leap second



 携帯電話の日付が6月30日から7月1日に変わるのを、静雄は何と無しに見ていた。
 ああ、今日から7月だ──。
 今年も残り半年。身分が学生じゃなくなって数年の月日が経つが、この頃はやけに時が進むのが早く感じるようになった。これが大人になるってことなのかな、なんてぼんやりと思う。

 ──もう寝よう。

 ふうっ、と軽い溜め息を吐いて、静雄は二つ折りの携帯電話を閉じる。
 明日──もう日付では今日だが──は、久し振りに『日曜日』の休みだった。不規則でアングラな仕事のせいで、静雄が日曜日にちゃんと休めることは珍しい。どっか出掛けるのもありだなあ…と考えながら、やがて眠気が襲って来た瞼を閉じる。
 さすがの静雄でも、休みなく働くのは気力が疲れるのだ。取り敢えず明日は昼過ぎまで寝ていることにしよう──静雄はそう思い、意識を眠りに沈めて行った。

 そして目が覚めると、




「…何処だ、ここ。」

 見覚えのない場所にいた。



 身を起こそうとして、腰に絡み付く温もりに気付く。はっとして自分の状態を見下ろせば、左隣には漆黒の髪の毛の細身の男。同じく真っ黒なTシャツに身を包み、がっちりと静雄の腰に腕を回している。まるで抱き枕を抱える子供のように。

「…臨也?」

 どうしてここに──。
 そういえばこの白い天井も、クリーム色の壁も、どこか見覚えがある気がする。今寝ている場所もいつもの自分の布団とは違って随分と上質な感触だ。
 大きなダブルベッドに、清潔な黒のシーツ。ふかふかのタオルケットに、柔らかなスプリング。ここが自分にとって天敵である折原臨也の家だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「…っ、」
 静雄は慌ててベッドから抜け出ようとした。けれど腰に回された腕の力は思いの外に強く、また直ぐにベッドに逆戻りしてしまう。
「なっ、」
 腰に回されていた手が、不意に静雄の肩を掴んだ。そのまま両肩を押さえつけられ、腹の上に乗り上げられる。スプリングがギシッと揺れ、静雄は驚きで目を丸くした。
「朝っぱらから元気だねえ、シズちゃん。」
 ──おはよう。
 と、大抵の女なら見惚れてしまうような笑みを浮かべ、静雄の体をベッドに押し倒した男が呑気に挨拶をする。今までのは狸寝入りなんじゃないかと疑うくらい、すっきりとした顔をして。
 そんな余裕綽々な臨也の態度は、状況に付いていけない静雄を苛々とさせた。静雄は自分に覆い被さる臨也の体を乱暴に押し退けると、怒りを最小限に抑えて身を起こす。
「何で俺がこんなとこにいるのか今すぐ説明しろ。」
 昨日はちゃんと自分の布団で寝た筈だ。携帯電話で日付や時刻も見た記憶もあるし、今の自分の服装も寝る時の格好のままだ。薬で眠らされたわけでもなさそうだし、体の調子も悪くない。
「日付が変わったから迎えに行ったんだよ。」
 皺が寄ったシーツに頬杖を付いて、臨也は口端を吊り上げる。顔に掛かる髪の毛を掻き上げるその仕草は、嫌味なくらい様になっていた。
「日付?」
 静雄は眉根を寄せ、怪訝な表情になる。今日は──7月1日だ。何か特別な日だったろうか。一年が半年過ぎたとしか思わない。
「そう、日付。今日は7月1日だろう?」
 胡乱げな静雄の眼差しを面白そうに受け止め、臨也は大袈裟に肩を竦めて見せた。芝居がかったその態度は、いちいち静雄の癇に障る。
「なんで7月1日だからって俺がここに連れて来られたんだよ。」
 それも寝てる間に。
「いやあ…。俺としてはちゃんと起こすつもりだったんだけどね。なのにシズちゃんちっとも起きないし。」
 ──だからつい、誘拐を。
「つい、じゃねえだろ!誘拐とかすんな!」
 さらっと言われた不遜な台詞に、静雄は頭を抱えてうなだれてしまった。やはり臨也には常識は通用しない──静雄は自分のことは棚に上げ、そんなことを思う。
 ──にしても、何で起きなかったんだ俺──。
 自分で思っていたよりも疲れていたのだろうか。確かに久し振りの休みだったし、体は睡眠を求めていたのは事実だ。だからと言って、天敵が部屋に入って来て気付かないなんて──鈍過ぎる。
「ああ、もう『おはよう』なんて時間じゃないね。」
 サイドテーブルに置かれたデジタル時計を見て、臨也は大きな欠伸をひとつする。静雄の文句などどこ吹く風だ。
 釣られて静雄も時計を見れば、時刻はもう直ぐ正午になるところだった。つまり、自分は臨也のベッドの上で、こんな時間まで熟睡していたことになる。確かに高級であろうベッドは居心地も良いのだけれど──寝起きの気分は最悪だった。
「ブランチにしようか。」
 臨也はそう言って、さっさとベッドから立ち上がる。部屋の隅のクローゼットを開けて、中から衣服を数枚取り出すと無造作に静雄の方へ放った。
「それ着て。全てシズちゃんのサイズだから。」
「は?」
「そしたら食事。」
 にっこりと胡散臭い笑顔を見せられても、静雄の不信感は増すだけだ。というか、何でここに静雄のサイズの服があるんだ。
 渡されたそれを見てみれば、タグは静雄でも知っているカリスマブランドのものだ。わざわざ静雄用に買ったのかと思えば、知らず溜め息も出た。
「その前にちゃんと説明しろ。何で今日俺をここに連れて来た。」
 今にも噛みつきそうな勢いの静雄に、臨也は嬉しそうに口端を吊り上げる。
「今日は閏秒なんだ。」
「は?」
 ──なんだそれは?
「世界協定時に合わせる為に、一秒時間を調整するんだよ。」
 説明されても全く意味が分からない。静雄は目を丸くしたまま、こちらに近付いて来る臨也の顔を見つめ返した。こちらを見る臨也の顔は、いつもより楽しそうだ。
「つまり、今日は24時間と1秒あるってこと。」
「…だから?」
 臨也の言葉の意味はさっぱり分からないが、静雄はその先を促す。閏秒というものだからって、何故自分が誘拐されなくてはならない?
「一秒でも長く一緒にいられるなんて、凄いことだと思わない?」
「え?」
 再びベッドに腰掛けた臨也は、静雄の方へと腕を伸ばす。寝癖が付く金の髪を優しく撫で、耳朶を弄ぶように触れてくる。そのまま髪の中に手を差し入れ、静雄の頭をゆっくりと引き寄せた。臨也の赤い双眸に自分の姿が映り込み、静雄はどきんと鼓動が跳ねる。
「だからシズちゃん、今日は24時間と1秒、一緒にいてよ。」
 臨也はそう言って笑うと、静雄の額に自身の額をこつんとぶつけた。臨也のさらりとした前髪が静雄の鼻先に触れ、少しだけくすぐったい。

「いつもより一秒多く、俺と一緒にいて。」

 歯の浮くような台詞を恥ずかしげも無く口にした男は、静雄が答える前に唇を塞いでしまった。まるで答えなんて必要ない、と言うように。
 驚きで目を丸くした静雄は、やがて諦めたようにその瞼を閉じる。結局、静雄にはその『閏秒』が何なのか分からなかったけれど、目の前のこの男が自分を求めていることだけは分かった。そしてそのことに、自分は悪い気がしていないと言うことも。

 ──ま、せっかくの休日だし、

 一緒に過ごすのも悪くない、かな。
 臨也の首に腕を回しながら、静雄は薄く唇を開ける。すると直ぐに舌が入り込んで来て、2人の口付けは深くなった。

(2012/07/04)
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