Lovers Again 静雄ver




 真っ青な空だ──。



 静雄は大きな籠を持ってベランダに出ると、夏の青空を仰ぎ見た。雲が大きくて白い。むっとする夏の空気が身体を包む。昼間になれば陽射しが恐ろしいことになるだろう。
 籠を床に置き、濡れた大きなシーツを取り出す。ざっと皺を伸ばし、物干し竿に掛けて、また手で皺を伸ばした。ふわりと香る柔軟剤の匂いは、最近の静雄のお気に入りだ。
 Tシャツ数枚と、靴下や下着を干し終わると息を吐く。この分だと洗濯物は昼過ぎにはもう乾くだろう。この家には乾燥機もあるが、静雄は外に干す方が好きだった。畳むときに太陽の香りがするのがいいと思う。
 両手を上げて大きく伸びをすると、空になった籠を持って部屋の中へ戻った。今日はこの部屋の主はいない。またいつもの悪巧みか、反吐の出る最低な仕事でもしているのだろう。あの男が何処に出掛け、何の用事で外出しているかは、静雄の方から尋ねたことはない。
 廊下の向こうで音がする。時計を見ればもう直ぐ9時だ。あの男の秘書のような仕事をしている女の出勤時間。

「おはよう。」
「おはよう。」

 素っ気ない挨拶をして波江が席に着く。このぱっと見は冷たく見える女性が、意外にも面倒見が良く優しいことを静雄は知っている。長女ということだから、きっと兄弟の面倒を良く見て来たのだろう。彼女には『姉』の雰囲気がある。
「今日はあいつはいないの?」
「どっか出掛けた。」
「そう。清々するわね。」
 顔は無表情だったものの、波江の空気が幾分柔らかくなった。あの男を嫌っているわけではないのだろうが、上司が不在なのはやはり楽なのかも知れない。
「俺はちょっと掃除して来るわ。」
 籠を持って部屋を出て行こうとする静雄に、パソコンを起動した波江が顔を上げる。
「あまり無理はしない方がいいわよ。病み上がりなんだから。」
 掛ける言葉はやっぱり優しい。
「うん、サンキュ。」
 心から礼を言って静雄が笑うと、波江も柔らかい笑みを返して来た。きっと今の自分たちをあの男が見たら、「俺と態度が違う」と不機嫌になるに違いない。



 ──俺と、一緒に住まない?

 そう臨也に言われたのは、静雄がまだ入院していた時のことだ。
 静雄はその頃、とある病気のせいでずっと入院していた。友人である闇医者の話によれば、ある日突然倒れたらしい。そのまま意識を失ったせいで、静雄はその時のことは良く覚えていないのだけれど。
 静雄が目が覚めたのは、それから一年以上時が経ってからだった。家族や友人や上司や後輩が、それこそ涙も流さんばかりに泣いて喜んでくれた。医師の話では、いつ目覚めるかも分からない状態だったらしい。ずっと健康で丈夫だと思っていた自分の体が病に侵されていたなんて──静雄は俄には信じられなかった。
 一年以上眠っていても、記憶は勿論はっきりとしていた。仕事のこと、親友のこと、弟のこと、そして大嫌いな男のこと──身体は時が経っているのに、記憶は何一つ色褪せない。
 そんな大嫌いな男に一緒に住まないかと言われた時、さすがに静雄は何の冗談かと思ったものだ。確か自分の記憶では折原臨也は天敵で、お互い憎しみ合っていた筈だった。何度も何度も傷付け合い、殺し合いをして来た記憶しか静雄にはない。若くて青かった、高校生の頃からずっと。

 なのに、どうして──。


「臨也と、試しに住んでみたら?」
 見舞いに来た新羅は、そう言って静雄に笑った。きっと、色んなことが見えるよ、と。
 ──何が、見えると言うのだろう。
 怪訝な顔をした静雄に、新羅はそれ以上は何も言わなかった。ただ伏せたその目と表情に、何か物悲しさを感じた。そしてそれが自分にではなく、臨也に向けられていることも。

 自分が意識が無かった一年間、臨也がどうしていたかを静雄は知らない。
 相変わらず悪巧みをして池袋の街をかき回していたとは人づてに聞く。犯罪すれすれのことをしていたらしいとも。
 そんな男だから、きっと天敵の自分がいなくて清々していたのだろうと思っていた。命を狙い、邪魔をする者が居なくなったのだから、さぞかし気が楽だっただろうと──、

 そう思っていたのに。




「これシズちゃんが作ったの?」
 テーブルに並んだ食品の数々に、帰ってきた臨也は目を丸くする。純粋に驚いている顔だ。
「そう。波江さんに教わった。」
 静雄はもぐもぐとご飯を咀嚼して飲み込むと、肉団子が入った味噌汁を一口飲む。うん、美味しい。これはちゃんと昆布で出汁を取った自信作だ。
「俺も食べていいの?」
「お前がいらないなら、明日波江さんと食うし。」
「食べるよ!」
 静雄の言葉に臨也は慌てて席に着いた。臨也が箸を取って煮物を食する間、静雄は臨也の分の御飯を用意する。勿論味噌汁も。
「この煮物、美味しいね。」
「ちょっと味付けが濃くなったけどな。」
「そんなことないよ。」
 臨也と同じマンションに住み、一緒に食事をして、一日の大半を共に過ごしているうちに、二人の関係はすっかり変わってしまった。今はもう、二人は殆ど喧嘩らしい喧嘩はしない。臨也は嫌味も言わないし、静雄は暴力を振るうこともない。
 そんな二人を見て、まるで夫婦みたいだね、と言ったのは、二人の共通の友人である闇医者だ。それに対して、どっちか嫁?と真顔で訊いた臨也を思い出す。

 臨也は笑って静雄の作った料理を食べている。その顔もその声色も、静雄が倒れる前は見せなかったもの。多分、これが素の折原臨也なのだろう。静雄と同じ年齢の、ただの普通の男。

「おいこら、人参も食え。」
「え…だって不味…、」
「俺が作ったんだぞ。」
「………分かったよ。」
 渋々と人参を口にする臨也に、静雄は思わず声を出して笑う。昔、臨也に抱いていた憎悪や嫌悪は霧散して、なんだか今は胸がじわりと熱くなることが多くなった。さすがに25年間生きてればこんな感情にも覚えがあるけど、静雄はまだそれを考えないようにしている。

 ──いつか。

 いつか、訊いてみようと思う。俺が眠っている間、お前はどうしてたの、と。
 それを問うことは怖くもあり、訊いておかねばならぬ気がした。きっと今の臨也なら、それを素直に答えてくれるだろう。そしてその答えを聞いた時、自分たちの関係はまた変化する予感がする。


 まさか、「眠り姫にキスをした」──なんて答えが返ってくるとは、その時は思ってなかったけれど。



(2012/07/18)
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