あそぼ。






授業中の校舎は静かだ。それは当たり前であり、静かな授業時間に校舎を歩き回る生徒は珍しいと言える。
平和島静雄は今まさにその生徒の一人だった。
静雄は階段を駆け降りて、一階の生徒玄関までを息急き切って走って行く。キュッと上履きが、廊下の床で音を立てた。
「いざやああぁぁああっ」
彼の腹の底から搾り出すような叫び声に、静かな校舎は震え上がる。聞こえている筈なのに、どの教室からも扉は開かれなかった。触らぬ神に祟りはない。
そんな彼に追い掛けられている折原臨也は、笑い声を上げて走り去って行く。その高い笑い声も静かな廊下に響くのだが、やはりどの教室の扉も開かれなかった。
広く入り組んだ校舎で、静雄は臨也の姿を見失う。はあはあと肩で息をして、額から伝う汗を拭った。
「くそっ」
悔し紛れに悪態を吐いて、静雄は静かな廊下を歩く。どこの教室からも教師の声がして、静雄は今が授業中なのを思い出した。また授業をさぼってしまったことに、静雄は溜息を吐く。こんなことは日常茶飯事だけど。
誰も居ない廊下を歩いていると、突然体を引っ張られた。抵抗する間もなく部屋へと引きずり込まれる。目の前で扉が閉まった。
静雄が驚いて振り向くと、そのまま唇が重ねられた。至近距離に端正な顔があり、静雄は目の前の男に口づけられているのだと気付く。伏せられた長い睫毛から覗く赤い目が、静雄をじっと見詰めていた。
「いざ…っ、や」
「静かにして」
臨也は一度唇を離すと、静雄の体を机の上に押し倒した。ガタンと机が揺れ、後ろの椅子が倒れる。
驚きで唇を開いた静雄に、再び唇が重なった。歯列を割って、臨也の舌が入り込んで来る。舌を絡み取られ、口腔内を思うがままに蹂躙された。クチュクチュと唾液の音がし、静雄は羞恥で顔を赤くする。臨也の腕を掴んで離そうとするのに、力が入らない。その手は結局しがみつくみたいに臨也の肩を掴んでしまう。
臨也の向こうにピアノが見えて、ここが音楽室だと静雄は知った。誰も居ない音楽室で、この世で一番嫌いな相手に押し倒されている。
「…っ」
不意に唇が離された。
臨也は静雄から体を離し、唇を親指で拭う。指先には血が付着している。
「…じゃじゃ馬だね」
静雄に噛まれたらしい。
臨也は口端を吊り上げ、舌先で傷口を嘗めた。ピリッとした痛みが走る。
「黙れ」
静雄は燃えるような目をして、体を机から起こした。体から滲み出る殺意だけで、今にも目の前の男を殺せそうだ。
「何の真似だ」
「キスした」
「そんなこと聞いてんじゃねえ」
飄々とした態度の臨也に静雄の怒りのゲージは上がって行く。苛々として掴んだ机が、ミシリと音を立てて歪んだ。
「キスしたくなったから」
臨也はそう言って口端を吊り上げる。普通の人間なら恐れる静雄の睨みも、臨也には通じない。
「何がしたくなったからだ。死ね」
静雄は唇を手の甲で拭う。頬が僅かに赤いのを、自覚していた。まだ心臓がバクバクと早鐘のように打っている。
「ひょっとしてファーストキスかな?」
「黙れ」
「ははっ」
臨也は声を出して笑い、赤いその目を伏せた。二人の間に沈黙が落ちる。
他の教室から、授業を行う教師の声がする。隔離されたみたいな空間で、二人はただ黙っていた。
「シズちゃん」
いつまでも唇を押さえている静雄の手を、臨也は不意に掴んだ。静雄の色素の薄い瞳が見開かれる。
「震えているね。怖い?」
「誰が…」
静雄が手を振りほどこうとするのに、臨也の手は離れなかった。
「でも震えてる」
臨也は口角を吊り上げて、静雄との距離を埋める。静雄はその赤い双眸から目を逸らした。
「今日はこのあと音楽の授業があるクラスはないんだ」
「…だから何だよ」
掴まれた手が熱い。自分の鼓動の音が、いやに耳に響く。
「誰も邪魔しない」
臨也の片手が静雄の腰に回された。そのままぐいっと体を密着させられる。
「…臨也?」
「俺と遊ぼうよ」
きっと楽しいからさ。
怯えた瞳の静雄に、悪魔みたいな男はこう言って笑った。

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