行ってらっしゃい





 目が覚めると隣には誰もいなかった。
 静雄はゆっくりと薄目を開け、真っ白な天井を視界に捉えた。ぼんやりとした頭で、ここはどこだろうと考える。少しずつ頭が覚醒して行き、あの男の寝室なのだと思い出した。
 腕を伸ばして隣に触れると、まだシーツには温もりがある。静雄は目を擦りながら起き上がり、欠伸をひとつして頭を掻いた。
 昨夜閉じられていた筈の部屋のカーテンは、今は全て開けられている。中に入り込んで来る光が眩しくて、静雄は寝ぼけ眼を細めた。ここから見える空は青く澄んでいて、きっと外は寒いのだろうと思う。静雄は自身が裸なのを思い出し、寒くもないのに身震いをした。
 ベッド脇の時計を見ると、もう昼と言ってもいい時間帯だった。こんな時間まで眠ってしまった自分に溜め息を吐き、静雄はベッドから抜け出す。
 昨夜、剥ぐように脱がされた静雄の衣服は、今は綺麗に畳まれて床の上に置かれていた。臨也がやってくれたのだろうが、その光景を想像すると何だか気恥ずかしい。自身の体を見下ろせば、昨夜の情事の痕がたくさん残っており、静雄はそれらをなるべく見ないように努めた。
 体の節々に痛みを感じ、静雄は裸のまま大きく伸びをする。背骨がポキッと音を立て、首をぐるりと一度回すと、幾分体がすっきりとした気がした。下着とスラックスを履き、ワイシャツの袖だけを通して身に着ける。臨也のマンションは土足で生活するルールだったが、静雄は構わず裸足のままで廊下に出た。
 昼間でも薄暗い廊下の向こうは、臨也の趣味の悪い仕事の事務所だ。そちらに歩いて行こうとして、静雄は扉の前でふと足を止めた。
 もし秘書のあの女に会ったらどうしようか──。あちらからすれば臨也と静雄の関係など今更だろうが、抱かれている側の静雄には些かばつが悪い。

「起きたの?」

 そんな風に静雄が悩んでいる間に、目の前の扉が内側から開かれた。真っ黒なインナーに真っ黒なパンツ。そして真っ黒なファー付きのコート。すっかり見慣れたいつもの服装をして、臨也は静雄の姿を見て口端を吊り上げた。
「出掛けるのか。」
「一時間くらいね。」
 コート姿の臨也に驚く静雄の問いに、臨也は笑ってそう答える。
 一時間だろうが一分だろうが、臨也が静雄を置いていなくなるのは変わりない。ムッと不機嫌に黙り込む静雄に、臨也は愉しげに笑い声を漏らした。
「悪いけど仕事なんだ。直ぐに帰って来るよ。」
 ほら、と腕を伸ばし、臨也は静雄のワイシャツに手を掛ける。何をするのだろう、と静雄が僅かに体を強張らせれば、臨也の笑みは更に深くなった。
「今日は波江さんがいるから、ちゃんとして。」
 はだけっ放しで裸体が見えていた静雄のシャツを、臨也は一つ一つ丁寧にボタンを留めてやる。そういえば静雄の体には、臨也に付けられた痕が色濃く残っているのだ。静雄は羞恥で顔を赤くし、慌てて臨也の手許に視線を落とした。
 臨也はボタンを留めながら、静雄の耳許に唇を寄せる。
「これは俺以外に見せちゃ駄目だよ。」
 これを付けていいのも俺だけだろう──?臨也はそう囁いて、静雄の耳朶に軽く歯を立てた。チクリとした鋭い痛みが体に走り、静雄は思わず息を呑む。
「…っ、…こんなん付けるのは、お前ぐらいだろ…。」
 忌々しげにそう呟く静雄の声は、熱を持って語尾が震えていた。
 臨也はそれにただ笑っただけで、それ以上何も言わなかった。ワイシャツのボタンを全て掛け終わると、あっさりと静雄の体から手を離す。
「じゃあ行って来るから、いい子にしてるんだよ。」
 ちゅ、と軽く音を立てて、臨也は静雄の額に優しく口付ける。静雄はそれに目許を赤く染め、臨也に聞こえるようにわざと大きく舌打ちをした。これから一時間も放って置かれるのだから、これくらいの嫌がらせは許して欲しいと思う。
「あ。」
「?」
 扉を開け、出て行こうとした臨也が、不意にこちらを振り返る。
「『行ってらっしゃい』は?」
「は?」
 臨也のその言葉の意味が分からず、静雄は目を丸くした。
「見送るなら『行ってらっしゃい』って言ってよ。なんだか新婚みたいでいいじゃない。」
「な、」
 揶揄するように口端を吊り上げる臨也に、今度こそ静雄の顔が耳まで赤く染まる。
「誰が言うか、死ね!」
「ははっ、残念。じゃあ行って来るよ。」
 臨也は肩を竦め、静雄に殴られる前にさっさと退散することにした。ひらひらと手を振り、扉の向こうへ消える。
「……っ、」
 パタンと扉が閉じ、静雄は玄関先に一人残された。臨也が居なくなった途端、部屋の温度が急に何度か下がった気がする。それが何だかやけに心細くて、こんなことなら行ってらっしゃいくらい言えば良かったと思った。
 はあ、と深く溜め息を吐いて、静雄は扉に手で触れた。臨也が出て行った無機質な扉は、冷たくて重い。静雄はそこに額を付けると、小さく掠れた声で囁いた。
「…『行ってらっしゃい』。」
 早く帰って来い、馬鹿野郎──。
 静雄は誰もいない扉の向こうへそう囁くと、そそくさと寝室へと戻る。馬鹿なことをした自分が恥ずかしくて、顔が更に熱くなるのが分かった。
 帰って来たら散々文句を言ってやろう。わざと拗ねて見せ、臨也を困らせてやろう。そうでもしないと、やってられない──。
 静雄はそう決心すると、寝室の中へと消えた。


 そんな静雄の様子を、仕事場の扉の影から秘書の女が見ていた。彼女は手洗いに行きたかっただけなのだが、イチャイチャし始めた上司とその相手を見て出づらくなってしまったのである。
「…腹立たしいわね。」
 普段は冷淡で横柄で反吐が出るほど性格の悪い上司が、好きな人間相手にデレデレしているところなど、波江としては見ていて気持ちが悪いだけだ。
 ──にしても。
 あの平和島静雄は意外だった。普段仏頂面しか見たことがないだけに、余計に印象に残る。年相応の顔も出来るのね、と波江は妙に感心した。
 自分が出て行った後に静雄がデレていることを知ったなら、きっとあの上司は大喜びするに違いない。あの男を喜ばせるのは酷く癪だけれど、それを知られたら静雄はどうするのだろうかと興味は湧いた。
 結局、面白そうと言う理由だけで波江は上司にそれを告げるのだが、それからどうなったかはまた別の話。


(2012/01/22)
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