伝って落ちる汗を手の甲で拭い、必死に繁華街を駆けていた。
 時折街を行き交う人々が走る静雄に気付き、一様に驚いた顔をする。この街では平和島静雄は有名人だ。今頃どこかの掲示板あたりでは、街を走る静雄の話題が書かれているかも知れない。
 ネオンが眩しい路地を抜け、人が疎らな寂れた通りをひたすら駆ける。この時間になればシャッターを閉じている店も多く、街灯と自動販売機の明かりだけがアスファルトを照らしていた。こんな都心の街では、月明かりなんて到底望めない。
「…はっ、」
 全速力でずっと走ってきたせいで、胸も肺も痛くなっていた。呼吸する度に喉奥もちくりと痛む。煙草の本数減らさねえとな、なんて思うけど、いつも思うだけで実現出来た試しがない。静雄にとって煙草は精神安定剤みたいなものだった。例えその効果が雀の涙ほどだったとしても。
 走って走って走って。後ろを振り返って誰もいないことを確かめると、静雄は廃れたビルの中へ逃げ込んだ。以前、取り立て相手の男がここに逃げ込んだことがあり、ここの鍵が開いているのは知っていたのだ。
 こめかみに流れる汗を拭いながら、埃がうっすらと積もった階段を急いで駆け上がる。もう誰も追って来ないだろうが、急く足は止まらなかった。胸に広がる言いようのない不安と恐怖。追われて恐怖を覚えるなんて、静雄にとっては初めてのことかも知れない。
 階段奥の扉を蹴り開けると、静雄はビルの屋上へと足を進めた。薄暗い視界の中に、もう稼動していない室外機や大きな給水塔がぼんやりと見える。そこに人の気配がないことを知ると、静雄はホッと息を吐いた。さすがにあの男も、静雄がここに逃げ込んでいるなんて思わないだろう。
 ──まさか、俺があいつから逃げることになるなんて。
 自嘲めいた笑みが人知れず浮かぶ。ボロボロになった鉄柵に体を預け、静雄は大きな溜め息を吐いた。
 見上げれば頭上に白い月。濃い灰色の空に孤高に浮かぶその月は、何故か今日に限って冷たく見える。それはまるであの男のようにも思え、静雄は月から視線を逸らした。
 いつも辛辣な皮肉を吐くあの唇で、いつも人を蔑むあの赤い双眸で。嘘のような愛の言葉を囁かれたのは、今からほんの一時間ほど前のことだ。
 その声も、その眼差しも、その表情も、その仕種も──。知っている筈なのに、知らない男のものだったと、静雄は思う。あの男の中にある激しい熱情を、自分はちっとも見抜けていなかったのだ。

「鬼ごっこはおしまい?」

 突如後ろから聞こえたその声に、静雄は一瞬息が止まった。
 続いて、カツン、と響く革靴の音。
 びくんと体が震え、背中に嫌な汗が流れた気がする。静雄はまるで油の切れたロボットのように、ゆっくりと後ろを振り返った。

「臨也……?」

 そこには予想通りの男が立っていた。
 珍しく憔悴しきった顔で、髪の毛も衣服もボロボロだ。いつものコートは片方の肩がずり落ち、額には汗で前髪が貼り付いている。
「…こんなに全力疾走したのは久し振りだ。」
 はあ、と深く溜め息を吐いた臨也が、一歩ずつこちらへ近付いて来る。静雄は驚きで目を見開いたまま、一歩も動けずにその場に突っ立っていた。頭痛がしそうなくらい鼓動が高鳴り、正常を取り戻し掛けていた胸がズキンと痛む。
「…あ、」
 腕を伸ばせば触れそうな距離になり、やっと静雄は状況を把握する。
 逃げようと、離れようとした。けれど臨也が腕を掴む方が一瞬早い。
 両方の二の腕を掴まれ、そのまま屋上の鉄柵に背中を押し付けられる。そして臨也は両足の間に膝を割り込ませると、静雄の身体を鉄柵に拘束してしまった。
「なっ、」
「追い掛けっこは終わりだよ。」
 吐息が触れそうなほどの至近距離。いつも嘲笑の色を浮かべている臨也の双眸は、今は真っ直ぐに静雄を見つめている。
「まさかシズちゃんがこんな風に逃げ出すとは思わなかった。」
「…んなつもり、は、」
 掴まれた腕を離そうと身を捩るも、臨也の手はびくともしない。痩身で華奢な体つきをしている癖に、この男は意外に力が強いのだ。
「人が捨て身の告白をしたのに、逃げるのは酷いと思わない?」
 焦点が合わぬほど顔を近付けて、臨也は低い声で薄く笑う。口端をいつものように吊り上げ、ぱっと見は愛想の良い顔なのに、静雄を見つめるその目だけは笑っていなかった。
「そんなに俺が怖い?」
「…別に。」
「それとも人に好意を与えられることが怖い、のかな。」
 静雄が抵抗をしないのを良いことに、臨也は片方の手でするりとその頬を撫でる。その指先の冷たさに、静雄は思わず身を震わせた。

「好きだよ。」

 ──鼓膜に届いた言葉は強烈だ。

 静雄は目を見開いて臨也を見ていた。得体の知れない感覚が身体を駆け抜け、指先が痺れたように震える。胸のずっと奥が切なさで悲鳴を上げ、直ぐに心臓もバクバクと早鐘を打ち始めた。
「君が好きだ。」
 臨也の告白は尚も続く。頬を撫でていた手を静雄の後頭部に回し、ゆっくりと自分の方へと引き寄せる。
「また逃げても構わないよ。そしたらまた追い掛けるから。」
 熱が籠もって掠れたような声。殆ど唇同士が触れそうな近さで、臨也は言葉を紡いでゆく。
「いざ、」
 や、と呼ぶ筈だった静雄の声は、最後まで発することが出来なかった。
 鉄柵に背中を押し付けられたまま、噛み付くように口付けられる。上唇を甘く吸われ、下唇を舐められ、半開きだった静雄の唇に臨也の舌が入り込んで来た。歯列の裏をぬるりと舐められ、混ざり合った唾液を啜られる。恋愛経験の少ない静雄にとって、こんな深いキスは甘い毒だ。
「ん、っ、…あ、」
 結局静雄は抵抗らしい抵抗はせず、臨也の口付けをおとなしく甘受している。ぐっ、と膝で股間を刺激されれば、思わず声が漏れそうになった。
 熱に浮かされた頭の中で、臨也の言葉がぐるぐると駆け巡る。静雄にとって、「好き」という言葉は重い。それがこの男相手では尚更だ。

 ──お前、俺のこと嫌いだったんじゃねえのかよ──。

 混乱して、動揺して、どうしたらいいのか分からない。受け入れることも拒絶することも出来ず、先程の静雄はその場から逃げ出してしまったけれど──。まさか、こんなに必死になって、臨也が追い掛けて来るとは思わなかった。

 ──ああ、くそ。ごちゃごちゃ考えるのはやめだ──。

 静雄は内心で盛大な舌打ちをし、臨也の背中に腕を回した。ぴく、と臨也の肩が跳ねるのを、わざと気付かないふりをして。
 この男には散々苦汁舐めさせられて来たのだ。直ぐに愛の言葉を信じることは難しい。けれども自分を抱くこの腕の温もりは心地好くて、それを離そうとは静雄は思わなかった。
 ──ま、こいつの必死な姿を見れるのは悪くねえ、かな。
 当分はわざと逃げ回ってやろうか。今までのことを考えれば、少しぐらいこちらが翻弄したってバチは当たらない筈だ。

 静雄はそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。




※Twitterフォロワーさんからのリクエストでした。
静雄を追い掛けてる臨也。
(2012/09/04)
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