親友であるセルティが、チョコレートを手作りしたいと言い出した時、静雄はちょっぴり不安になった。何故なら彼女は料理があまり上手ではなく、玉子焼きは消し炭になるし、ケーキは何故か爆発する腕前だからだ。
 しかし静雄にしてみれば、セルティからのチョコレートを受け取るであろう幼なじみの男が腹を壊そうが入院しようが知ったことではなかったので一言、「頑張れよ。」と親友を応援した。親友なら当然の言葉であろう。
『良ければ静雄も手伝ってくれないか?』
 そのあと続けられたセルティの言葉に、静雄は思わず口をぽかんと開ける。
「えっ、」
 手伝うって、チョコレートを作るのを?
『頼む!』
 ガシッと両手を握られて、静雄は更に目を丸くする。目の前の彼女には首はなかったけれど、きっと顔があったらその目を潤ませていただろう。それくらい今のセルティからは、切羽詰まった真剣さが伝わって来た。
 結局、恋する乙女になってしまった親友を前に、静雄は頷くしか出来なかったのである。
 意外に静雄は流されやすいタイプだった。



 新羅がいない時間に作る、と言うと、新羅が学校に行っている時間しかない。静雄は仕方なく、親友の為に学校を1日だけ休んだ。
 家主がいないマンションで、真っ赤なエプロンを着せられて、親友と共にキッチンに立つ。その手には手作りチョコレートの本を持ち、鍋を握っていた。静雄は甘いものは好きだったが、お菓子を作るのは初めての経験だった。
 たかがチョコレートを切るだけで手が震えるセルティを励まし、静雄は湯煎を使ってなんとかチョコレートを溶かす。なんで俺がこんなことを…なんて正直思ったけれど、それを口に出せる筈もない。取り敢えずこれが終わったらセルティには口止めしておこう。エプロン姿でチョコレート作りなんて臨也あたりに知られたら、きっと散々馬鹿にされる。それだけは避けねばならない。
 なんやかんやと、チョコレートが爆発することもなく、鍋を叩き割ることもなく、無事に少し歪な形のチョコレートトリュフがいくつか出来た。
 数時間にも及ぶお菓子作りで静雄はぐったりとしてしまい、慣れないことはするものではないな、と反省した。来年は親友に何を言われても遠慮しておこう。喧嘩の方がまだ疲れは少ない筈だ。
『ありがとう、静雄。』
 片付けも終わり、いざ帰ろうとした静雄に、セルティは二つの箱を差し出した。ひとつは静雄用にバレンタインの贈り物(これは高そうな既製品だった)、そしてもうひとつは、赤い包装紙に包まれたもの──。
『好きな人にでもあげてくれ。』
 セルティはにっこりと微笑んで言う。
 それは静雄とセルティが作った、チョコレートだった。




 ──2月14日。
 今日は朝から学校中が浮き足立っている。
 静雄は窓の外を眺めながら、溜め息をひとつ吐いた。高い青い空には雲一つない。寒かった1月とは違い、最近は陽射しが暖かかった。本来ならそんな天気で気分が良い筈なのに、今の静雄は少し憂鬱だ。
 机に掛けられた鞄の中に、チョコレートの箱が一つ入っている。散々悩んだ挙げ句、静雄は結局それを学校に持って来てしまった。『好きな人に』なんて言われて、家に置いておくことは出来なかったのだ。
 ──好きな人、って。
 静雄はまた溜め息を吐く。溜め息を吐くと幸せが逃げる──そんな迷信が頭をよぎったが、今はどうでもいい。今の静雄には溜め息しか出ない。
 認めたくない。決して認めたくないが、静雄には多分『好きな人』がいた。多分、と言うのはまだ自分でも良く分かっていない感情だからだ。
 胸が苦しいとか意識をしてしまうとか声が聞きたいとか、所謂そう言う相手。同時にムカつくとか殴りたいとか殺したいとかも思うのだけれど、まあそれはこの際考えないようにする。
 それに気付いた時は、さすがの静雄もこの世の終わりのような気分に陥った。どこでどう間違えてこんなことになったのか分からないし、今だって本当に本当に認めたくない。あんな性格が最悪で冷淡で酷薄で狡猾な同性の男──折原臨也を、好きかも知れないなんて。
 静雄が臨也を意識するきっかけは、間違いなくあちらに原因があると思う。あの男が何を考えているのかはさっぱり分からないが、臨也は時折静雄に優しく触れて来る。それは喧嘩が終わった後だったり、二人で話している時だったりした。
 冷たくて長い臨也の指が、静雄の乾いた頬に触れる。傷んだ金の髪を掻き上げ、緩やかに後ろに撫でてゆく。熱い吐息が頬に掛かり、長い睫毛が間近で伏せられる。薄く形の良い唇が近付いて来て、静雄はゆっくりと目を閉じた。そのまま重なるのは、柔らかな感触。
 臨也はいつも何も言わない。静雄も拒絶を口にしない。二人は何度も口付けを交わし、それについて話すことは何もしなかった。好きだと告げたこともないし、好きだと言われたこともない。臨也がどうして自分にキスをするのか静雄には分からないし、それを問う勇気もないのだ。
 嫌がらせ、ではないと思う。触れて来る臨也の手はいつも優しくて、そこに悪意や憎悪は感じなかった。多分、臨也のただの気紛れなのだろう。そう思うのに、静雄の心はいつしか臨也に傾いてしまった。捉えられ、雁字搦めにされて、最近は臨也を見る度に息が苦しい。
「あれっ、静雄今日早いね。」
 幼なじみの声に、静雄はハッと顔を上げた。新羅は驚きの表情で、教室の中に入って来る。いつも遅刻ギリギリに登校する静雄が、もう既に席に着いているのが珍しいのだろう。
「早く目が覚めたからな。」
「そうなんだ。」
 静雄の言葉に笑って頷き、新羅はちらりと教室の外へと視線を向ける。扉の隙間から見える廊下には、うろうろと数人の女生徒がこちらを窺っていた。静雄が登校する前に机にチョコレートを忍ばせようという女生徒たちの目論見は、見事に失敗したわけである。静雄に面と向かってチョコレートを渡せる猛者はなかなかいないのだ。
「今日はバレンタインデーだね。」
 世間話のつもりで新羅がそう言うと、何故だか静雄の肩がびくりと跳ねる。
「セルティはチョコレートくれるかなあ。」
「…くれるんじゃねえの。」
「そうかな?、じゃあ今日は早く帰らなくちゃ!」
 ウキウキとご機嫌になった新羅は、もう静雄の方を見ていない。きっと頭の中は、彼女からの愛のチョコレートのことでいっぱいなのだろう。
 静雄は本日何度目かの溜め息を吐くと、再び窓から青い空を見上げた。
 ああ、憂鬱だ──。
 平和島静雄の2月14日の朝は、今始まったばかりだった。




 考えてみると、静雄が臨也と二人きりになるのは喧嘩の時ぐらいのものだった。
 まずクラスが違うし、教室もかなり離れている。休み時間に廊下で遭遇したとしても、必ず誰かしら他の生徒がそこにいる。だからと言って喧嘩になりそうな殺伐とした空気の中では、チョコレートを渡せるわけもない。
「臨也ってば、またチョコ貰ってるよ。」
 ふふ、と笑いを含んだ声で新羅が言う。休み時間に教室の前を通り掛かる度、臨也は誰かしらからチョコレートを渡されていた。顔が良い分(良いのは顔だけだが)、モテるのだ。
 静雄はそれをなるたけ見ないようにした。好きな相手がチョコレートを受け取る姿なんて、誰が見たいものか。苛々とするけれど、それを面に出すのも絶対に嫌だった。
 もし自分が女だったなら、あんな風に簡単に渡せたのかも知れない。例えそれが義理チョコだと思われても、別に構わなかった。渡せるだけできっと自分は満足しただろう。
 はあ、と静雄はまた溜め息を吐く。「今日は溜め息多いねえ。」と新羅に笑われてしまった。
 こんな風に憂鬱になるのなら、チョコレートなんて持って来なければ良かった。親友には申し訳ないけれど、自分で食べてしまえば良かったと思う。作った時に味見したら、結構美味しかったのだし。
 いっそ臨也の下駄箱にでも突っ込んでおこうか。下校時間は誰かに見られるだろうから、授業中ならば平気かも知れない。そしてそのまま帰ってしまおう。そうすれば今日はもう顔を見合わせなくて済む。
 静雄は悶々と考え、結局そうすることにした。さっさと教室に戻ると、静雄は鞄を取り出す。
「帰るわ。」
「えっ、まだ午前中だよ?」
 驚き、呆れたような新羅の声に、静雄は小さく肩を竦めた。
「ちょっと野暮用。」
 なんとなく新羅から目を逸らしながら、静雄は机の中を覗き込む。サボリなんて良くあることだけれど、理由が理由なだけに少しだけばつが悪い。
 机の中から教科書を取り出そうとして、目の前にチョコレートの包みがいくつも落ちて来た。静雄は予想外のそれに驚き、思わず手を止める。どうやら休み時間に席を離れていた隙に入れられていたらしい。
「モテるねえ、静雄くん。」
「……。」
 茶化すような新羅の言葉に、静雄は小さく舌打ちをした。こんな気持ちの籠もった贈り物なんて本当は要らないけれど、今の静雄にはそれを捨てる勇気もない。これを作るのも渡すのも、きっと苦労しているのを知ってしまったから。
 チョコレートの包みを無造作に鞄に突っ込んで、静雄は大股に教室を出て行く。同時に次の授業を告げる鐘が鳴り、ますます帰る足を早めた。廊下の途中で教師に会うのはさすがに避けたい。
 階段を下り、職員室の前を小走りで抜けて、昇降口の方まで来た。生徒玄関は静まり返っていて、静雄はホッと息を吐く。やはりこの時間なら誰もいないようだ。
 取り敢えず靴を履き替えようと、静雄は自身の下駄箱を開ける。すると下駄箱の中からチョコレートの包みがポロポロと落ちて来た。どうやって蓋を閉じたのかと思うくらい、たくさんの数が。
「……ちっ、」
 さすがに下駄箱だと不衛生な気がして、静雄はまたひとつ舌打ちをした。静雄だったらこんなところに食べ物なんて御免だけれど、女ってのは本当に逞しい生き物だ。勿論こうしなければ渡せない気持ちは分かっているし、自分もこれからやろうとしているのだけれど。
 うんざりとしながら床に散らばったチョコレートを拾い集めていると、ふと後方から軽い足音が聞こえて来た。静かな空間に、リノリウムを擦る上履きの足音はいやに響いて聞こえる。授業中だというのに誰だ──と、静雄は手を止めて後ろを振り返った。
「帰るの?」
 そこには臨也が立っていた。ブレザーだらけのこの学校で、いつまでも真っ黒な学ランを着ている男。
 予想外の人物に驚き、静雄は目を丸くする。臨也はそんな静雄を見て愉しげに笑うと、ゆっくりとこちらに近付いて来た。
「チョコレート?」
 静雄が拾い集める手元を見て、臨也は僅かに目を細める。「シズちゃんって結構モテるんだねえ。」なんて、こいつに言われてもムカつくだけだ。
「お前はなんでここにいんだよ。」
 チョコレートを全て鞄に入れ、静雄は訝しげな視線を送る。見れば臨也は手ぶらだった。帰る、というわけではあるまい。
「シズちゃんを見掛けたから、追い掛けて来た。」
 臨也はそう言って、口端を吊り上げて笑う。深い意味はないだろうが、静雄の心臓はどきりと跳ねた。
「もう帰るの?」
「…ああ…。」
 静雄は気まずげに目を逸らす。本来の目的は目の前の男の下駄箱にチョコレートを入れることだったが、さすがに本人を前にそれは出来ない。
「ふうん。」
 臨也はひとつ頷いて、何を思ったか少し離れたところにある自分の下駄箱を無造作に開けた。あ、と言う声と共に、何かが落ちる音がする。静雄と同じように、チョコレートがたくさん落ちて来たようだった。
「…お前の方がモテるんじゃねえの。」
 床に落ちた色とりどりの箱に、皮肉を込めて静雄がそう言えば、臨也は低く笑い声を漏らした。
「甘いもの、あまり好きじゃないんだけどね。」
 散らばった小さな箱たちを拾いながら、臨也は僅かに肩を竦める。
「こんなに貰っても、妹たちにあげるか、捨てるかだ。」
「……。」
「人の気持ちは重くて鬱陶しい。」
 臨也のその言葉を、臨也らしいと静雄は思った。鞄の中に入っている自分のそれが、なんだか急に重くなった気がする。これは臨也にとっては『重い』ものなのだ。
「…帰る。」
 鞄を持ち直し、静雄は臨也に背を向ける。後ろから「シズちゃん?」と呼ぶ声がしたが、聞こえなかった振りをした。
 扉を出て、階段を下りて、知らず知らずのうちに歩く足が早くなる。頭上の空は朝と変わらず青く澄んでいて、雲はひとつも浮かんでいない。外は二月にしては暖かい空気だったが、それでも少し肌寒かった。
 静雄は鞄を握り締め、いつの間にか走り出していた。校門を抜け、池袋の街を走り抜ける。まるで誰かと追いかけっこをしているかのように、静雄の足は止まらない。
 肺が苦しくて、額には汗が滲んだ。目的の場所なんてない、ただ何かから逃げたかっただけだ。
 馬鹿みたいだ──。
 自分なんかがチョコレートを渡せるわけがないだろう。自分は男で、同性で──渡す資格がそもそもないのだ。異性が渡すそれよりも、きっと自分のは『重い』。
 つん、と鼻の奥が僅かに痛む。汗が目に入ったのか、視界が白く滲む。ズキズキと胸が痛み、喉がつっかえたみたいに苦しい。
 痛む胸を手で押さえ、静雄はただひたすらに走り続けた。走って走って走って走って、見知らぬ場所に出ても足を止めなかった。

 やがて青かった空が赤く染まるまで、静雄はずっと逃げ続けていた。


2012/02/14
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