Ce qui embellit le desert c'est qu'il cache un puits quelque part






 ああ、嫌なとこに出くわした──。
 静雄は屋上の給水塔の影で、小さく舌打ちをした。少し離れたフェンスの前では、どう見ても告白シーンが繰り広げられている。なんでよりにもよってこんな所で──屋上なんて、いつ誰が来るかも分からないだろうに。
 背の高い体を目一杯に屈め、入り口の扉を壁からちらりと覗く。ここから出て行くには、どうしたって視界に入る。このままあの告白が終わるのを待つしかないのだろう。いくら相手の男が自分が嫌いな奴だからと言って、邪魔をするほど静雄は無粋でもない。
 屋上を覆う高いフェンスの前には、背の低い女と、学ラン姿の見知った男が見えた。
 あー、もう。なんでこいつの告白シーンなんて見なくてはならないのだろう──静雄は頭を抱えたくなる。今吸ったばかりの煙草の味も、それによって落ち着いた気分も、全てが吹き飛んでしまった。

 どれくらいの時間が経ったのか。
 やがて可愛らしく華奢な女生徒は、そのまま静雄に気付くことなく屋上から走り去って行った。涙ぐんでいるようにも見えたので、こっぴどく振られたのかも知れない。あの男はそういう点は容赦がないから。

「覗きは良くないね。」

 突然、頭上から降って来た声に、静雄は驚いて顔を上げる。真っ青な空を背に、先程まで告白を受けていた男がこちらを見下ろしていた。その顔には愉しげな笑みが浮かんでいて、静雄がここにいることは最初からお見通しだったようだ。
「てめえが後から来たんだろ…。」
 わざと舌打ちをひとつして、静雄は不機嫌に立ち上がる。見つからないように屈んでいたというのに、それも無駄な努力だったようだ。
「こんなところで喫煙?見付かったら停学だよ。」
「余計なお世話だ。」
 ──苛々する。せっかくの気分を台無しにされたことも、喫煙をやんわりと咎められたことも、──この男が知らない誰かに告白されたことも。
 静雄はそのまま臨也に背を向け、この場所を立ち去ろうとした。腹の奥底が焼き付くようなこの憤りを、目の前の男に悟らせるのは死んでも御免だ。
「嫉妬?」
「──は?」
 投げつけられたその言葉に、静雄は腸が煮えくり返った。思わず臨也の方を振り返り、──そして直ぐにそれを後悔した。
 腕を取られ、腰を引き寄せられる。驚きで半開きになった唇に降りて来たのは、乾いた柔らかな感触。

「…っ、」

 それは掠めるように一瞬触れ、直ぐに離れてゆく。温もりなど、感じる間もないまま。
 掴まれた時と同様にあっさりと拘束を解かれると、静雄は今の出来事が理解できずに目を瞬いた。唇にはまだ柔らかな感触が残っていて、視界には吐息が触れ合うほどの距離に臨也の顔が見える。
「男の嫉妬は見苦しい、と言うけど、」
 ぺろ、と自身の唇を舌で湿らせて、臨也は笑う。
「それがシズちゃんなら、悪くないね。」
「──っ!」
 頬に、耳に、首筋に、熱が瞬時に集まる。臨也の赤い唇を見て、静雄は自分が何をされたかを今更ながらに理解した。
 ──キス、されたっ。
 そう自覚すると同時に、勝手に体が動いた。照れ隠しなのか怒りなのか自分でも分からぬまま、無意識のうちに相手に拳を振り上げる。
 ──が、振り下ろされる筈の拳は、寸前であっさりと相手に躱された。単純明快な静雄の行動など、臨也には丸分かりだったのだろう。
「…っと!あっぶないなあ、シズちゃんは。」
「うるせえ!一発殴らせろ!」
 ひょい、と余裕綽々に避ける臨也に対し、静雄の怒りは収まらない。バクバクと自分の鼓動が煩い。耳裏も首筋も熱くて、きっと今の自分の顔は真っ赤な筈だ。
 ああもう、なんでこんなことに──。
 こちらからは触れさせてくれないくせに、勝手にこちらに触れて離れてゆく。気紛れで、自己中で、ちっとも他人に優しくない、この男の残酷さ。
 静雄は臨也を睨み付けたまま、唇を手の甲で拭った。ゴシゴシと強く擦っても、臨也の唇の感触はそう簡単には消えない。きっと暫くは思い出してしまうだろう。畜生、と静雄は内心で毒づく。
「ひょっとしてファーストキスだった?」
「…わりぃかよ。」
 臨也の言葉に、静雄は正直にそう答えた。こんなことで見栄を張って何になるだろう。1月で18になるが、静雄は異性と付き合ったことがまだないのだ。
「悪くはないよ。寧ろ安心した。」
 意味の分からないことをそう言って、臨也は静雄の方へまた近付いて来る。どうしてこんなに簡単に距離を詰めるのだろう。また静雄が殴り掛かるかも知れないとは思わないのだろうか。
「あの女の子ねえ、俺のことが好きなんだって。」
「…知ってる。」
 見てたんだから。
 先程の光景が甦って、静雄の胸に苦いものが込み上げる。不機嫌に眉を寄せ、目の前の臨也の顔を睨み付けた。臨也が何を言いたいのか良く分からない。この男はそんなことを自慢するような可愛い性格ではないことは知っている。
「付き合って欲しいって言われたけど、断ったんだ。」
「……へえ。」
 だから何なんだ。
 再び苛々とし始めた自分を自覚しながら、静雄は深呼吸するように息を吐く。こうでもしないと、胸に巣くった重いもので押し潰されそうだ。どろどろとした、醜い感情。
「なんて断ったと思う?」
「…さあ?」
 静雄はとうとう、臨也から顔を逸らしてしまった。無意識に片足を後ろへ下げ、近付く臨也から距離を取ろうとする。
 そんな静雄を見て、臨也は楽しそうに目を細める。静雄が嫉妬していると思っていて、それが楽しくて堪らないのだろう。別に、嫉妬なんかしてない──そう言ってやりたいけど、口にしたらもっと喜ばれそうだから静雄は黙り込む。
「好きな子がいるからって、言ったんだよ。」
「………。」
 ズキン、と。今度こそはっきりと胸が痛んだ。
 ふうん、と低く掠れた返事をして、静雄は目を逸らす。視界の端に、今の自分の心境とは不釣り合いの青い空が見える。他に誰もいない屋上に、昼休みを終えるチャイムが鳴り響いた。
 どうして自分は、臨也のこんな話を聞かなくてはならないのだろう。胸はムカムカと不快を訴え、今は更にズキズキと痛む。
 自分は嫉妬なんかしてない。嫉妬なんかしてないけれど──どうしてこんなに嫌な気分になるのか。
 はあ、と、これ見よがしに大きな溜め息が聞こえる。
「シズちゃんってさ、ほんとに鈍いよね。」
「はあ?」
 突然言われた失礼な言葉に、静雄は片眉を吊り上げる。視線を目の前へ戻せば、臨也が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。

「まだ分かんないの。」
「何が。」
「キスまでしたのに。」
「…嫌がらせだろ。」
「その胸の痛みも。」
「何のことだよ。」

 なんでお前が俺の胸の痛みを知ってるんだ。
 ムッとする静雄に、再び臨也の溜め息が降りて来る。それが本気で呆れているからだと知り、静雄は更に不機嫌になった。
「嫌がらせでキスとか…。仕掛けた方もダメージを受けるなら、するわけないだろ。」
 珍しく、臨也の口調は粗暴だ。
 静雄はそれに驚いて目を丸くした。いつも余裕綽々の仮面を被っている癖に、今の臨也の顔にはほんの少しの不機嫌さが浮かんでいる。
「愚鈍さも単純なのも長所ではあるけど、度が過ぎると笑えない。」
「何言ってんだよ?」
 意味が分からない。
 ことんと小首を傾げた静雄に対し、臨也はまた深く溜め息を吐く。
「…もういい。」
「え、」
「シズちゃんが自分で気付くまで、俺はもう何も言わない。」
「は?」
 唖然とする静雄を残し、臨也は踵を返してしまった。真っ青な空と眩しい陽射しの中で、臨也の学ランの裾が翻る。
「おい、臨也──、」
「俺は、」
 肩越しに顔だけで静雄を振り返り、臨也の赤い目が静雄を捉えた。その眼差しはいつになく真摯で、静雄はゴクンと唾を呑み込む。
「シズちゃんにはそれを、ずっと持ってて欲しい。」
「え?」
 ──それ?
「その、胸の痛み。」
 臨也はそう口にして、僅かに口端を吊り上げて笑った。それは見慣れたいつもの表情なのに、静雄は一瞬思考が停止する。

 ──ドクン、と、心臓が鳴った。

 臨也はそれ以上静雄を振り返ることなく、さっさと屋上から出て行く。古い鉄の扉が、ギィっと軋んだ音を立てて閉まった。後に残されたのは、ぽかんと間抜けな顔をした金髪の青年だけ。
 ──なん、だ…、これ。
 心臓がバクバクと高鳴っている。キュッと、鳩尾の奥にある何かを掴まれた気がした。あの、今まで見たことがない、臨也の笑みを見ただけで。
 熱い。頬が熱い。耳も熱い。頭の中が煮えそうだ。ぐるぐると混乱する頭の中で、静雄はこの胸の苦しさの意味を必死に考える。

 ──まさか、なんかの病気…か?

 真っ青な空の下、心配した幼馴染みが探しにやって来るまで、恋愛に鈍い男は悶々と悩んでいたのであった。


(2012/08/31)
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