Goodbye Happiness



 臨也は甘い玉子焼きが嫌いだ。
 玉子焼きは出汁が効いた塩味か、薄口の醤油味がいい。プレーンにソースをかけるのもいいし、とろけるチーズを巻くのもいい。でも、砂糖味のだけは苦手であった。
 朝、テーブルに並んだ玉子焼きを見て、臨也は溜め息を吐く。今日の朝食の当番は静雄だった。静雄は甘い玉子焼きが好きらしく、当番の時は必ずと言っていいほど朝食にはそれが並ぶ。
「俺は別に食パン一枚でも気にしないのに。」
「なら食うなよ。」
 口に箸を咥えたまま、静雄は臨也の顔を睨んで来る。それに「行儀が悪いよ」と咎めれば、静雄は渋々と言った風に口から箸を離す。
 臨也は再び小さく嘆息すると、テーブルの向かいの席にゆっくりと腰を下ろした。柔らかめの白米と、少ししょっぱい豆腐の味噌汁。そして塩鮭とお新香。日によってはこれに海苔や納豆が付く。
 臨也が食事当番の時は、大抵が焼いた食パンに、ノンオイルのドレッシングのサラダ、スクランブルエッグやウィンナーだった。和食よりそっちの方が簡単なのに、静雄はいつも和食を作る。
 平日の昼間は何を食べているの?と静雄に訊けば、毎日ファストフードだ、と答えが返って来た。そんな風に別に食事に気を使っているわけではないらしいのに、何故朝だけきちんと和食にするのだろう。臨也はその理由をまだ明確に訊いたことがない。
 カリカリと静雄がお新香を食べる音がする。最初の頃に比べれば、静雄の料理の腕は格段に上がった。臨也も静雄も、炊事はあまり得意ではない。それでも同棲を決めた時、朝食だけは作って一緒に食べようと約束したのだ。
「ごちそうさま。」
 ぱん、と軽く手を合わせて静雄が席を立つ。臨也はまだ一口しか食べていない。さっき起きたばかりの臨也には、朝から量の多い食事は辛い。
「もう仕事?」
「今日はちょっと早く行くから。」
 静雄は毎日毎日、大体決まった時間に仕事場に行き、決まった時間に帰って来る。アングラ的な仕事の癖に、まるでサラリーマンみたいな生活だ。
「行ってらっしゃい。」
 そんな静雄を、臨也は玄関先まで見送ってやった。行ってらっしゃいのキスでもしてやろうかと思ったが、殴られそうなのでやめておくことにする。
 静雄がいなくなり、一人きりの部屋には静寂が訪れた。臨也はのろのろとテーブルの席に戻り、再び朝食の箸を取る。知らず欠伸が出た。まだ眠い。
 臨也の仕事は夜型だ。『情報』は大抵は昼間に動くものだが、それを処理するのは夜が最適だ。だから臨也はいつも深夜までパソコンに向かっている。お陰で朝早く起きるのは随分と苦痛だった。
 臨也は静雄を見送った後、またベッドに入って少し眠るようにしている。そうして秘書のような役割の女が出勤する頃、やっと本格的に起床するのだ。そうしなければ、睡眠不足になってしまう。
 ──今日はもう、食べる気がしないな。
 臨也は何度目かの溜め息を吐いて、玉子焼きを口に放り込む。それはやはり甘くて、臨也の口には合わなかった。



 最近臨也が知り合った女は、玉子焼きは塩味がいいと言った。付け爪も無く清潔な女で、炊事もちゃんと自分でしているのが窺えた。少し手は荒れているけれど、そんな人間臭いところもいいなと臨也は思った。
 女は臨也を性的に気に入ったようだが、臨也の方はそんな気はさらさらなかった。いくら人間的に好みな女であっても、それで抱けるかどうかは別の話だ。臨也が彼女と会っていたのは彼女が持つ『情報』が欲しかったからで、それ以外の目的はない。
 彼女と酒を飲み、情報をあらかた聞き出すと、臨也はさっさとマンションへと帰宅した。携帯電話に表示された時刻は既に二時を回っている。多分臨也の同棲相手は既に眠っているだろう。
 静雄は臨也がどれだけ遅く帰宅しても、女物の香水の匂いをさせていても、何も言わない。信用しているのか、諦めているのか、臨也には分からない。信用してくれている、と思いたい。
 静雄は恋愛ごとに疎く、鈍い。そして真面目だ。そんな男が同性である自分と体を繋げるのは、愛情がなければ出来ないだろう。だから臨也も静雄の愛情は疑っていなかった。あちらもそうだといいと思っている。
 夜遅くに眠ることが多い臨也の寝室は、静雄とは別の部屋だった。眠る前に静雄の顔を見たいと思ったが、さすがにこんな時間に起こしたら申し訳ない。寝ぼけて殴られでもしたら最悪だ。
 臨也は気を取り直してシャワーを浴び、髪の毛を軽く乾かしてから自室のベッドに入った。真っ白で清潔なシーツは、臨也の足に冷たさを伝える。
 もう何日、静雄と寝ていないだろう──。
 こちらの仕事が忙しいのもあるが、生活リズムが違うのが一番の原因だと思った。同棲する前だって、夜に会うことは少なかったのだ。昼間、池袋でばったりと遭遇する方が多かった気がする。
 臨也は大きな欠伸をひとつし、枕に顔を埋めた。ああ、眠い──。アルコールの入った体は直ぐに微睡み始める。疲れ切っていた臨也は、そのまま何も考えられなくなって寝てしまった。
 次の日臨也が目を覚ますと、既に太陽は真上に昇っていた。臨也はそれに驚きつつ着替えをし、顔を洗ってから仕事場の扉を開ける。中では既に秘書の女がパソコンに向かっていて、臨也の姿を見るなり顔を思い切り顰めた。
「いつまで寝ているのよ。もう昼よ。」
「シズちゃんは?」
「知らないわよ、とっくに仕事に行ったんでしょ。」
 臨也は慌ててキッチンへと向かう。シンクには洗われた一人分の皿と、冷凍室には凍ったご飯があった。朝、確かに静雄はここで調理をしたのだ。
 自分が起きなかったのか、静雄が起こさなかったのか──恐らく後者だろうと臨也は思った。今日の朝食の当番は臨也だったというのに、静雄が気を使って起こさなかったのだろう。
 やっぱり昨夜、一目でも顔を見ておくんだった──。
 そう後悔してももう遅い。心の罪悪感とは別に、久し振りに充分な睡眠をとった体は軽くなっていた。それすらも静雄に対して後ろめたさが残る。
 結局その晩も臨也は外出せざるを得なくなり、その翌朝も静雄の姿を見ることは叶わなかった。
 同じ家に住んでいるのに会えない──そんな異常事態も、毎日のことになれば徐々に慣れてゆく。人間というのは薄情なもので、忙殺される日々に感情は埋もれてゆく。
 季節が変わって空の色が変わって、静雄は今やすっかり臨也を起こさなくなった。朝に和食を作るのもやめたらしい。たまに臨也が冷蔵庫を覗くと、中には食材が何も入っていなかった。
 毎日昼過ぎに起床する上司を見て、秘書の女はすっかり呆れている。臨也は今のところ、それを改善する気は全くない。仕事が忙しいのだから、それくらいは見逃して欲しいものだと開き直っている。
 そんなある日、珍しく臨也の家に同級生であった闇医者が訪ねて来た。彼は白衣をはためかせてソファーに座り、秘書の女が淹れた紅茶を一口飲む。
「うん、紅茶もたまにはいいなあ。うちだとコーヒーばっかりで。」
「わざわざ新宿まで、紅茶を飲みに来たの?」
 臨也は脚を組み直し、新羅の顔を探るように見る。口許に笑みを浮かべてはいるものの、その目には警戒が顕れていた。長い付き合いにはなるが、新羅が新宿に来ることは滅多にないのだ。何か目的があるに決まっている。
「そんなに警戒することないじゃない。せっかく遊びに来たのにさ。」
 頬を膨らませ、唇を尖らせて、新羅は分かりやすく不機嫌な顔になった。その表情も態度もわざとらしくて、臨也はますます不快になる。
「で、なんなの。」
 先を促す臨也に大袈裟に肩を竦め、新羅は白衣のポケットから何かを取り出した。金属で出来た、小さいそれ。
「これ。」
 コトン、と音がしてテーブルに置かれたそれは、鈍く光るこの部屋の鍵だ。
「静雄から預かって来た。返すって。」
「は?」
 ぽかん、と間抜けな表情をして、臨也は目を丸くする。
「本当は郵送でもするって言ってたんだけど、僕が臨也の間抜けな顔を見たかったから届けに来たよ。」
 にっこりと微笑んで、新羅は眼鏡の奥の目を細めた。その茶色の虹彩はやけに冷えていて、臨也はこの目の前の男が酷く怒っていることを知る。
 ──鍵?この家の?
 臨也は突如立ち上がると、新羅を残して仕事場を出た。廊下を大股に歩き、目的の扉を乱暴に開ける。この部屋は静雄の寝室だった。
 その中に踏み込んで、臨也は驚きで目を見開く。部屋の中には何もなかった。備え付けの家具はあるものの、荷物がない。クローゼットを開けてみても、その中には衣服はひとつも見当たらなかった。いつも散らかっていた雑誌も、飲みかけのペットボトルも、何ひとつ机には残っていない。
「今頃気付いたの?」
 声は入り口からした。扉には無表情の闇医者がいて、声を発したのはその後ろにいる秘書の女。
「もう三日も経つわよ。一緒に生活していたのに気付かないなんて──最低ね。」
 波江はそう言って再び仕事場へ戻って行く。その目はどこまでも冷たく臨也を蔑んでいた。
 そしてがらんどうになった部屋には、臨也と新羅だけが残された。臨也の頭はまだ混乱している。静雄がいつの間にか出て行ったという事実を、まだ受け入れられずにいる。
「どうして──、」
「どうして?」
 臨也の零した呟きに、新羅は薄く笑い声を漏らした。
「君は分かっているでしょ?」
 新羅の声は憐れんでいるかのように優しい。どんな顔でそんな声を出しているのか、臨也は振り返りたくなかった。
 最後に静雄の顔を見たのはいつだったろう。
 最後に静雄に触れたのはいつだったろう。
 最後に静雄の朝食を食べたのは──。
「静雄、君がいつもパンばかりだから、和食を作るのを練習してたんだよ。」
 知らなかっただろう?
 新羅の言葉が心に刺さる。
 臨也は目許を手の平で覆い、まるで叱られた子供のようにその場にうなだれた。何が悪かったのだろう──きっと全てがダメだったのだ。後悔で胸がズキズキと痛む。
「…まだ、間に合うと思う?」
「君次第だね。」
 珍しく弱々しい臨也の言葉に、新羅は真っ直ぐな言葉を告げる。
「お互いがお互いを思いやらないと、恋なんて上手くいかないよ。」
 一緒にいたくて同棲をし始めたのに、自分はいつしかそれを見失っていた。
 臨也はやがてゆっくりと顔を上げると、新羅の横を通り抜けて仕事場へと戻った。新羅から渡された鍵を手にし、コートを羽織ってから、秘書の女を振り返る。
「ちょっと出掛けて来る。」
「今日はもう帰らなくてもいいわよ。」
 呆れたような顔をして、秘書は無愛想に言う。それでもその声には優しさが滲み出ているのを、臨也は分かっている。
「一発ぐらい殴られるかもね。治療費はサービスしておくよ。」
 闇医者の男はそんな物騒なことを口にして笑った。
 やりかけの仕事も何もかも放り出して、臨也はマンションから外へ出る。仕事なんかよりも大切なものが自分にはあった。
 新宿の街を早足で歩き、駅に向かいながら静雄のことを考える。あの顔も声も温もりも、臨也はまだ手離したくなかった。広がる胸の痛みと共に、駅に向かう足は自然と速くなる。
 たくさん謝って、たくさん好きだと伝えて──そしてまた、あの甘い玉子焼きを作って貰おうと、臨也は思った。


(2012/04/26)
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