月は東に日は西に





「最近眠れないんだよねえ。」

 ぽつりと臨也が呟いたのに、静雄は読んでいた雑誌から顔を上げた。
 テレビもない静雄の部屋は、しんと静まり返っている。時折窓の外から車のエンジン音がするくらいだ。猫の鳴き声がしたり、どこかの部屋の洗濯機の音がしたり。ここは住宅街なので、人のざわめきはそんなに聞こえない。
「…だからなんだよ。」
 答える静雄の顔は無愛想だ。しかしその表情とは裏腹に、発した声はそう不機嫌でもない。
「心配してくれないの?」
 臨也はいつものように口端を吊り上げ、人を食ったような笑みを浮かべて静雄を見る。なまじ顔が整っているだけに、質の悪い笑顔だった。
「酒でも飲めば寝れるんじゃねえの。」
 適当にそう答え、静雄はまた雑誌に目を落とす。静雄には似合わない女向けの週刊誌だが、巻頭に大事な弟が載っているのだ。尤も今はこの男の存在が気になって、記事の内容はちっとも頭に入って来なかったけれど。
「アルコールは睡眠促進はされるけど、熟睡は出来ないんだよ。」
 それに酒に頼るほど馬鹿じゃない───なんて続けて言われ、静雄はうんざりと舌打ちをする。静雄の本音としては、臨也が寝ようが寝まいか関係ないのだ。寧ろさっさとこの部屋から出て行って、新宿に帰って欲しい。大体何でこの男が、自分の部屋に我が物顔でいるのだろう──。



 夜の帳が完全に落ちた頃、静雄は仕事を終えて真っ直ぐに帰宅した。今日は取立相手が散々逃げ回ってくれたせいで、いつもよりも疲労した1日だった。
 夕飯なんにすっかなあ──。多分、そんなことを考えながら静雄は扉を開けたと思う。鍵の掛かっていない薄い扉。鈍く光る冷たいドアノブ。
 そうして部屋に入って直ぐに、静雄は違和感に気付いた。まず、部屋の明かりがついている。キッチンの向こうの扉から、うっすらと灯りが漏れている。
 それだけなら単に消し忘れただけだと思ったかも知れない。しかし狭い玄関には見慣れぬ黒の革靴があったし、男物の香水の香りが鼻を掠めた。自分の煙草の匂いでも、たまに付ける香水でもない。恐らくこの匂いは、あの男の──。

「おかえり。」

 そんな言葉と共に静雄を迎えたのは、やはり昔からの天敵の男の姿であった。



「…は?」
「鍵掛かってなかったよ。いくら盗まれる物がないからって、施錠くらいはした方がいいんじゃない。」
 臨也は座布団を枕代わりにして、畳に寝転がっていた。何やら大きな鞄を持って、スマートフォンをしきりに弄っている。
「てめえ…、」
 腹の奥底から、ふつふつと怒りが湧く。勝手に人の家に入って、何を寛いでやがる──。
 直ぐに暴れて臨也を放り出さなかったのは、ここが自分の部屋だからだろう。静雄だってさすがに自分の家は破壊したくないのだ。
「何しに来た。さっさとここから出て行け。」
 低くドスの利いた声で脅しを掛ける。尤も静雄のこんな怒りなど、臨也には通用しないことも分かっていたけれど。
「まあそう言わずに。宅配ピザ頼んだから一緒に食べようよ。」
 臨也は起き上がって欠伸をひとつ。見ればテーブルの上には缶コーヒーの空き缶が転がっている。読みかけの文庫本やら、携帯ゲーム機やら。
 人の部屋で寛ぎ過ぎだろ──静雄は呆れて臨也を睨み付けるが、この男が今更静雄の睨みで動ずるわけもない。
 ムカつくことに腹も減っていて、久し振りにピザもいいかもな、なんて思ってしまったのも悪かった。一人暮らしだと宅配ピザは量が多く、注文することは滅多にないのだ。
「…お前の奢りか?」
「勿論。お邪魔しといてそこまで不義理じゃない。」
 どの口がそれを言うのか。
 臨也の言葉に静雄は思わず顔を顰めたが、何も言い返したりはしなかった。土台、口では適わない相手なのだ。何を言ってもこちらの苛々が溜まるだけである。最近の静雄は、臨也に対してほんの少し我慢を覚えた。
「飲み物買っておいたから、飲みなよ。」
 冷蔵庫に入れといた、と、臨也はキッチンの方を指差す。勝手に人んちの冷蔵庫開けるなよ──とは思ったものの、静雄は素直にキッチンへ向かった。
 流し台で手を洗い、 いつものベストを脱いでから、静雄は冷蔵庫を覗き込む。普段牛乳くらいしか入っていないそこに、静雄の好きなプリンやコンビニのケーキがいくつか入っていた。恐らくあの男が静雄の為に買って来たのだろう。
 ──機嫌でも取ってるつもりかよ。
 あからさまなご機嫌取りにムッとしつつも、やはり少しは嬉しく思ってしまう。臨也はなんのかんの言って静雄の嗜好は完璧に把握しているし、静雄が好きなこのプリンは結構値段が張るのだ。好物で釣られるなんてガキかよ、とも思うけど、静雄の機嫌が多少上向きになったのは確かだった。
 ペットボトルのコーラを取り出して封を開ける。一口飲んで炭酸の強さに眉根を寄せた。コーラは好きだけれど、ファストフード店の薄い味の方がもっと好きだ。子供舌だとからかわれようが、炭酸の強いのは苦手だった。
「着替えないの?」
 冷蔵庫の前で突っ立ったままの静雄に、臨也が胡乱げに声を掛ける。良く見ればその目には揶揄するような色が浮かんでいて、静雄は内心で強く舌打ちをした。
「俺はシズちゃんの着替えなんて気にしないけど?」
「うるせえな、今着替えるよ。」
 乱暴に飲みかけのコーラをテーブルに置き、隅に置いてある衣装ケースから着替えを取り出す。
 背中に強い視線を感じながら、静雄は殊更ゆっくりとワイシャツのボタンを外していった。男同士なのだし、意識することはないと思うのに、何故か落ち着かない。
 Tシャツを着て、下はジャージの下を履いた。着ていたワイシャツをくるくると丸め、洗面所の洗濯機に放り込む。ふわりと石鹸の香りがして顔を上げれば、浴室の扉が僅かに開いていることに気付いた。
 良く見れば少しだけ床が濡れている。どうやらあの男が勝手にシャワーを拝借したらしい。髪は濡れていなかったから体を洗っただけなのだろうけど、随分と自己中心的な男だと呆れる。
 今度こそ文句を言ってやろうと静雄が洗面所を出たのと同時に、インターホンの甲高い音が部屋に鳴り響いた。どうやら宅配ピザのご到着のようだ。臨也がそれに気付いて玄関へ行くのが見えた。
 臨也が配達員と遣り取りしている間、静雄は所在なくテーブルの前に座り込む。何だかさっきから文句を言うタイミングを逃している気がする。漂ってきたピザの匂いに腹が鳴って、ますます怒りが引っ込んでしまった。臨也に振り回されている自分に腹が立つけれど、心のどこかでそれを甘受してしまっている。

「はい。」

 戻ってきた臨也はテーブルにピザの箱を広げた。複雑な表情の静雄に何も言うこともなく、さっさとピザを一切れ取って口に運ぶ。そう言えば臨也がピザを食うところは初めて見る。確かこの男はジャンクフードが嫌いじゃなかったか。
 暫く二人は無言でピザを食べていた。時々臨也が何かを言って、それに静雄が一言答える。会話は弾まない。こんな時はテレビでもあればと思うけれど、あっても直ぐに壊しそうで買う気にもなれない。
「シズちゃんって、子供みたいな食べ方するよね。」
「はあ?」
 指に付いたトマトソースを舐めていると、不意にそんなことを言われる。確かに静雄自身そんな自覚はあるものの、目の前の男に言われるとそれはそれで腹が立った。
「ここ、チーズが付いてる。」
 唇を僅かに尖らせて不機嫌になる静雄に、臨也は笑って手を伸ばして来た。ぱち、と目を瞬かせる静雄を愉しげに見ながら、臨也の指が静雄の唇を優しく拭う。
「あ、」
 静雄が抗議の声を上げる前に、臨也はその指を舐め取ってしまう。ぺろ、と薄い唇の間から覗く舌は赤く扇情的に見えて、静雄は言葉を失って目を見開いた。
「なに?」
 ぽかんとした顔の静雄に、臨也は片眉を吊り上げる。その目は明らかに揶揄の色を浮かべていて、静雄はからかわれていることを知る。
「なに?、じゃねーよ。気持ちわりぃことすんな。」
 頬に熱が集まりそうになるのを必死に堪え、静雄はごしごしと唇を拭った。別に口付けられたわけでもないというのに、唇から臨也の指の感触が離れない。
「取ってあげたのに。」
「それが余計なことなんだろ。」
 むすぅ、と分かりやすく口をへの字に曲げ、静雄はテーブルから立ち上がった。もう残りのピザは食べないつもりらしい。
「残すの?」
「もう腹いっぱいだし…シャワー浴びて来る。」
 そう言うと静雄はそそくさと浴室へ消えてしまった。ほんのりと耳の先が赤く見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。臨也は思わず、くくっと愉しげな笑い声を洩らし、小さく肩を竦めた。なんとも可愛らしい反応だ。あんな静雄の反応も、悪くない。
 浴室からはガタゴトと何やら騒がしい音がして、次いでシャワーの音が聞こえて来た。腹がいっぱいの状態で入浴はどうかとは思うが、湯船に入らなければ問題はないだろう。恐らく静雄は鴉の行水だろうし、湯あたりなんてこともなさそうだ。
 残ったピザを箱のまま片付けて、臨也はそのままごろんと畳に横になった。先程と同じように座布団を枕代わりにし、部屋の天井を仰ぐ。少し古ぼけた木目の壁紙と、そこから吊された何の変哲もない電灯。静雄が生活している小さな部屋。
 臨也がこの部屋に来るのは初めてではなかったが、こうして寛いでいられることは珍しい。大抵はこの部屋に入って30分以内には、家主によって追い出されていた。
 それが今こうして居られるのは、偏に静雄の心境の変化と、臨也のご機嫌取りが功を奏しているのだろう。静雄はあれで案外流されやすいところがあるし、些か強引に事を進めれば渋々ながらも従ってしまう。ちょっと天然なとこがあるんだよねえ──。臨也はそんなことを考えながら目を閉じた。



「…寝てんのか?」

 暫くすると頭上から声が降って来た。臨也はその声にゆっくりと瞼を開ける。眠ってはいなかったけれど、ずっと目を瞑っていたせいで視界が白い。
「いや。」
 臨也はきっぱりと否定して、体を起こした。
「横になってただけだよ。 シズちゃんはもう上がったの?いくらシャワーだけだからって早過ぎない?」
 恐らく10分も経っていないのではないか。臨也はわざとらしく時計を見るが、静雄はそれを気にした風もない。首に真っ白なタオルを掛け、ごしごしと乱暴に髪を拭く。雫がこちらの方まで跳んでくるのに、臨也は僅かに眉を寄せた。
「ねえ、ちょっと。ちゃんと乾かしなよ。」
「ほっとけば乾く。」
「風邪引くよ。」
 臨也は立ち上がり、ドライヤーを探した。パッと見、洗面所にも部屋にもそれは見当たらない。静雄のことだから持っていないのかも知れないが、年頃の男がそれでいいのか、とも思う。
 キョロキョロとする臨也を不思議そうに眺め、静雄は小首を傾げる。きょとんとした顔はいつもより幼くは見えるけれど、臨也はそれに僅かに苦笑した。
「貸して。」
「え?、は?!」
 戸惑う静雄の手からタオルを奪い取り、ガシガシと静雄の髪を拭いてやる。
「せめてちゃんと拭いて。びしょ濡れじゃないか。」
「ガキ扱いすんな!」
「ガキでももっとちゃんと拭くよ。」
 溜め息を吐き、尚も力を入れて頭を拭いてやれば、観念したのか静雄はおとなしくなった。まだぶつぶつと何か文句を言っていたけれど、それは聞こえない振りをしておく。
 ──ほんと、子供みたいだな。
 濡れていつもより色の濃い金髪を見ながら、臨也は目を眇める。庇護欲を煽られる、というのだろうか。あの闇医者が甲斐甲斐しく静雄の世話を焼くのも、なんだか分かる気がした。
 濡れたタオルを洗面所へ片付け、部屋に戻って来ると、静雄は所在なさげに雑誌をパラパラと捲っていた。空気がほんのりと重い。むっすりと黙り込んだ静雄の頬が赤いのは、きっとシャワーを浴びたせいだけではないのだろう。

「最近眠れないんだよねえ。」

 取り敢えずこの場の空気を変えようと、臨也は口を開いてみる。すると静雄はあっさりと顔を上げた。元から雑誌の内容なんて読んでなかったようだ。
「…だからなんだよ。」
 不機嫌な顔をしても、律儀に答えが返って来る。その頬はまだほんのりと赤い。
「心配してくれないの?」
 揶揄を含めてわざと笑ってやれば、静雄は思い切り顔を顰める。ああ、せっかく悪くない顔なのに勿体ない。どうして彼はいつも自分にはそんな顔になるのだろう。
「酒でも飲めば寝れるんじゃねえの。」
「アルコールは睡眠促進はされるけど、熟睡は出来ないんだよ。」
 臨也は大袈裟に肩を竦める。静雄から目を逸らし、気付かれないようにそっと息を吐いた。
 臨也が最近眠れないのは本当だ。ベッドに横になってもなかなか眠りが訪れない。眠りも浅く、直ぐ何かの物音で目が覚めてしまう。体が酷く疲れていても、何故か眠れない。
 そんな状態になって一週間以上。さすがに寝不足は判断能力や身体能力を著しく低下させる。そろそろ拙いな、と臨也は焦っていた。
 ふと目の前に陰が差し、臨也は顔を上げる。至近距離に無愛想な静雄の顔があり、その色素の薄い瞳が臨也を捉えて眇められた。
「…なに?」
「…ふうん。」
 静雄の顔は直ぐに離れて行った。どうやら臨也の顔色か、はたまた目の下の隈を確認していたらしい。
「新羅には話したのか。」
「薬出そうかって言われたよ。でも薬には頼りたくないかな。」
 言いながら脳裏に闇医者の姿が浮かぶ。臨也が睡眠薬に難色を示すと、あの闇医者はにっこりと笑ってこう言ったのだ。

『なら誰かと一緒に寝てごらん。』

「は?」
 その話をすると静雄は案の定、目を驚きで丸くした。そして直ぐに胡乱な目つきになり、臨也を睨み付けて来る。
「…話の流れが見えねえんだけど…。」
「そうかな?簡単な話だと思うんだけど。」
 臨也はそう言って、壁際に置いていた大きな鞄を持ち上げた。それは見た目に反して軽いらしく、音もなく静雄の前に下ろされる。
 そうして、いかにも警戒してます、という静雄の顔に笑いながら、臨也は鞄の中身を取り出した。
「…なんだこれ。」
「枕だよ。見て分からない?」
 臨也はニヤリと口角を吊り上げた。真っ黒な大きな鞄から出て来たのは、確かにどう見ても枕のように見える。
「──…つまり?」
 嫌な予感しかしない。
 静雄はズキズキとコメカミが痛むのを感じながら、目の前で得意気に笑う男を見て唾を飲み込んだ。決して短くはない付き合いの中で、臨也がこんなご機嫌なのは静雄にとって最悪な事態なことが多い。

「つまり、シズちゃんと一緒に寝ようと思って。」

 臨也はそう言って、にっこりと笑った。


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