Can you celebrate? C





 喧嘩をしなくなった。
 触れて来なくなった。
 口を利かなくなった。
 目が合わなくなった。


 すれ違う。視線は合わない。臨也は新羅だけを視界に捉え、「やあ。」と言い、そのまま何事もなく廊下を通り過ぎて行く。授業の合間の、僅かな休み時間。廊下は教室を抜け出した生徒たちで騒がしい。
 静雄はその間、ずっと視線を壁側に逸らしていた。意識だけはずっと臨也を追っていたけれど、その目は決して見ることはなかった。
 同じ学校で同じ学年ともなれば、顔を見合わせない方が無理がある。登校するとき、昼休み、下校中、どうしてもその姿を見かけてしまうのだけれど、二人の視線が合うことはない。
「喧嘩でもしたの?」
 新羅が苦笑めいた笑みを浮かべ、首を傾げる。今まで殺し合いをしていた自分たちに『喧嘩』だなんて、その問いは少し滑稽だ。
 静雄は「別に。」と素っ気なく答え、真っ直ぐに自分の教室を目指して歩いた。後ろを振り返ることもない。きっとあちらも振り返ってはいない。
 ──避けられている。
 当然だ。自分が願ったことなのだから。あの日、臨也に抱かれる代わりに得た安息。暴力を振るわずに済む、平凡な日々。それらは全て、静雄が望んだことだった。
 あの男と出会って三年間、毎日毎日喧嘩でうんざりとしていた。あまり傷が付かない自分の体。自動販売機さえ持ち上げられる力。怒りで我を忘れ、後からそれらを自覚する度に嫌な気分になった。何故こんな体なのだろう。何故こんな力があるのだろう。きっとこんな自分の想いなど、臨也には一生分からない。
 ──そう、だからこれで良かったのだ。臨也がどうして男である自分を抱いたのかは分からないけれど、たった一度のあれで平和な日々が戻って来た。どうせ理由なんて、嫌がらせか興味本位に決まっている。あんな男、縁が切れて清々した。
 ──なのに。
 何故こんなに重い気持ちになるのだろう。胸に何かがつっかえてるみたいだ。苦しくて、心に穴が開いたみたいな虚無感。
 廊下の窓からは、真っ青な冬の空が見える。澄んで美しい空。雨はあの時以来、降ってはいなかった。

「静雄?」

 自身の教室を通り過ぎる静雄に、新羅は訝しげに声を掛ける。しかし静雄はそれに立ち止まることなく、スタスタと廊下の向こうへ歩き去ってしまった。今日の授業は全てキャンセル、ということらしい。
「…やれやれ、」
 臨也と何があったのやら──。
 新羅は肩を竦めると、自分だけ教室の中へと戻った。新羅はあの二人の関係に口を挟むつもりはなかったし、あの二人がお互いを無視してずっと過ごせるとも思えなかった。
 だってあの二人はもう、お互いが運命の相手なのだ(最悪の意味で!)。神様という存在がいるのなら、あの二人を離すわけがないだろうと思う。
「ま、愛に障害は付き物だけど。」
 新羅がそう呟くと同時に、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響く。
 静雄がいない教室は、新羅には少しだけ退屈であった。




 臨也との関わりを切ったからといって、静雄に挑まれる喧嘩は無くなったわけではなかった。
 勿論以前よりは大分減った。理不尽な事件に巻き込まれることも無くなったし、命を狙われることも、ヤクザに追われることもない。これはあの男と出会う前と同じ状態だ。その頃から既に、静雄の名前はある程度池袋では有名だったけれど。
 今日も喧嘩をふっかけられ、返り討ちにし、静雄の手は相手の血で血塗れだった。このまま帰宅すれば弟が心配するだろうし、帰り道で職質にでもあったら厄介である。
 静雄は頬の血を手の甲で拭い、街を歩く。頭上には真っ青な冬の空があり、吐く息は真っ白だった。二月に入り、池袋の街は更に寒くなった気がする。あと1ヶ月もすれば春がやって来るなんて嘘のようだ。
 静雄は鼻水を啜りながら、幼なじみと親友が住んでるマンションを目指して歩いた。親友は今日は仕事だと言っていたから、今は新羅しか居ない筈だ。彼女には余計な心配をかけたくはなかったし、それはそれで好都合であった。

「いらっしゃい。」
 静雄を出迎えた新羅は、眼鏡の奥の目を細めてにっこりと笑う。「どこか治療が必要?」と問われ、静雄は手を洗いたいとだけ言った。
 そのまま洗面所に連れて行かれ、静雄は石鹸で手と顔を洗う。赤茶色の乾いた血が、真っ白な洗面台の排水口に流れてゆく。ゴポゴポと水を飲み込む音と、鼻につく血の匂い。
 ──ああ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。静雄はゴシゴシと痛いくらい手を擦る。嫌なのに、いつからこの匂いに慣れてしまったのだろう。
 蛇口を捻って止め、真っ白なタオルで手を拭う。丹念に洗ったお陰で、タオルには血が付着することはない。
 静雄は暫く自身の手の平をじっと見下ろしていた。血は流されてしまったけれど、これは穢れた手だ。あんなに誰かを殴っても、傷ひとつ付かない。
「ココアでも飲む?」
 そんな静雄の背に、新羅が後ろから声を掛ける。静雄はそれに振り向かず、「うん。」と小さく頷いた。
 リビングに戻ると新羅がカップにホットミルクを注いでいる。甘ったるいココアの香りと、真っ白な湯気。
 静雄はのろのろとソファーに回り込み、そのまま座ろうとして息を飲んだ。
 向かい側のソファーに、臨也が足を組んで座っていた。臨也は静雄には一切視線を向けず、手元の書類をパラパラと捲りながらコーヒーを啜る。
「──っ、」
 咄嗟に踵を返し、静雄は席を立とうとした。しかしそんな静雄の前に、カップを持った新羅が立ち塞がる。新羅は静雄を見てにっこりと笑うと、「はい」とココアの入ったカップを静雄の前に差し出した。
 静雄は瞬時にどうして良いか分からず、暫し目を丸くして新羅の顔を見返した。新羅は相変わらずにこにことしたまま、更にカップを差し出して来る。「飲まないの?」と小首を傾げて。
 そんな新羅の態度に、静雄は思わず小さく舌を打つ。静雄がここに訪ねて来た時から、新羅はこうなるのが分かっていたのだろう。臨也が来てるなんて一言も言わなかった癖に。全く忌々しい。
 静雄は諦めたように溜め息を吐くと、新羅の手からカップを受け取ってソファーに座った。
 テレビも音楽もないリビングに、重く気まずい沈黙が落ちる。尤もそう意識しているのは静雄だけで、新羅も臨也もなんとも思っていないのだろう。
 臨也は書類を見終わったのか、それを封筒に仕舞い込むと、新羅に差し出した。
「じゃあこれ運び屋に。」
「いいよ。」
 運び屋、とは静雄の親友である彼女のことだ。どうやらこの男は、またろくでもないことを企んでいるらしい。静雄にはもう関係ないことだが、親友が巻き込まれなきゃいいと思う。
 用が済んだならこのまま帰るのかと思いきや、臨也はゆったりとまたコーヒーを飲み始めた。一度も静雄の方には視線を寄越さず、綺麗さっぱりこちらの存在を無視している。その横では新羅がずっとにこにこと笑っていた。
 ああ、ムカつくムカつくムカつく。はらわたが煮えくり返る。静雄はココアに口を付けるが、それは熱くてまだ飲めない。飲んだらここを出て行ってやるのに。
 岸谷新羅は平和島静雄の数少ない友人であり、折原臨也はそんな岸谷新羅の数少ない友人だ。つまり、臨也が友人である新羅の家に来るのは普通のことだ。今までだって何度か新羅の家でばったりと遭遇していた筈なのに、今の静雄はすっかりそれを失念していた。今度からこの家に訪問する時は気を付けねばならない。
 臨也は先程から新羅となにやら話している。静雄には分からぬ話だから、恐らくわざとそう言う話題を持ち出しているのだろう。
 苛々と鬱憤が溜まってゆくのを、静雄はぐっと腹に力を入れて堪えた。何か少しでも反応をしたら、負けだと思った。
 ココアを飲みながら、静雄は臨也の声を聞く。少し高めの、耳通りの良い声。この声が自分の名を呼ぶのを、静雄は知っている。細くて長い指が自分に触れるのを、静雄は知っている。髪を優しく梳き、薄く形の良い唇を寄せ、静雄の唇に触れる。低い温度も、滑らかな肌も、静雄は知っている。最悪なことに。

 ──シズちゃんは今から俺に抱かれるんだよ──。

 不意にその声が蘇り、静雄は思わず立ち上がった。
「静雄?」
 新羅の訝しげな声。
 静雄はそれに答える余裕もない。
「…帰る。」
 一言だけそう言って、静雄はバタバタとリビングから出て行く。慌てて靴を履き、逃げ出すように部屋を飛び出した。後ろから何か新羅が言った気がするけれど、振り返る気はなかった。これ以上ここに居たくなかった。これ以上、臨也の声を聞いていたくなかった。
「…追わないの?」
 リビングのテーブルの上には、まだ湯気の上がるココアが置かれたままだ。新羅はそのカップを見つめ、やがて臨也の方へと視線を移す。その眼差しには咎めるような色が浮かんでいたが、臨也は肩を竦めただけだ。
「追う義理も用事もないからね。」
 臨也は素っ気なくそう言って、手にしたコーヒーを飲み干す。その口許には僅かに笑みが浮かんでいて、それは楽しんでいるようにも見えた。
「あんまり苛めないでやってよね。」
「善処するよ。」
 臨也の言葉に僅かに顔を顰め、新羅は深く溜め息を吐いた。


(2012/02/03)
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