菜の花や 月は東に日は西に
おまけ



 今日は一日落ち着かなかった。
 仕事中もそわそわそわそわ。挙動不審過ぎて上司に心配されてしまったし、夕方に会った親友には『熱でもあるのか?』と言われてしまった。
 つまりそれくらい自分の顔は赤く、心臓はバクバクといっていたのだ、ほぼ一日中。思い出す度に息が苦しくなるし、思い出さないようにしようと思うのに、気が付けば考えている。
 柔らかかった一瞬の感触。
 さすがにこの歳になってキスが初めてだなんて言わないけれど、それでも経験が少ない静雄には充分な刺激だった。相手があの男ということも。
 アパートまでの帰り道。のろのろと重い足取りで静雄は住宅街を歩く。もう7時だというのにまだ西の空は明るい。あと一ヶ月もすれば、本格的な夏がやって来るのだ。まだ少しだけ涼しい風が、静雄の火照った頬を撫でてゆく。
 さすがに臨也ももう家にはいないだろう。あの男は意外に潔癖症なところがあるから、着替えもなく一日他人の家で過ごすことはないと思う。今頃は新宿の家に帰り、何か悪巧みでもしているに違いない。
 今朝のことを思えば臨也の顔を見たくはなかった。一週間か十日──いや、一ヶ月ぐらいは暫く会いたくない。臨也にとっては何気ない口付けでも、静雄にとっては簡単な問題ではないのだ。つまり、それだけ自分はあの男を意識しているということになる。
 カンカンカン…。
 音が煩いアパートの階段を駆け上がる。いつものサングラスを外し、胸ポケットの中に入れた。そして部屋の前に来ると扉を開けようとして──ふと手が止まる。
 鍵が開いている。これは当たり前だ。自分は鍵を掛けなくていいとあの男に言ったのだから。けれどこの隙間から漏れている光は、間違いなく室内の電灯の灯りだ。
 静雄は嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、扉をそっと開けて中に踏み込んだ。

「おかえり。」

 酷くあっけらかんとした声と顔で、臨也は静雄を笑顔で出迎えた。傍らにはダンボール。そして鋏やガムテープが床に転がっている。
「…何してんだ。」
 鼓動が早くなるのを無視して問う。顔は赤くないだろうか、上手く表情は作れているだろうか。
「シズちゃんを待ってたんだよ。」
 赤みがかった双眸を僅かに眇め、臨也は座り込んでいた床から立ち上がった。ふわりと香る優しい石鹸の香り。また勝手に風呂にでも入ったのかも知れない。
「何でまだここに居る。」
 くらりと軽く眩暈がして、静雄は思わずこめかみを手で押さえた。取り敢えず靴を脱ぎ、部屋の中へと入る。いつまでも玄関口に立っているわけにはいかない。
「シズちゃんを待ってたんだってば。」
「何の用だ。もう眠れたんならさっさと帰ればいいだろ。」
 臨也がここに来たのは『誰かと寝る』為だった筈だ。どうやら昨夜は良く眠れたようだし、もう静雄には用がない筈だろう。誰かと居れば眠れることが分かったのなら、今後は他の『誰か』と寝ればいい。
 そう口にして、胸にズキンと小さな痛みが走った。臨也が誰と寝ようが構わない筈なのに、何故か胃の奥がじわりと焼き付くように熱い。静雄はそれ以上言葉を続けられずに、小さく唇を噛んで臨也から目を逸らした。
「別に誰でもいいわけじゃないよ。」
 突然黙りこくった静雄を気にすることなく、臨也は口端を吊り上げて笑う。
「例えば知り合いでも新羅と寝るなんて死んでも御免だし、だからと言って行きずりの女と寝るなんて想像するだけで吐き気がするね。」
 臨也はそう言って、足元のダンボールを横に積み上げた。
 それに訝しげに思った静雄が顔を上げれば、部屋中がダンボールだらけなことに今更気付く。静雄は目を何度も瞬き、片付けられてガランとした自分の部屋の状態にぎょっとした。
「なんだよこれ?」
「引っ越しの準備だよ。」
「はあ?」
 意味が分からない。
 部屋中の荷物がダンボールに入れられている。服も、皿も、タオルも、歯ブラシさえも。
 引っ越しって──まさか、

「シズちゃんとしか寝ない。」

 不意に告げられた言葉に、静雄の心臓がどきりと跳ねる。
「な──、」
「つまり、俺はシズちゃんがいないと安眠出来ない。」
 臨也は静雄の顔を覗き込むように顔を近付けた。こうして間近で見ると、本当に綺麗な顔をしている男だと思う。
「だから、一緒に暮らして。」
 ──は?
 何を言い出すんだ、こいつ。
 驚いて声を上げようとした静雄の唇が、相手によって強引に塞がれた。
「…ふ…っ、」
 後頭部に手を回され、引き寄せられて、まるで噛み付くみたいな口付けが落とされる。今朝の、リップ音を立てたものとは比べものにならない、深い口付け。舌を吸われ、喉奥まで舐められて、静雄の身体から力が抜けてゆく。
「…あ、…ふっ、…んんっ、」
 飲みきれなかった唾液が顎を伝って落ちる。体がぐらりとふらついて、臨也の腕がそれを支えるように腰に回された。くちゅくちゅと響く水音が卑猥で、静雄の頬は羞恥で紅潮する。
 熱くて、息が苦しくて、静雄は臨也の肩を必死に押し返す。静雄にしては弱々しい力だったけれど、それでも臨也の唇は静雄から離れた。
「…は…っ、」
 必死に息を整えながら、生理的な涙で潤んだ瞳で臨也を睨む。腰に回された臨也の手も振り解きたいが、今この手が離れたら座り込んでしまいそうだった。
 そんな静雄の様子を見て、臨也は目を細めて穏やかに笑う。いつもの人を食ったような笑みではなく、屈託ない自然な笑い方は臨也には珍しい。
「返事は?」
「…返事?」
 零れた唾液を手の甲で拭いながら、静雄は鸚鵡返しに聞き返す。心臓は早鐘のように打ち、もう頭の中はぐちゃぐちゃで混乱していた。昨日から臨也には振り回されっぱなしで腹が立つ。
「一緒に住んでくれる?」
 臨也の声は低く真摯で、少しだけ笑い混じりだ。それは、断られるわけがない、という自信が垣間見える声だった。
 静雄は言葉を失って、まじまじと目の前の綺麗な男を見る。大体もう人の荷物を勝手に荷造りしているくせに──この男は本当に自分勝手で自己中心的で、最低な男だ。
「…俺は手前の抱き枕じゃねえぞ。」
「分かってるよ、そんなこと。」
 喉奥で低い笑い声を漏らし、臨也は静雄の赤くなった頬を両手で包み込む。その手は静雄の紅潮した頬よりもずっと冷たくて、静雄は臨也が緊張していることを知る。

「──で?答えはどっちなの?『YES』か『はい』で答えな。」

 黒い悪魔はそう言って、それはそれは楽しそうに笑った。


(2012/05/23)

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