時間旅行



※遅れましたが、金環食の話。


「起きて。」
 頭上から降ってきた声と共に体を揺さぶられて、静雄はゆっくりと瞼を開けた。
 白く霞んだ視界の中で枕元の時計を見る。時刻は六時を過ぎたばかりで、いつもの起床時間より一時間も早い。
「まだ早い、まだ眠い。つーかなんで手前がここにいるんだ、取り敢えず死ね。今すぐ死ね。さっさと死ね。おやすみ。」
「…寝起きで良くそこまで口が回るね?」
 臨也は呆れた──というよりは感心したような口振りだった。再び布団に潜り込もうとする静雄の首根っこを片手で掴み、そのまま布団から身体を引き摺り出す。静雄より十センチも背が低いくせに、臨也は意外に力が強い。
「ほら、これ着て。」
 勝手に箪笥から衣服を取り出して、まだ寝ぼけ眼の静雄にそれを放り投げる。静雄の方はまだ事態を把握していないのか、ぼーっとしたまま衣服を受け取った。
「それ着たら顔を洗って。」
「…どこ行くんだよ…。」
 こんな朝っぱらから。
 恨めしげな目で臨也を睨みながらも、静雄はのろのろと衣服を着替え始めた。
「忘れたの?今日は金環日蝕だって言ったじゃない。」
「金環日蝕?」
 そう言えばそんな話を、目の前の男から数日前に聞いたような気もする。
「見ようって言っただろう?、早く準備して。」
 追い立てられて、静雄は慌てて洗面所に向かう。水で顔を乱暴に洗えば、まだ寝ぼけていた頭がはっきりと覚醒し始めた。前髪からポタポタと滴を落としながら、静雄は鏡を見て眉根を寄せる。
「…何で俺がノミ蟲の言うことを聞かなきゃなんねえんだ…。」
「シズちゃんだって金環日蝕見たいでしょ?ならいいじゃない。」
 いつの間にか後ろに立っていた男は、タオルを静雄の頭に被せてやった。そのままゴシゴシと、垂れる雫を拭いてゆく。
 ──まるで子供扱いだな。
 そう思うけれど、静雄はそれを止めさせようとは思わない。普段ならムカつく筈だから、きっと自分はまだ寝ぼけているのだろうと結論付ける。
「ほら行くよ。」
 臨也は手櫛で静雄の髪の毛を整えてやると、急かすように外に出た。いつも騒がしい池袋の街は、この時はまだ静かだった。




 テナント募集、と書いたビルの中は、当然人の気配はない。通路にはうっすらと埃が積もり、天井にはところどころ蜘蛛の巣が張っている。
 臨也がなんでこんな所の鍵を持っているのかは分からないけれど、静雄はおとなしく臨也の後ろを付いて歩いていた。どうやらこのビルの屋上で天体観測をするつもりらしい。中は電気がないので薄暗く、エレベーターも作動していないので階段で上り下りだ。
「金環日蝕は直接目で見たら駄目だよ。」
「なんで。」
「失明するかも知れないらしいよ。だからこれ使って。」
 そう言って臨也から渡されたのは真っ黒な眼鏡──というよりは板のようなものだった。真っ黒なプラスチックの板だ。静雄は試しにそれで辺りを見回して見るが、真っ暗で何も見えない。
「…なんも見えねえぞ。」
「サングラスとは違うからね。」
 不満げな静雄の声が可笑しかったのか、臨也は喉奥で僅かに笑い声を立てた。
 朝に起こされた時から思っていたが、今日の臨也は随分と機嫌が良いようだ。いつもの長いお喋りもなければ、静雄に対して嫌味も毒舌もない。金環日蝕を見ることがそんなに楽しいのだろうか──静雄にはそれしか理由が思い付かない。
 長い階段を上り終えると、臨也は屋上への重い扉を開けた。途端、体が朝の光が包まれて、頭上には薄い空の色が見える。外はひんやりとしていたが、時折吹く風は気持ちが良かった。
「その眼鏡越しに太陽を見てみて?」
 臨也に促され、静雄は眼鏡を翳して太陽を見上げた。黒い視界の真ん中に、白くて丸い太陽が見える。その太陽の端に、真っ黒な影──月があった。
「わ、見える。」
 日蝕なんて初めて見た、と静雄は感嘆の声を上げる。そもそも日蝕というのは結構頻繁に起こるらしいが、本州で金環日蝕が見れるというのが約130年振りらしい。そう考えると、今この瞬間がとても貴重に思えて来るから不思議だ。
「あの黒いのが、月なんだよな?」
「そういうことだね。」
 少し錆び付いた柵に肘を置き、静雄は眼鏡越しに目を細めた。本当なら裸眼で見たいけれど、こればかりはどうしようもない。日蝕じゃなくても、人の目に太陽の光は眩し過ぎるのだ。

 二人はそのまま、暫く無言で空を眺めていた。
 真っ黒な月が徐々に太陽を隠してゆくのは、なかなか神秘的な光景だ。空は確かに明るくて今は朝だと分かるのに、何故か空が薄暗くなってゆく気がする。
「空は、真っ暗になるわけじゃねえんだな。」
「皆既日食とは違うからね。」
 思っていたよりも傍から聞こえる臨也の声。静雄はそれに一瞬ドキリとしたが、太陽から視線は外さなかった。
 太陽はどんどん月に浸食されてゆく。月や星や太陽や、天体になんて殆ど興味はなかったけれど、こうやって朝に空を眺めるのも悪くはないと思った。もう少ししたら金環日蝕も終わって、いつもと変わらない一日が始まるのに。

 ──なんで、臨也は俺を誘ったんだろう。

 ふと、そんなことを考えた。
 臨也は深夜に仕事をしている分、起床が遅い。こんなに早朝から会うのは、長い付き合いの中で今が初めてだ。わざわざ早起きして、日蝕グラスまで準備して、そこまでして見たがるのは臨也らしくない気がする。まして、一緒に見る相手が自分だなんて。
 やがて、真っ黒な月が太陽の中心へ来た。金環と言うその言葉の通り、それはまるでリングみたいに見える。
「すげえな、本当に綺麗にまん丸だ。」
「指輪みたいだろう?金環日蝕に合わせて、プロポーズする人も多いらしいよ。」
 そう言った臨也の声が僅かに掠れていた気がして、静雄は思わず空から臨也へと顔を向けた。
 臨也の赤い双眸は、じっとこちらを見つめている。最初から日蝕ではなく、静雄の顔を眺めていたのだろう。臨也のその眼差しはやけに真摯に見え、静雄の心臓がどくんと跳ねる。
「な、なんだよ…?」
 真剣な臨也の眼差しに臆して、静雄は掠れた声を発した。風も、空も、月も、太陽も、今この瞬間に全ての動きを止めた気がする。まるで自分たち以外は時が止まったみたいに。
 臨也はそれには何も答えず、無言で静雄の左手を掴んだ。びくりと静雄の肩が跳ねるが、そのことを気にする様子もない。
「そういう歌があるんだ。」
「…歌?」
 聞き返す静雄の声は小さい。どくどくと己の心臓の音が煩かった。掴まれたその手を振り解くことも出来ず、ゴクリと唾を呑み込んで臨也を見つめ返す。
「金環日蝕の日にリングを貰う歌、なのかな。俺も聴いたことはないんだけれど。」
 くぐもった低い笑い声を漏らし、臨也は静雄の左手に目を落とした。手の甲を撫でられ、指先を優しく弄ばれて、静雄の体が小刻みに震える。
「まあ、だから俺も世間に乗せられようと思ってね。」
 笑って告げられた言葉の意味が分からず、静雄は目を丸くした。──世間って、どういう意味だ──?
 臨也はやっぱりただ笑って、ポケットから小さな箱を取り出す。手に収まるくらいの大きさの、四角い箱。その中にはシンプルなリングがひとつ入っている。
「…え、」
 そのリングの輝きを見て、静雄は再度目を見開いた。太陽の光を受けて、鈍く光る銀色のリング。真ん中には小さな赤い石がはめ込まれている。宝石に詳しくない静雄は、それが1月の誕生石なことを知らない。
 臨也はそれを手に取ると、ゆっくりと静雄の薬指に嵌めてゆく。驚いて動かないでいる静雄の指に、するりとそのリングは収まった。まるで最初から、静雄のものだったみたいに。

「あげる。」

 臨也はそう言って静雄の手から離す。
「え?」
「返事は次に会った時でいいよ。」
 目を丸くした静雄へ顔を寄せ、臨也は唇に触れるだけの口付けをひとつ落とした。そしてそのまま踵を返し、さっさと屋上から出て行ってしまう。
 後に残された静雄はただぽかんと。

「は…?」

 混乱して思考が上手く働かない。唇に一瞬だけ触れた熱が残っていて、静雄の頬も首も耳も火照らせてゆく。
 ──なんだこれ。
 リングが嵌まった指が熱かった。それは別に重いわけではないのに、いやに存在を主張している。体が熱くて堪らなかった。心臓の鼓動がバクバクと煩くて、周りの他の音が耳に届かない。
 頭上の金環日蝕は疾うに終わって、太陽はいつもの明るさを取り戻していた。池袋の街に、いつもの騒がしい日常が始まる。

「なんだ、これ…、」

 赤くなって頭を抱える静雄の薬指で、シルバーのリングだけが輝いていた。



(2012/06/22)
プロポーズ大作戦。
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