16歳






金髪の青年が最後の一人を殴り飛ばすのを、臨也は教室の窓から見ていた。
何人もの暴漢と乱闘を繰り広げた青年は、全く息を乱す事なくその場を立ち去る。恐らく臨也に見られていることを分かっている筈なのに、その目は一度も校舎に向けられなかった。どうやら元凶は無視することにしたらしい。
「シカトとか、シズちゃんの癖に生意気だなあ」
つまらなそうに呟く臨也に、隣にいた新羅は僅かに苦笑する。今まで目を輝かせて静雄の乱闘を見学していたと言うのに、臨也を見るその目は酷く冷めているように感じられた。
「臨也ってばジャイアンみたいな台詞を言うね。静雄だって今日はさすがにそんな気分になれないんじゃないの」
「今日、何かあるの」
大して興味がなさそうに臨也は問う。けれど実際は興味津々だった。臨也は静雄に関しては何でも知りたがる。本人が自覚もしないまま。
新羅は眼鏡の奥の瞳を丸くし、驚いたように臨也を見た。ズルッと眼鏡のフレームが鼻先へと落ちる。
「えっ、静雄の事は何でも知っているような臨也が知らないなんて!」
「…なんなの、その芝居がかった言い方は」
新羅の大袈裟な物言いに、臨也はうんざりしたように眉根を寄せた。静雄に無視をされたことで下降していた機嫌が、また更に悪化する。
あからさまに不機嫌な顔をした臨也に、新羅はあはははと笑い声を上げた。
「今日は1月28日だよ!」
「?、それが?」
全く意味が分からない、と言うように、臨也は首を傾げる。その眉目秀麗と謳われる顔はますます不機嫌になり、新羅は更に笑ってしまう。
「本当に分からないの?」
「何が」
「今日は静雄の16回目の誕生日なんだ!」
そう言った新羅の顔は、酷く楽しそうだった。




制服の埃を乱暴に払って、静雄は校舎の中へと入った。ちょうど校内は昼休み時間で、生徒たちのお喋りで騒がしい。
廊下を歩く生徒たちが、静雄の姿を見ると場所を開けてゆく。年上の三年生たちさえ、静雄には皆距離を置いていた。羨望と畏怖の眼差しで見られるのは、もう静雄には慣れっこだ。
急に、昼休みでざわついていた廊下が、水を打ったように静かになる。静雄はそれに違和感を覚え、訝しげに顔を上げた。
「シズちゃん」
廊下の向こう側に、学ラン姿の男が立っていた。サラサラの黒髪、いやに整った顔。同性の静雄でさえも、綺麗だと思うその容姿。
ちっ、と静雄は大きく舌打ちをし、その男から目を逸らす。嫌な相手に嫌な愛称で呼ばれた事に、機嫌が急下降した。
「今日誕生日なんだって?」
臨也は穏やかに微笑むと、親しげに近付いて来る。その顔は見る者によっては、酷く優しく見えるに違いない。
「だからなんだ」
対して静雄の答えは素っ気ない。沸々と怒りが湧き上がり、拳を無意識に握り締めた。
いつの間にか廊下には、誰ひとり生徒が居なかった。水と油、犬猿の仲、木に竹を接ぐ。様々なことわざや慣用句で表現されるこの二人は、一緒にいるだけで誰もがその場から逃げ出す。ガラスが割れ、ゴールポストが空を飛び、ナイフが身を引き裂くような喧嘩を毎日するのだ。一般の生徒には戦々恐々だろう。
「俺としたことがシズちゃんの誕生日を把握してないなんて、迂闊だったよ」
芝居がかった仕草で、臨也は大袈裟に嘆く。そんな小ばかにしたような臨也の態度に、静雄はギリギリと歯軋りをした。
人生、生きて来て16年。こんなに不愉快な誕生日は初めてだ。誕生日くらい、このムカつく男の顔を見ないで過ごしたかった。
「誕生日だから何だってんだ。プレゼントでもくれんのか?」
手前からなんて反吐が出るけどな、と静雄は悪態を吐く。
臨也はそれには何も言わず、ただ肩を竦めた。口端を吊り上げて、「やれやれ」とでも言うように。
「そんなに邪険にすることないのに。祝ってあげようとしてるんだからさ」
「いらねえよ」
静雄は怒りを無理矢理抑え込むと、臨也を無視することに決める。臨也から目を逸らすと、その横を通り抜けた。
「シズちゃん」
突然手を掴まれ、強引に振り向かされた。体を引き寄せられ、目の前に端正な顔が近付く。
「いざ──」
や、と呼ぼうとして口を噤んだ。臨也の吐息が頬に触れ、静雄はぴたっと体を硬直させる。
「どうしたの?」
低く、くぐもった笑い声を漏らし、臨也は静雄の耳許へと唇を寄せた。ぴくりと静雄の肩が動くのに、口端を僅かに吊り上げる。
臨也の笑いを含んだ問いに、静雄は何も答えなかった。掴まれた手も、寄せられた顔も、払いのける事も出来ずに、ただじっとして。
「誕生日おめでとう」
臨也は静雄の耳許にそう囁くと、掴んでいた手を急に離した。
手の温もりと、首筋に触れていた吐息が消え、静雄はハッと顔を上げる。まるで止まっていた時間が動き出したような、それは不思議な感覚だった。
「…っ、」
怒りが沸き上がり睨みつけると、臨也は既に静雄から距離を取っていた。きついその眼差しを受け止め、臨也は笑って静雄の方へと何かを放る。
「プレゼント、準備してなかったらさ。それあげるよ」
手の平で受け止めたそれは、牛乳の小さなパックだった。
「少しはカルシウム摂って、苛々を治めるといい」
ははっ、とわざとらしい笑い声を上げ、臨也は踵を返す。
後に残された静雄は、眉間に皺を寄せてその後ろ姿を見送った。手にした牛乳パックはまだ冷たく、汗をかいている。
「…うぜえ」
毒でも入ってるんじゃないかと思った。臨也がそんな下らない真似をしないのは分かっていたけれど。

『誕生日おめでとう』

不意に耳許で囁かれた声が甦り、ぞくっと肌が粟立った。
熱を含んだ吐息。掠れた低い声。
キスをされるかと思った、なんて。
浅ましい自分の考えに、静雄は小さく舌打ちをする。有り得ないと思いながらも、一瞬体が動かなかった。
何故そんな事を考えたのだろう。まったく馬鹿馬鹿しい。
静雄は再度舌打ちをし、自身の教室へと歩き出す。
手にしたパックは何故か、酷く冷たく感じられた。




──…惜しかったかも知れない。
臨也は教室には戻らず、そのまま屋上を目指して歩いていた。時折どこからか冷たい風が吹いて、臨也の黒髪をふわりと揺らす。階段の踊り場の窓でも開いているのかも知れない。
屋上まで続く階段を上りながら、先程の静雄の反応を思い出していた。
驚きで丸くなった瞳。震えた睫毛。薄く開いた唇。
あんな間近で静雄の顔を見たのは初めてだ。
もう少しでキスしそうだった。
臨也は冷めた頭でそう考え、僅かに苦笑する。あんな風に静雄が怯えなければ、きっと自分は唇を重ねていただろう。そしてそれを成し得なかった事を、残念に思うとは。
キスしたい、なんて。
何故そんな事を考えたのだろう。まったく馬鹿馬鹿しい。
臨也は自嘲気味に笑い、屋上への扉を開ける。同時に飛び込んで来た太陽の光に、僅かに目が眩んだ。
「…こんなのは、ただの気の迷いさ」
そう呟いた言葉は、誰の耳にも届かない。
頭上に広がる空は、雲一つない青空だった。

(2011/01/22)
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