池袋日常生活




ガシャン、と床に落ちて割れたコップを、波江は冷たい目で見た。
目の前にいる雇い主は珍しく相当苛々しているようだ。ひょっとしたらコップが落ちて割れた事さえ気付いていないかも知れない。
この男がこんな風になるのは大抵あの金髪の男が原因だ。波江は脳裏に思い浮かべる。平和島静雄。池袋最強と言われる細身の青年。
臨也はやがていつもの黒いコートを羽織って出て行った。苛々としたまま。おそらく池袋にでも行ったのだろう。
「そんなに好きなのかしら…気持ち悪いわね」
波江はぽつりと呟き、コップを片付け始めた。




「トムさん」
突然立ち止まった後輩に、トムは振り返った。
「こっちの道、行きましょう」
「え?」
静雄が指差した道は目的の場所まで遠回りになる。トムは首を傾げた。
「そっちの道はやめた方がいいッス」
静雄は真剣な顔でそう言い、さっさと歩き出してしまう。上司を置いて先を歩くなど、静雄には珍しい事だ。
ここ数日、静雄はこんな調子だ。歩む道を突然変える。何があるのかトムには分からないし、知らない方が良い気もした。
苛々も増してるようで、最近の取り立て相手は皆酷い目に遭っている。難儀なことだ。それを止めねばならない自分も。
トムは前を歩く長身の後ろ姿を見、溜息を吐いた。




「あれ、イザイザじゃない?」
狩沢が指差した方向を見れば、真っ黒な出で立ちの男がいた。
彼は携帯電話を何やら忙しなく弄っていて、表情は険しい。
「なーんか、機嫌悪そうっすねえ」
遊馬崎は今し方買ったばかりのライトノベルをリュックにしまい込み、首を傾げた。
「珍しいよね。イザイザって割といつもご機嫌じゃない?」
確かにそうかも知れない。いつでも何かしら余裕がある態度なことは確かだ。
「どうせ静雄さんが原因じゃないっすか〜?」
残念ながら遊馬崎たちは折原臨也とは親しいわけではない。原因で思い付くのは彼の天敵と称される平和島静雄ぐらいだ。
「なーんか怪しい」
「え」
「ビビビって感じるのよ。女の勘ってやつ?」
狩沢はうーん、と真剣な顔で臨也を見ている。こんな時の狩沢には遊馬崎でさえもついて行けないので黙っていた。




金髪の青年が歩いて来るのに、帝人と杏里は足を止めた。
「静雄さん」
こんにちは。
と帝人が声をかける。隣で杏里がぺこっと頭を下げた。
「よう」
静雄は一言だけそう言って通り過ぎる。なんだか酷く急いでいるように見えた。
帝人と杏里はまた歩き出し、次の道の角で今度は臨也を見かける。
「こんにちは」
帝人がまた声をかけ、杏里は小さく頭を下げた。
臨也は珍しく余裕がない様子で、
「シズちゃん見なかった?」
と聞いてくる。
「あ、さっきあちらで」
帝人が指を差すや否や、臨也は早足で去っていく。
二人はぽかんと後ろ姿を見送る。
「どうしたんだろう」
「珍しいですね」
追いかけっこもいつもの立場が逆だ。
取り敢えず二人は考えないようにした。あの二人には関わってはいけない、と思いながら。




新羅は静雄を招き入れ、きっかり三分後にやって来た臨也も部屋に入れた。
二人は新羅のリビングで、今まさに睨み合っている最中だ。
まーた喧嘩したのか。
少し離れた場所でコーヒーを飲みながら、新羅は楽しげに二人を見る。
昔から、二人はずっとこうだ。
喧嘩をしたり、殺し合ったり、愛し合ったり、忙しい。
新羅はそれを見ているだけだ。口を出したり、愚痴を聞いてやったり、何かをお膳立てはたまにするけれど、基本的には見ているだけ。
なぜならどんなに心配しても二人は結局元に戻るから。
新羅は八年間で、それを嫌と言うほど学んでしまった。
ほら。今も目の前で、少しずつ少しずつ、空気が変化していく。
素直じゃない静雄と、独占欲の塊みたいな臨也。
二人は互いしか見ていない。いつだって。
「帰るよ」
やがて臨也がそう言い、静雄の手を引いて出て行く。
静雄は新羅を振り返り、じゃあなと言った。
閉じられるドアを見ながら、新羅は笑う。
臨也しか見てない静雄と、静雄しか見てない臨也。
それが少しだけ寂しいなんて。
「二人に笑われるかな」
新羅の独り言は、笑い声混じりだった。




「いい加減、新羅に頼るのやめなよ」
臨也が言うのに、静雄はむっとする。
「頼ってねえよ。さっきだってお前が直ぐ来たせいで殆ど話してねえし」
臨也に手を引かれ、静雄は池袋の町を歩く。
「新羅はシズちゃんに甘いからなあ」
「なんだそれ」
「多分新羅も自覚ないんじゃないかな」
臨也の声は少しだけ不機嫌だ。ちっ、と小さく舌打ちまでも聞こえる。

「よう」
途中で高校カップルに会った。新羅の家で一度鍋をしたが、実は静雄は名前が思い出せない。
二人は静雄と臨也を見て驚いたようだ。
「追いかけっこ、終わったんですね」
そんな事を言って来るのに、臨也はまあねと笑った。静雄の手を引いたまま。

暫く歩くと公園の前を通り掛かった。
「あれ!イザイザとシズちゃんが手を繋いでる!」
キャーと言う声がして見れば、いつも門田と一緒にいる二人がいた。静雄はこの女の方が多少苦手だ。
どうやら臨也も苦手らしく、適当にあしらっている。
静雄には意味が分からない単語を並べ立てるのに、隣の目の細い男が慌てて止めていた。

駅前まで来ると、静雄は足を止める。
「どうしたの」
「トムさんがいたから、ちょっと話して…」
「駄目」
最後まで言い終わらないうちに、臨也に遮られた。静雄はむっとする。
「なんでだよ」
「今日はもう仕事終わりだって言ったじゃない」
「挨拶ぐらい…」
「シズちゃん」
臨也の真摯な声に、静雄は目を見開く。
「今は俺だけを見てて」
手をぐいっと引っ張られ、臨也はまた歩き出した。
手を引かれる静雄の顔が赤いのは、臨也には見なくても分かっていた。

新宿に着いて臨也のマンションに入ると、助手の女が飽きれ顔で待っていた。
「仕事が溜まっているのに…呆れるわ」
「波江さん、今日はもう帰っていいよ」
悪いねえ、と臨也は笑う。
波江はちらっと静雄の顔を見てから溜息を吐いた。
「給与はちゃんともらうわよ」
と言って部屋から出て行く。やがてガチャンと玄関の扉が閉まる音がした。

「じゃあシズちゃん」
臨也が口端を吊り上げて振り返る。その目は酷く楽しそうだ。
「やっと二人きりなので」
俺と遊ぼう?
そう言って静雄の腰を抱き寄せた。



(2010/10/26 14:03-16:20)
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