怪盗ごっこ






目が覚めたら、ベッドの上で両手を縛られ、目隠しをされていた。
静雄は暴れるよりも先に、呆然とする。
昨夜は家に帰ってきて、いつものように食事をし、いつものように寝ただけだ。
それが何故、こんなことになっているのだろう。
混乱する頭の中でグルグルと考えを巡らせる。
どうやらまだ朝ではないらしい。夜の気配がする。くん、と鼻を働かせれば、何か甘い匂いがした。何の匂いだろう。
「起きたの?」
頭の上から声がして、静雄は体を硬直させた。聴いたことがあるような、笑いを含んだ声。
この声、は。
「俺は怪盗だよ」
くす、と笑いながら相手は言う。
「怪盗?」
静雄は訝しげに聞き返す。
「俺んちに盗むもんなんて何もねえぞ」
男は答えずに薄く笑い、静雄の衣服を脱がせ始めた。静雄はそれに驚き、身じろぎをした。
「な、なにするんだ」
「君の体を盗みに」
「は?」
その言葉に静雄はポカンと口を開ける。その間にも、男は衣服を脱がせてゆく。
「ちょ、な、なん…」
「黙って」
唇を塞がれた。
口づけられているのだ、と気付き、静雄は唖然とする。
縛られた腕まで衣服を脱がされ、下着ごとズボンも取り払われる。ひやりとした空気に、静雄は小さく悲鳴を上げた。
口づけは優しくて、静雄の自由をどんどん奪ってゆく。ちゅくちゅくと唾液の濡れた音がするのに、静雄は羞恥で顔を赤くした。
熱に浮されたような思考の中で、快感と痛みが襲って来る。口では嫌だ嫌だと言うのに、何故か抵抗は出来なかった。



朝。
気付けばベッドに普通に寝ていた。
腕も縛られていないし、目隠しもされておらず、昨夜のことは夢かと思った。
身を起こせば僅かに腰に痛みがあり、静雄の顔から血の気が引いてゆく。
まさか。
まさかまさかまさか。
夢じゃないのか。
現実にあったことなのか。
静雄はフラフラと立ち上がり、取り敢えず何か飲もうとキッチンへと向かう。そしてテーブルの上に置かれたそれに気付いた。
テーブルの上には真っ白な便箋が置いてあり、何か書いてある。
『昨夜はごちそうさま。また近いうちに盗みに来るよ』
それを読んだ静雄は真っ赤になり、グシャグシャに丸めてごみ箱へと放り投げた。





カタン。
部屋の中で音がして、静雄は意識を覚醒させた。
ああ、また今日も来た。
暗闇の中、不法侵入したその人物は、ゆっくりとした足取りで静雄のベッドまでやって来る。真っ黒な髪、真っ黒な衣服。暗闇に浮かぶその姿は、まるで悪魔か死神だ。
静雄は体を起こして、その人物を見上げた。残念ながら暗くて相手の顔は見えない。ただ相手が真っ黒か、色の濃い服装をしているのが分かるだけだ。
きぬ擦れの音がし、男が傍らに跪く。男の手には、真っ黒な布が握られている。暗闇だからそう見えるが、本当はもっとカラフルな色をした布かも知れない。ただこの男はきっと黒を選んでいる気がした。
静雄は目を閉じ、抗うこともせずに目隠しをされる。鼻腔に少しだけ甘い香りがした。それがこの男の香水だと、気付いたのはいつだったか。
男の手が静雄の衣服をゆっくりと脱がせてゆく。熱い吐息と、柔らかな唇。優しいキス。男はキスが上手かった。あまり経験がない静雄にはいつも応えるのがやっとだ。
静雄は微かに震える手を伸ばす。男の背中に腕を回せば、強く抱き返された。自分とは違う体温が心地好い。
そして今日も静雄は抱かれる。この目の前の男に──…。



目が覚めると、静雄は一人だった。
ああ…またか。まだぼんやりとした頭を振り、ベッドから立ち上がる。テーブルの上にはいつものように、怪盗からのメッセージ。腰に走る鈍痛と、体の節々が痛み、夢ではない、と再確認した。
体のあちこちに残る情事の痕。自分の体では一日経てばそれも消えてしまうだろう。しかし今日一日は誰にも見られないようにしなくてはならない。
静雄は溜息を吐き、シャワーを浴びる為に浴室へ向かった。





「臨也ああああぁぁぁあっ」
今日も池袋の街で絶叫が響く。空を舞う自動販売機、ビルの壁に突き刺さる標識。いつもの光景。
路地裏にはいつの間にか人が居なくなっていて、狭い道に天敵と二人きりだ。
足元に転がってきたジュースの缶を踏み、臨也は大袈裟に肩を竦めた。
「見逃してくれないかな?俺はシズちゃんと遊んでる暇はないんだけど」
「黙れ」
そんなこと知るか。
静雄は腹の底から沸き立つ怒りのままに、目の前の男に投げ付ける物を探した。生憎とここにはもう自動販売機はなく、標識もとっくに引っこ抜いてしまった。斯くなる上は自身の拳で殴りつけるくらいしかないけれど、出来るなら臨也なんかには触れたくもない。
そんな事を思っている間に、臨也はいつの間にか至近距離にせまっていた。
「…っ!」
最近の喧嘩では臨也は大抵逃げていたので、油断していたのかも知れない。
臨也が振り翳したナイフは、真っ直ぐに静雄へと下ろされた。はっとした静雄は寸前で躱したが、僅かに避けきれずに胸元に傷が付く。
クソッ!
静雄は血が滲んだシャツを握り締め、臨也から距離を取った。目の前の男はそれに楽しげに笑う。
「何だか今日は動きが鈍いねえ。調子が悪いのかな?」
「うるせえ」
切られたシャツから覗く肌には、昨晩の情事の痕がある。これを臨也に見られるわけにはいかなかった。
「今日はこれで勘弁してよ。また遊んであげるからさ」
臨也は目を細めて笑うと、ナイフをポケットにしまい込んだ。黙り込んで睨みつける静雄の隣を、足取りも軽やかに通り抜ける。ふと、鼻を擽る香り。
──…最悪、だ。
静雄は衣服を掴む手に力を込め、溜息を吐いた。
気付きたくなかった。いや、本当はずっとずっと知っていたのだ。確信するのが怖かっただけで。
静雄は体の力を抜き、臨也の後ろ姿を見遣る。
「なあ、」
臨也は振り返らない。それでも静雄は声を掛けた。
「手前、その香水いつもつけてんのか」
ほんのり甘い、不思議な香り。
昨晩嗅いだ香りと同じ。
臨也はやはり、振り返らなかった。ひょっとしたら、静雄の声が届いていなかったのも知れない。
まだ怪盗ごっこは続くのか。
叫ぼうとして、静雄は口を閉じた。今はまだ、言うべきではないと思った。
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