──なんの冗談だ、これ。
 静雄は布団の中で頭を抱えていた。電気を消した真っ暗な部屋の中、目を開けて何もない空間を睨んでいる。
 背中には自分のものではない温もりと気配。たまにごそごそと動くのは、眠れていない証拠だ。
「ベッドじゃなくて布団で寝るなんて久し振りだ。」
 静雄の後ろに寝転んだ男はそう言って、何が愉しいのか声を上げて笑った。ひょっとしたら修学旅行のようなノリでいるのかも知れないが、静雄としてはちっとも楽しくない。
「寝れねえんなら自分ちに帰れよ。」
「今は寝れないっていうより、寝たくないだけかな。」
 楽しくて。と、臨也はまた笑い声を上げた。横たわった体が近過ぎて、臨也が笑うたびに布団が揺れて落ち着かない。ドキドキと心臓の鼓動が早いのは、怒りのせいだろうか。
 ──はあ。
 静雄は溜め息を吐いて布団を被った。別に大きくもない一人用の布団なので、男二人では正直狭い。手も足もはみ出してしまっている。
 ──なんでこんなことに。
 いや、寧ろ何で拒否しないんだ、俺は。
 臨也の強引さに押し切られている自分が情けない。これが昔──例えば高校生の頃だったら、自分はきっと問答無用で表へ叩き出していただろう。尤も昔の臨也なら、静雄と同衾などしないだろうが。
「ていうか、まだ日付変わってないんだねえ。」
 夜型の臨也にとって、この時間に床につくことは珍しい。
「俺は朝から仕事あるんだよ。」
 だから早く寝たい、と言葉裏に込めて、静雄はぎゅうっと目を瞑った。体は何だか熱いし、頭はいやに冴えている。この分だと眠れそうになかったけれど、臨也とずっと会話しているのも居たたまれない。
 取り敢えずは寝た振り…と、何も考えないようにした。
「シズちゃん。」
 臨也の腕がするりと伸びて来て、静雄の腹の前に回された。びくんと静雄の肩が跳ね、思わず閉じていた瞼を開く。Tシャツ越しに背中に温もりが伝わり、首には温かな吐息と、前髪の先が項に触れた。
「なに──、」
「人の温もりがある方が寝れそうだから。」
「…俺は抱き枕か。」
 忌々しげにそう吐き捨てても、機嫌の良い臨也はただ笑うだけだ。くぐもった低い笑い声を漏らし、更に強く抱き締められる。こんなに密着されたら、きっと早くなった心臓の動きもバレているだろう。
 ぐりぐりと頭を背中に押しつけられ、擽ったさに身を捩る。「やめろ、バカ!」と軽く臨也の手を叩けば、また臨也は笑い声を上げた。本当にご機嫌だ。
「ねえ、こっち向いてよ。」
「絶対嫌だ。」
「シズちゃんの顔見たい。」
「俺は見せたくない。」
 きっと暗闇の中でも赤いのが分かってしまう。
「つまんないなあ。」
 臨也は残念そうな声を出すが、きっとその顔は笑っている筈だ。裸足の足もぶつかって、互いの温もりが同じ温度になる。
 しがみつくような腕の力が強くなって、やがて臨也はピタリと動かなくなった。どくん、どくん、と未だ心臓の動きは早い。臨也の心臓も、同じ速度ならいいのにと思う。

 どれくらいそうしていたのか。

 体に巻き付いた腕の力が不意に抜けたのが分かる。意識を背中に集中すれば、聞こえて来るのは穏やかな吐息。
「…臨也?」
 掠れた声で名前を呼んでも、相手は答えない。振り向いてその顔を確かめたかったけれど、起こすのも悪い気がした。
 ──なんだ、寝れるんじゃないか。
 ふう、と息を吐いて、静雄は体の強張りを解く。思っていたよりもずっと緊張していたらしい。じっとしてゆっくりと呼吸をすれば、鼓動も少しずつ収まって来た。
 改めて目を閉じれば、途端に緩やかな眠気が襲って来る。背中には自分以外の温もり。静かな部屋に、二人分の呼吸。

 体に回された臨也の腕を、静雄は朝まで解かなかった。




 朝になって目が覚めると、目の前に酷く端正な顔があって驚いた。一瞬理解が出来ず頭が混乱したけれど、直ぐに昨夜のことを思い出す。
「あ…、」
 静雄は目を何度か瞬かせると、やっと状況を把握した。慌てて身を起こそうとして、頭と腕と足と──抱き枕の如く抱き締められていることに気付く。いや、抱き締められているというよりこれは羽交い締めだ。静雄は直ぐにでも身を離したかったが、相手はまだすやすやと眠っているから乱暴に出来ない。
 ゆっくりと、細心の注意を払って、静雄は臨也の拘束をそっと外して行った。「ん、」と鼻に掛かった声を出して臨也が身動ぎしたのに驚きはしたものの、静雄は無事に布団から抜け出すことが出来た。
「やべえ…。」
 寝れないと思っていたのに、かなり熟睡してしまったらしい。時計を見ればもう出勤時間ギリギリで、朝食を摂っている暇も無さそうだ。
 顔を洗い、寝癖を整えて、大急ぎで着替えをする。こんな時、ボタンの多い衣服は面倒くさい。糊の利いたワイシャツを着て、ベストを羽織って、静雄は鏡の前でピンと背筋を伸ばす。時間は待ってくれない。
 寝ている男を気遣って行動していたものの、やはり多少は騒がしかったのかも知れない。出掛けようとサングラスに伸ばし掛けた手を、横から伸びて来た手に不意に掴まれた。
「!」
「おはよう。」
 起き抜けとは思えない声と、手首を掴む力。静雄は目を見開き、そして条件反射のように「おはよう。 」と返した。それに満足したのか、臨也は口端を吊り上げて手を離した。
「仕事?」
「ああ、帰るなら鍵掛けなくていいから。」
 臨也から目を逸らし、改めてサングラスを掛ける。狭い玄関で屈んで、黒い革靴を履く。靴篦も使わず、爪先をトン、と床に打ち付けた。
 なんだか──顔を直視できないのは何故だ。一緒に寝たといっても、体を重ねたわけではないのに。
「シズちゃん。」
 名を呼ばれ、静雄は無意識に振り返った。玄関口に立ち、いつもとは違う位置にある臨也の瞳。その長い睫毛が伏せられ、薄い唇が目の前に迫る。

 ちゅ。

 軽いリップ音を立てて、一瞬だけ触れた唇は離れて行く。
「行ってらっしゃい。」
 べろん、と音がしそうなほど舌なめずりをして、臨也は静雄を見て笑った。



 顔を真っ赤にした静雄を見送り、臨也は再び布団に寝転がった。久し振りに熟睡した体は軽く、頭も冴えてさっぱりとしている。あんなに毎日眠れなかったのが嘘のようだった。
 ──しかし真っ赤だったなあ。
 キスをしてやった時の静雄の顔を思い出し、臨也は知らず知らず口許を綻ばせる。頬を赤く染め、サングラスの奥の目をまんまるにして。彼のあんな表情を知っているのはきっと極僅かだろう。親友と闇医者と上司と弟と──自分以外にあんな表情を見た者がいるのはそれはそれで腹が立つけれど、今は湧き上がる悋気を抑え込んでやる。
 取り敢えず彼の傍だと眠れることが分かった。抱き締めた体の硬さは女のそれとは全く違うけれど、意外に抱き心地は悪くはない。温もりも香りも自分の気持ちを落ち着かせるには充分で、もう一度抱き締めたいと思ってしまう。
 ──それに。
 臨也は目を閉じて顔を伏せ、そっと自分の左胸に手を置いてみる。唇を重ねた時に最高潮に高鳴った鼓動は、昨日抱き締めた瞬間と同じくらいにまだ早い。
 穏やかさとときめきを同時に味わえる相手なんて、きっと静雄だけに違いない。臨也はその感情を知ってしまったから、もう静雄を離してやる気は更々無い。
 ──さてさて、今夜はどうやって寝ようかな。
 昨日と同じく静雄の布団で寝るか、はたまた自分のねぐらに連れ込むか──。大人しく連れ去られてくれる相手ではないから、何か作戦を考えなければ。

 頭の中で様々な策略を練りながら、まだ家主の香りが残る布団で臨也は再び目を閉じた。


(2012/05/18)
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