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 はあ、と口からは白い吐息が空へと上る。決して厚着とは言えない格好のまま、静雄は夜のコンクリートの街を歩く。
 高い高いビルを見上げ、冷たい風に身震いした。繁華街のような明るさはないものの、そびえ立つビル群は明かりがチカチカ瞬いている。擦れ違う人々は若者ばかり。こんな時間に何をやっているのだろうと思い、それは自分もか、と静雄は自嘲する。
 時計がない静雄は、ポケットの中の携帯電話が時計替わりだ。二つ折りのそれを開いてみれば、23時50分の文字が表れる。それを目に捉え、あと10分、と人知れず呟く。
 今日は1月27日。
 あと数分後には静雄はまたひとつ年を取るのだ。
 静雄はクリスマスもバレンタインも正月も、さして重要視していない。誕生日も勿論そうで、静雄にとってあまり感慨のない日であった。ただ年齢をひとつ重ねるだけ。
 それが、どうして今、新宿のビル街を歩いているのだろう。自問自答してみるが、静雄の心の中は答えない。
 夜の静けさは好きだ。昼間とは違って、空気が澄んでいる。夜空には真っ白な月が浮かんでいて、どこまでも静雄に付いて来る。見守られてるのか、監視されてるのか、不思議な気分に陥った。
 耳も冷たい。鼻先も冷たい。指先も氷のようだ。静雄は鼻水を啜りながら、道を歩く。バス停を抜け、コンビニの角を曲がれば、そのマンションが見えて来る。時刻は55分。日付が変わるまで、あともう少しだ。
 静雄はそのマンションのエントランス前まで来ると、ガードレールに腰を預けた。胸ポケットから煙草を取り出し、それを一本口に咥える。新宿区は豊島区同様に、歩き煙草は禁止になっている。歩いてねえし、と屁理屈を頭の中で考えながら、静雄は煙草の先端に火を点けた。
 静雄は臨也のマンションの中まで入ったことはない。さすがの静雄でも、防犯設備が整った場所を襲撃するのは骨が折れる。相手が招待する筈もないし、静雄も部屋の中までは興味もない。だからもし、『会いたい』なんて間違った感情を抱いたとしても、静雄はこのマンションには入る方法を知らない。
 真っ白で、身体に毒な紫煙が空を舞う。肺が満足するまで吸い込んで、先端の灰を地面に落とす。再び携帯電話を取り出せば、仄かな画面の明かりに時刻が照らし出された。もう直ぐ日付が変わる。昨日から今日へ。1月28日に。
 携帯電話の電話帳には、あの男の番号は登録されていない。以前あちらから電話が来たことはあったが、静雄はそれを登録しなかった。あの男の番号を自分の携帯に登録するのは、少し抵抗があった。
 もしも番号を知りたいのなら、新羅にでも聞けば直ぐに教えてくれるだろう。マンションに入る術を知らないのなら、その番号に電話を掛けてやればいい。きっとあの男はまだ起きているだろうし、静雄が望めばあっさりと部屋に入れてくれるに違いない。──そう、静雄が望めば簡単に。
 静雄はゆっくりと紫煙を吐き出し、携帯電話の画面を見ていた。数字は呆気なく0が三つ並び、日付が変わったことを知らせてくれる。もう今日は1月28日だ。
 去年の誕生日は何をしていただろう。一昨年は?その前は?高校生の頃は──?
 いつだって静雄の記憶の中にはあの男がいたし、その時の状況は血を見る喧嘩だったり、ただの会話だったりもした。
 多分、自分は大変忌々しいことに、そのことに慣れてしまったのだと思う。この日、この1月28日に、あの憎ったらしい天敵の男が自分の傍に必ずいる、ということにだ。だからなんとなく軽い気持ちで、会いに来てしまったのだろう。誕生日のこの時間に。
 ──なんて、言い訳だな。
 静雄は煙草を携帯灰皿で揉み消すと、ゆっくりとガードレールから立ち上がる。ここ数日の寒波のせいで、吹く風は異様に冷たい。何日か前は都心でも雪が降ったくらいだ。そんな寒空の中で、静雄の体は芯まで冷え切っていた。さすがに何か羽織ってくれば良かったと思うが、もう遅い。
 静雄は携帯電話をしまい込み、駅に向かって歩き出す。終電はまだある筈だし、家に着いたらさっさと寝てしまおう。今日は久し振りの休みだし、昼過ぎまで怠惰に過ごすのもいいかも知れない。

「寒くないの?」

 不意に後ろから揶揄するような声が聞こえて、静雄はピタリと歩む足を止めた。
 車の走り去る音や、どこからか人の話し声がする。それでも深夜のこの場所は比較的静かで、時折聞こえるそれらの音は、まるで何処か遠い世界のざわめきみたいだった。
 コツ、コツと、男の足音が静雄に近付いて来る。恐らく距離はそんなに離れてはない。静雄は男に背を向けたまま、その足音が近付くのを聞いていた。
 やがてその足音は静雄の直ぐ後ろで立ち止まり、はあ、と呆れたような溜め息が聞こえる。
「そんな薄着でさ、信じられない。」
 そんな言葉と共に、ふわりと突然首回りが暖かくなった。静雄はそれに驚き、思わず後ろを振り返る。首に巻かれたのは臨也の真っ黒なマフラーで、まだほんの少し臨也の温もりが残っていた。
「臨也。」
 静雄は臨也と目が合うと、ばつが悪そうに顔を背けた。臨也のマンションのど真ん中で出会っておいて、さすがに「偶然だな。」なんて言い訳が通る筈もない。わざわざ静雄が新宿に来る理由なんて、臨也に会いに来る以外はないのだ。
「手、冷たいね。」
 どう言い訳しようか悩む静雄の手を、臨也は不意に掴んだ。そんな臨也の手も、静雄と同じくらい冷たい。
「顔も冷たい。」
 ポツリとそう呟き、臨也はもう片方の手で静雄の頬へ触れる。その手の動きは思いの外優しくて、静雄は半ば茫然と目の前の臨也の顔を見つめていた。白く、血管が浮き出た臨也の手は、普段静雄を傷付けることはあっても、優しく触れるのはこれが初めてのことだった。
「俺に会いに来たの?」
 僅かに笑いを含んだ臨也のテノール。その口調には、いつもの嘲りの色は少しも見当たらない。
「んなわけねえだろ。」
 静雄は即座に否定を口にするが、臨也の言葉に顔が熱くなるのを自覚していた。臨也の目をまともに見ることが出来なくて、視線は横に逸らしたままだ。
「本当に?」
 そんな静雄に対して、臨也の方はやけに楽しそうだった。静雄は心の内で盛大に舌打ちをするが、特に何も言い返さない。
「シズちゃんは素直じゃないね。」
 臨也は小さく肩を竦め、喉奥で低い笑い声を洩らした。そして掴んでいた静雄の手を離すと、勝手に静雄のポケットから携帯電話を取り出す。
「?」
 それを胡乱げに見つめる静雄の前で、臨也は慣れた手つきで素早く文字を打ち込んだ。横から静雄が画面を覗き込めば、『登録しました。』の文字が見える。
「俺の番号登録しといたから、」
 口端を綺麗に吊り上げ、臨也は二つ折りのそれを閉じた。
「会いたい時は電話して。また擦れ違うのは御免だからね。」
 メールアドレスも今度教えてあげるよ、と言って、臨也は二つ折りの携帯電話を静雄のポケットにしまい込んだ。
「…また?」
 静雄は眉根を寄せ、怪訝な表情になる。また──?、一体どういう意味だろう。前に擦れ違ったことがあっただろうか。
「俺もさっきシズちゃんちに行ったんだよ。」
 こつん、と臨也は静雄の額を指で軽く小突いた。口端を片方だけ吊り上げて、いつものシニカルな笑みを浮かべながら。
「でもいくら待てどもシズちゃんは帰って来ないし。電話でもしようかと思っていたら新宿で君を見かけたって情報があって。」
「──は?」
 きっと今の自分の顔は、酷く間抜けな顔をしていることだろう。静雄はぽかんと口を開け、臨也の言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「…なんで。」
 自分と同じくらい、冷たかった臨也の手。この寒空の下、臨也はずっと静雄を待っていたのだろうか。一体いつから、どれくらいの間?
「何でって、」
 臨也は目を細めて笑う。その口許からは、白い吐息がふわりと舞い上がった。
「会いたかったから。」
 あっさりと告げられたその言葉に、静雄の目が丸くなる。
「日付が変わって真っ先に、おめでとうって言いたかったから。」
 少し遅れたけどね?、臨也はそう言って、静雄の方へ手を差し伸べて来た。真っ白で、冷たい手。その指先は、ほんのりと赤い。
「おいで。」
 その手で再び静雄の手を掴み、臨也は緩やかに腕を引く。部屋に入ろう、と言うことなのだろう。それは優しい力だったが、やっぱり少し強引だった。臨也らしい、と静雄は思う。
 静雄は赤くなった頬を隠す為、マフラーに顔を埋める。掴まれた臨也の冷たい手を、なるべく優しい力で握り返した。きっと握っていれば、そのうち手は温かくなる。
「臨也。」
「ん?」
「ちゃんと言え。」
 眉間に皺を寄せ、仏頂面で、不機嫌な声でそう要求した。マフラーからはみ出た静雄の耳先は、赤くなっている。
「ああ、」
 そんな静雄を見て眩しそうに目を細めると、臨也は珍しく穏やかな笑みを浮かべた。

「誕生日おめでとう、シズちゃん。」


Happy birthday シズちゃん!
(2012/01/28)
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