Can you celebrate? A





 ポタポタと前髪の先から雫が零れ落ちる。濡れた制服のシャツが体に張り付いて不快だ。履いている黒の革靴も、水を吸って重くなっている。それでも今の静雄には、そんなことはどうでも良かった。
 相手は静雄の執拗な追跡に、とうとう逃亡するのをやめてこちらを向く。白く端正な臨也の顔は、雨に濡れても腹が立つほど綺麗だった。
「…俺は、」
 土砂降りの中で雨音が煩い。濡れたアスファルトはてらてらと光り、青い雷が頭上で鳴り響く。それなのに静雄のその声は、やけに明瞭に聞こえた。
 散々走り回ったせいで、静雄の息は少しだけ荒い。新羅に治療された絆創膏は剥がれ落ち、仮眠して回復した筈の体は疲弊している。
 ──ああ、疲れた。
 静雄は深く深く溜め息を吐く。そして臨也を見据え、低く囁くように感情を吐露する。
「俺は、お前が嫌いだ。」
 そう発した声は、少しだけ震えていた。こんな戦慄いた声を出すのは、生まれて初めてな気がする。自分が酷く女々しく思え、静雄は軽く眩暈がした。
 臨也はそれに答えない。雨に濡れた黒髪は、今は闇のように色濃くなっていた。前髪の間から覗く瞳は赤く、刺すように静雄を見ている。
 そんな臨也の鋭い視線を、静雄はじっと見返していた。こちらから目を逸らしたら、何かに負けそうだと思った。二人の距離は手を伸ばせば直ぐに届きそうなのに、心はずっと遠くにある。
 繁華街の薄暗い路地裏には、二人以外の人間は誰もいなかった。それは雨のせいかも知れないし、二人の存在を恐れてのことなのかも知れない。どちらにしろ二人は互いしか見ておらず、周囲は二人にとって灰色の世界だった。
「ふうん。」
 切れ長の目を微かに細め、臨也は薄い唇をやっと開く。その口許は僅かに吊り上がり、笑っているようにも見えた。
「だから、シズちゃんはどうしたいの?」
 1月の雨は冷たい。口から漏れる息は白く、豪雨は簡単に体温を奪ってゆく。臨也も静雄も、顔色はまるで死人のように青白かった。
 ──どうしたい──。
 静雄は拳を握り締め、一瞬だけ臨也から目を逸らす。
「もう俺に構うな。俺を見るな。俺に触るな。話し掛けるな。 」
 それが静雄の望み。簡単なこと。
 他人になりたかった。ただ同じ高校に通ってるだけの、顔見知りの同級生になりたかった。もう喧嘩もいざこざもうんざりだった。臨也の策略や嫌がらせで、精神をすり減らすのはもう嫌なのだ。
 雨が容赦なく二人に降り注ぐ。静雄の制服のシャツは腹の部分が破け、少しだけ血が滲んでいた。臨也のナイフが付けた傷。もうそれは殆ど塞がり掛けている。シャツに付いていた血も、空から降る雨が大方洗い流してしまった。
 静雄からの事実上の絶縁宣言を、臨也はただ黙って聞いていた。赤い目が微かに細められたものの、その顔は殆ど無表情に近い。不機嫌なのか、嘲っているのか、それすらも静雄には分からなかった。
 ゴロゴロと雷鳴が轟き、雨が一層強くなる。真っ黒な雲が空を覆い、まるでこの世の終わりを思わせる天気だ。
 短いのか長いのか──重い沈黙が二人を包んだ。激しい雨音に混ざり、溜まった雨水が排水溝に流れてゆく音がする。雨のせいで視界は悪かったが、静雄はじっと臨也を見つめていた。
「…いいよ。」
 臨也が一歩前に出る。何故かそれだけで静雄の肌が粟立つ。
「その代わり、俺の言うことを一つ聞いてよ。」
 臨也の声は冷たく、威圧するように響いた。その赤い双眸は静雄を捉えたまま離さない。まるで心臓を鷲掴みにされたようで、静雄はほんの少しだけ恐怖を覚えた。
「…言うこと?」
 発した声は、怯えるように掠れている。何を警戒することがあるのだろう。この男の言葉など、聞いてやることはないのに。
「そう。」
 不意に臨也の濡れた手が伸びて、静雄の腕を掴んだ。
「!」
 静雄は驚き、手を引こうとするが、そのまま体を強く引き寄せられる。
「いざ、」
 や、と続く筈だった言葉は、相手の唇に吸い込まれた。柔らかく温かな感触と、口腔に流れ込む雨の味。噛み付かれるように下唇に歯を立てられ、静雄は口付けられていることに気付く。
「…っ、は、」
 臨也の手が後頭部に回され、更に静雄を強く引き寄せる。熱い舌が静雄の口腔を蹂躙し、思うがままに貪ってゆく。臨也の口付けは荒々しく獰猛で、奥に潜んでいた静雄の舌をあっという間に引きずり出した。
 抵抗しなければ──そう思うのに、静雄の体は動かない。体のずっとずっと奥が熱くて、胸がズキンと痛んだ。
 臨也の舌は静雄の歯をなぞり、柔らかな唇を甘噛みする。冷たかった体が急に体温を取り戻し、静雄は頬が熱くなるのを感じた。後頭部に回されていた臨也の手は、いつの間にか静雄のシャツをはだけている。覗いた鎖骨に爪を立てられて、静雄は低く呻き声を洩らした。
「っ、…やめろ!」
 力の入らない腕で慌てて押し返せば、臨也の体はあっさりと離れる。
 まだ強く雨が降り注ぐ中で、静雄は臨也を睨み付けた。自身の襟元を正すその手は、端から見ても分かるほどに震えている。
「これが『言うこと』かよ。」
 たかがキスひとつ──けれど、静雄には初めての行為だった。頬には熱が集まるし、早くなった鼓動は治まらない。大体、何故臨也がこんなことをするのか理由が分からない。
「まさか。」
 強く刺すような静雄の視線を受け止め、臨也は低く笑い声を洩らす。その顔もその声も愉しげであるのに、赤い双眸だけは笑っていなかった。そのことに気付いた静雄は、ゴクリと唾を飲む。
「もっと違うこと、だよ。」
 臨也は良く通るテノールでそう言い、静雄の方へと手を伸ばした。先程まで口付けていたせいか、その唇は赤く色付いている。
「おいで。俺の望みと君の望みを交換しようか。」
 望み──。静雄は目を見張り、臨也の顔と差し伸べられた手を凝視した。漂白したみたいに真っ白な手は、激しい雨を受けても揺るがない。
 この手を取ったら、自分はこの男から解放されるのか──。静雄は瞬きもせず、差し出された手をじっと見下ろす。自分から言い出した癖に、何故かその手を取るのを躊躇してしまう。毎日毎日毎日毎日、大嫌いな暴力をふるわされて、精神をすり減らされて、この男と関わり合うのは嫌だとずっと思っていた。何かの対価を払って、それが無くなるのなら──。
 頭上では相変わらず稲妻が轟き、冷たい雨は一向にやむ気配はない。アスファルトには水溜まりがいくつも出来て、灰色の空を映していた。
 静雄はゆっくりと手を伸ばす。自分を見つめる臨也の目が微かに眇められるのに、手ばかりを凝視する静雄は気付かない。
 静雄はまるで絶望しているような気持ちになりながら、臨也のその手を取った。


(2012/01/17)
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