Lovers Again 臨也ver





 ──人は失って初めて気付くと言うけれど。



 真っ白な壁と天井。薄い灰色をしたリノリウムの床。クリーム色のカーテン。
 病院独特の匂いが鼻につく。消毒液の匂いだろうか。あの闇医者の家の匂いに似ている気もする。それでも新羅の家の方が、ずっと居心地はいい。
 そんな事を考えながら、臨也は長い廊下を歩いていた。カツンカツンと、革靴の足音が辺りに響く。もう面会ギリギリの時間帯のせいで病院内は静かだ。時折どこかの病室から聞こえる笑い声は、まだいる見舞い客のものかも知れない。
 とある個室の前で臨也は立ち止まった。一応の礼儀としてノックするものの、中にいる人間が答える筈もないことは知っている。臨也は無意識に小さく息を吐くと、扉脇のセンサーに手を翳した。
 人を感知した扉が自動的に開き、臨也は病室の中へ足を滑らせる。部屋の中は消毒液の匂いが更に濃く、酸素を吸入する装置の音がしていた。ピッ、ピッ、…と脈を計る機械音も。
 真っ白で清潔なベッドに横たわる、痩せた体。枕に散らばった金髪は、何ヶ月も染めていないせいで根元が黒い。動かない腕には何本ものチューブが刺さっている。胸には心電図の機械。
 臨也はベッド脇まで歩み寄ると、そんな静雄の身体を見下ろした。腕に刺さったチューブや、鼻と口を覆う機械を外せば、いとも簡単に死んでしまう痩せた身体。これが一年前までは、池袋最強と呼ばれていたのが嘘のようだ。
 開くことのない瞼。きつく閉ざされた唇。うっすらと日に焼けていた肌は、今は白皙というよりは青白く病的だ。元々整った顔立ちをしているせいもあり、こうして見るとまるで人形のようだ。

 ある日突然、静雄が意識を失ったのは一年ほど前のことだった。さすがに闇医者の家の設備では手に負えず、直ぐに大きな病院へと運ばれたが、静雄の意識はそれから戻らなかった。
 昏睡状態になってから、臨也は毎日この病室に見舞いに来ている。花を持って来たのは最初だけで、相手が目覚めないのならばと直ぐに持参するのを辞めてしまった。元より臨也の知る静雄ならば、花になど興味はなかっただろう。
 ──原因不明の病気。その病名を、同級生だった闇医者の男から聞いたけれど、臨也はとっくに忘れてしまった。
 臨也にとって大切なのは『病名』ではなく、静雄が治るかどうかだけだった。いつか目覚める可能性があると聞いてはいたが、それがいつになるかは分からない。それでもいつか目覚める可能性があるのなら、臨也はそれでいいと思った。

 ──キスしてみなよ。

 闇医者がそう言って笑ったのは、いつのことだったろう。お伽話だと、お姫様は王子様のキスで目覚めるんだよ──。そんな風に彼が笑っていられたのも、最初の頃だけだったろう。
 臨也は言われたとおり、静雄にキスしてやった。柔らかく温もりがある、渇いた唇。舌先で舐めてやったりもしたのに、お姫様の呪いはやはり解けることはない。

「…まあ、俺は王子様なんかじゃないけどね。」

 シーツに投げ出された静雄の細い手を取って、臨也は自嘲気味に小さく嗤う。力の入らない華奢な手に指を絡め、その指先に軽い口付けを落とす。まるで何かの儀式のように。
「君にとって俺は、憎むべき相手だろう?」
 邪魔だった。煩わしかった。殺したかった。
 この存在が居なくなればいいと、ずっとずっと願って来たのに──。
 静雄は臨也には怒った顔しか見せてくれなかったけれど、臨也が脳裏に思い出す静雄はいつも笑っている。耳に残るのは、自分の名を呼ぶ静雄の声。

「失って初めて気付くなんて、本当にあるんだね。」

 もし君が目覚めたら──俺は今度こそ失ったりはしない。
 臨也の小さな囁きは、もう静雄の耳には届かない。



(2012/07/11)
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