0センチメートル



A
「弱虫だね」

後ろから掛けられた言葉に、静雄は振り向かなかった。
努めてゆっくりと廊下を歩く。本当は駆け出して逃げたいけれど、そんなのはプライドが許さなかった。
放課後の誰もいない校舎。廊下の窓にはまだ太陽が見えている。もうすぐ完璧に夕陽になり、見えなくなるだろう。
いつだって静雄は、5センチ以内臨也に近付いたことはない。喧嘩だって遠距離から攻撃できるものを選んだし、殴ろうとしてもほぼ確実に避けられる。だから静雄は臨也に触れたことがない。
弱虫だ、と言うことは分かっていた。近付いて、自覚するのが怖かった。臨也から言葉を聞くのが怖かった。きっと、聞いて、触れたら最後だ。今まで自分が気付かない振りをしていたことが、せき止めるものがなくなって溢れてしまう。

いつの間に近付いていたのか、突然後ろから手を引っ張られた。
驚く間もなく振り向かされ、至近距離には綺麗な顔。
強引に重ねられた唇は乱暴だった。ガツっと歯が当たり、静雄は体のバランスを崩す。
けれど臨也の手はちゃんと静雄の体を支え、片手は後頭部に回された。長い睫毛を伏せ、臨也の前髪が静雄の鼻先を擽る。
「…ん…っ」
身を捩って体を離そうとしたが、そのまま廊下の壁に背中を押し付けられた。
こんな、こと。誰かに見られでもしたら。
唇から舌が入り込み、くちゅくちゅと音を立て始める。下唇を甘噛みされ、歯列を舐められた。吐息さえも奪われて、静雄は息苦しさに眩暈がする。
馬鹿だ。
何をしているんだろう、俺は。
そう思うのに、静雄の手は臨也の肩に回された。犯すような臨也の舌に、怖ず怖ずと自ら絡ませ始める。また口づけが深くなった。
「シズちゃん」
キスの合間に、臨也が口を開く。また重なる唇。甘ったるい舌。
「俺、」
ああ、もう。言ってしまうのか。聞きたくなんかなかったのに。この生温く馬鹿馬鹿しい関係を、臨也は壊してしまうのか。その呪いにも似た、相手を束縛する言葉で。
静雄は諦めて、臨也の顔を見る。臨也の顔は珍しく余裕がなかった。
「シズちゃんのことが、」
静雄は目を閉じる。
仕方がねえな、もう。

捕まってやるよ。


201011200729
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