Can you celebrate? B




 どこか遠くの方でざわめきが聞こえた。昼休み中か、もう下校時間なのだろう。廊下を走る生徒の足音や、女生徒の甲高い笑い声がする。
 静雄は瞬きを一度だけし、天井の古ぼけた蛍光灯を見た。鼻につく消毒液の匂いと、漂白されたみたいに真っ白なカーテン。ここは保健室だろうか。

「気が付いた?」

 そのカーテンの隙間から、不意に幼なじみの男が顔を出した。眼鏡の奥の目を丸くして、口許はにっこりと笑みを浮かべている。
「…新羅…?」
 口を開いた自分の声は酷く掠れていて、静雄は少し驚く。乾いた唇を舌で湿らせ、ゴクリと一度唾を飲んでみた。
「静雄ってば突然授業中に倒れたんだよ。熱が38度もあるって。」
 新羅は呆れたような、少しだけ咎めるような声でそう告げた。原因は昨日の雨のせいだろう、と言外に仄めかす。昨日傘を貸すという新羅を断ったのは静雄なので、これに関しては何も言えない。
「本当は、雨に濡れる前からずっと具合悪かったんじゃない?」
「……。」
「昨日の君、なんかいつもより疲れていた様子だったし。」
 新羅の言葉に、静雄はそうかもしれないな、と思った。昨日あんなに心身共に疲労していたのは、風邪のせいだったのかも知れない。
「授業は?」
「今は昼休み。午後は保険医さんが会議で居ないから、早退してもいいって言ってたよ。」
「そうか。」
 静雄は小さく頷き、深く溜め息を吐く。体がどんよりと重く、視界が白く霞んだ。熱が出るなんて何年振りだろう。まして倒れるだなんて。
「鬼の攪乱だよね。」
 笑いながらそう茶化す新羅に、静雄は言い返す気力もない。再び瞼を閉じると、頭から布団を被って寝てしまった。横を向いて体を胎児のように丸くすれば、ベッドのパイプが軋んで音を立てる。
「まだ寝てる?」
「そうする。」
 今はまだここから動きたくなかった。酷く体が怠くて重い。
 そんな静雄に新羅は神妙に頷いて、備え付けられていたパイプ椅子から立ち上がる。その手には弁当箱を持っていて、どうやらここで食べながら静雄に付いていてくれたらしかった。
「じゃあ僕は授業があるから教室に戻るよ。今日だけは臨也と喧嘩しないようにね?」
 新羅が何気なく出した天敵の名前に、静雄はびくりと肩を跳ねらせた。途端、心臓が早鐘のように打ち、嫌な寒気が体を震わせる。この心臓の音が、新羅に聞こえてしまうんじゃないかと思った。
 しかし新羅はそれに気付くことなく、保健室から出て行く。それと同時に校内にチャイムが鳴り響き、昼休みが終わったことを周囲に告げた。その後パタパタと響いた足音は、急いだ新羅のものに違いない。
 静雄は布団の中で目を閉じて、ただじっとしていた。何かに堪えるみたいに、ぎゅっと胸元のシャツを掴む。その指先は氷のように冷たくなっていた。


 俺の望みと君の望みを交換しようか──。

 そう言って差し出された臨也の手を、静雄は手に取ってしまった。雨に濡れた臨也の指先。冷たくて、少し関節が硬い、男の手。
 臨也は静雄の手を握り返すと、そのまま踵を返して歩き出した。突然のことに静雄の足がもつれたが、臨也は構わず強く手を引く。
 どこに行くんだ──と問うことは今の静雄には出来なかった。その時の臨也は、静雄が今まで生きて来た中で一番恐ろしい存在だった。臨也に掴まれた手は指が食い込んで鈍く痛んだ。
 路地裏を抜け、ネオンが眩しい通りへと入る。いかがわしいビデオショップや、クラブなどの風俗店が建ち並ぶ細い道。臨也は静雄を連れたままその道を迷わず進み、やがてその奥にある少し新しめの建物の中に入って行った。
 真っ白な壁と、真っ白に磨き上げられた美しい床。天井は薄暗く、足元には青白いライトが淡く光っている。奥にはカウンターのようなものがあるけれど人はおらず、白い壁にはどこかの部屋の写真が飾られていた。どうやら明かりが点いているのは空室で、暗い写真は在室らしい。
 ここまで来るとさすがの静雄も、この建物が何なのか分かってしまう。思わず掴まれていた手を引いて抵抗するが、臨也の手は静雄を拘束したままだ。
「臨也、」
「黙って。」
 抗議の声を上げようとする静雄を、臨也はピシャリとはねつける。有無を言わせぬ臨也の態度に、静雄は口を噤むしかなかった。
 さっさと金を払い、臨也は静雄の手を取って廊下の奥へと進む。二人とも雨でずぶ濡れだったせいで、廊下にはいくつも雫が垂れた。
 目的の部屋の前まで来ると荒々しく扉を開け、臨也は薄暗い部屋の中へと静雄を押し込む。乱暴に背中を押され、前のめりになった静雄が文句を言おうと振り返れば、その唇は直ぐに臨也によって塞がれてしまった。
「っ、」
 薄く開いた静雄の唇に、柔らかく歯を立てられる。ぬるりと歯列を舐められ、頬の内側を臨也の熱い舌が這ってゆく。上顎を舐められ、舌先を突っつかれて、静雄は思わず呻き声を上げた。
 そのまま後ろに倒れそうになり、思わず片足を一歩後退れば、逃がすまいと臨也の腕が腰に回される。二人の身長差は10センチほどあるというのに、今はすっかり体勢が逆転していた。背を反らせているせいで力が入らぬ静雄を、臨也はそのまま後ろのベッドに押し倒した。
「な、」
 驚く静雄の唇を、再び臨也の唇が塞ぐ。先程よりも互いの口腔は熱く、けれどもまだ雨の味がした。
 臨也の舌はまるで別の生き物みたいに蠢き、静雄の舌を強く絡め取る。びりびりと爪先から電気みたいに何かが走って、静雄は思わず臨也の肩に手を回した。飲み切れなかった唾液が顎を伝い、真っ白なシーツに染みを残す。息が苦しくて胸が痛くて、静雄はきつく瞼を閉じた。
 更に深く口付けながら、臨也は静雄のワイシャツに手を掛ける。濡れて肌に張り付いたワイシャツのボタンを、一つ一つ丁寧に外してゆく。露わになった脇腹を撫でてやれば、それに驚いた静雄が身を捩った。
「っ…、臨也っ、」
「…なに?」
 臨也は天井を背にして、静雄をじっと見下ろしている。その目は熱っぽく欲情にまみれていて、静雄の体は小刻みに震えた。
「ここまで来て、今更嫌だなんて言わないよね?」
 その眼差しとは別に、発する臨也の声は酷く冷淡だ。濡れていつもより長めに見える前髪からは、ぽたりと溜まった雫が落ちる。その雫は静雄の頬に落ち、涙のように流れて消えた。
「…お前の望み、って──」
 どくどくと鼓動が早く、耳鳴りが煩い。いくら押し倒されて不利な体勢でも、静雄が本気の力を出せば臨也の体は吹っ飛ぶだろう。けれども静雄は臨也を無理に退かそうとはしなかった。
「俺の望みは、」
 黙り込んでしまった静雄の頬を、臨也の手が緩やかに撫でる。その手はもう濡れてはいないが冷たくて、頬から静雄の目許へとなぞる。
「俺の望みは、シズちゃんを手に入れること。」
 低く囁くようにそう言って、臨也は静雄から手を離した。静雄を見下ろすその顔は、酷く無表情だ。
 臨也のその言葉に、静雄の目が驚きで見開かれる。半ば予想していたことだが、本人にはっきりと告げられると酷く狼狽した。
 こんなホテルに連れ込み、ベッドに押し倒して、手に入れると明言する──つまりそれは、

「シズちゃんは今から俺に抱かれるんだよ。」

 臨也はそう言って、口端をゆっくりと吊り上げて笑った。



 昨日の出来事を思い出し、静雄は両手で頭を抱えた。耳を塞ぎ、両目をぎゅっと閉じる。どくどくどくどく。心臓の音はやけに煩く、息が苦しい。体の奥が疼いている。
 あれは、強姦なのだろうか──いや違う。静雄は抵抗を一切しなかった。それは合意ということになる。
 誰かとキスをすることも、体を重ねることも、静雄には初めての経験だった。甘く、苦く、痺れるような胸の痛み。意識をすれば、臨也の吐息や感触をはっきりと思い出すことが出来る。柔らかな唇も、優しく触れる手も。
 どうして──。
 本当にあれが、臨也の望みだったのか。自分がはっきりと拒絶をしたせいで、怒ったのではないか。嫌がらせのつもりが止まらなくなって──最後までしてしまったのではないか。
 静雄は硬い布団の中で更に体を丸める。もう関わりたくないとか、疲れるとか、うんざりだとか、全てがどうでもいいことに思えた。校内は授業が始まって、いやに静まり返っている。塞いだ静雄の耳には、自分の鼓動の音しか聞こえない。どくどくどくどく。胸が苦しい。
 こんなに苦しくて熱いのは、きっと風邪のせいだ──。今の静雄には、そう自分に言い聞かせるしかなかった。

 
(2012/01/25)
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