君が思い出になる前に



※君が思い出になる前に のカット部分です。


「やあ」

扉を開けると臨也がシニカルな笑みを浮かべて立っていた。
その胡散臭い笑顔に若干の不安を覚えつつ、新羅は中に臨也を招き入れる。
「久しぶりだね。今日は訪問者が多い日だなあ」
パタパタとスリッパの音を響かせて、新羅はリビングへと臨也を案内した。そのままソファに座らせて、カップにコーヒーを入れる。
「シズちゃんは来た?」
温かいカップを受け取りながら、臨也は新羅を探るように見た。新羅はその言葉に、ぴたりと体の動きを止める。
「何?静雄がどうかしたの?」
やはり静雄絡みか。
内心そう思いながら、新羅はわざとらしく小首を傾げた。
「さっき会ったんだけどさ。ここに、」
臨也は左手の薬指を指差して笑う。
「綺麗に包帯を巻いていてね。新羅が治療したんじゃないかと思って」
「うん。珍しく怪我をしたみたいだ」
にこにこと笑いながら、新羅は答える。静雄には臨也に言うなと止められているのだ。余計な事は言えない。
「何で怪我したのかな。薬指とか珍しいよねえ?それもあのシズちゃんが」
「前にボールペンも手に刺さったくらいだし、怪我することぐらいあるんじゃないかな」
新羅は肩を竦め、自身もコーヒーを入れた。ふわりと白い湯気が舞い上がる。
「ねえ、臨也」
「なんだい」
「静雄がどこを怪我しようが、君には関係ないよね」
焦げ茶色の液体に映る自身を見ながら、新羅は目を細めた。
「どうしてそんなに気にするの。寧ろ静雄が怪我だなんて、君には嬉しいんじゃないの?」
カップに口を近付けると、眼鏡が湯気で曇る。幾分苦いそれを口に含みながら、今のは少し意地悪な質問だったかも知れないと思った。
「様子が変だったからね。あのシズちゃんが俺から逃げるだなんて滑稽だと思わない?」
臨也はカップをテーブルに置く。どうやらまだ一口も飲んでいないようだ。
「気になるなら本人に聞けばいいじゃないか。追いかけっこもたまには鬼が交代でもいいんじゃないかな」
「……」
新羅の言葉に、臨也は黙り込む。その端正な顔は無表情に近く、新羅には臨也の胸中は計り知れない。
「君が鬼になれば、静雄は案外簡単に捕まるかも知れないよ」
シン、と部屋が静まり返る。高い位置にあるこのマンションは都心の中にあっても静かだ。部屋にはエアコンの作動音だけが微かに聞こえていた。
「…そろそろ帰るよ」
長い沈黙の後、やがて臨也が立ち上がる。結局カップには一度も口を付けなかった。
「臨也」
リビングから出て行く友人の後ろ姿に、新羅は声を掛ける。
「静雄のあれは怪我じゃないよ。あ、これ特別ヒントだから」
茶化したような新羅の言葉に、臨也は口端を吊り上げて笑う。そしてそのまま何も答えずにマンションを出て行った。
後に残された新羅はコーヒーを飲みながら、窓にちらりと視線を移した。さっきまでの青空はどこへやら、空はいつの間にか黒く厚い雲によって支配されている。
「これは一雨来そうかな?」
新羅はそう独り言を呟き、軽く溜息を吐く。
「まあ雨降って地固まるって言う言葉もあるし」
止まない雨はないからね。
新羅はふふ、と一人笑い、コーヒーをまた一口飲んだ。


2010/12/04 05:43
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