フィディオは地図を見ることが好きだった。
 端から見れば活発の部類に入る彼のその行為を、知人たちは口を揃えて意外だと言うが、フィディオにとってみればそれも周囲のイメージの一部だ。地図を見て、行ってみたいと想像することは、皆が思う程暗いものではない。寧ろ極めてアクティブな夢想の時間だと思う。
 時にはアメリカ、時にはブラジル、エジプトだったり中国だったり――日本だったり。
 あの人の生まれ育った国はどんな場所なのだろう。空気の匂いは、空の色は、街並みは、そんなことを考えて、地図上の小さな島を指先でなぞる。
 そんな行為が好き『だった』。





 フィディオの部屋にアンジェロが訪ねて来たのは午後二時を少し過ぎた頃だった。
 扉を開けてすぐにそれが目に飛び込んだのは、窓から入る陽光がまるでスポットライトのように当たっていたからだろう。アンジェロは小首を傾げた。


「なんで世界地図?」

「見てたから」


 至極当然のその答えからは、フィディオの拗ねが感じとれた。アンジェロは、ふーん、と呟くと、自然な流れでデスクチェアに腰掛けた。


「旅行の計画?それとも宿題?」

「どっちもハズレだよ」

「あっ、わかった。キャプテンの脳内ストーキングだ」


 アンジェロの愛らしい笑顔には確信が宿っていた。残酷だ。
 フィディオは眉間を寄せた。


「ストーキングじゃない。ただ今頃どの辺りにいるかなって考えてただけ」

「今回はインドだっけ?ご飯はやっぱりカレーかな、毎日サッカーして泥だらけ、いや砂だらけになってるんだろうな、サリーを着た女の人に誘われたりしてたらどうしよう――違う?」


 フィディオが、う、と喉を詰まらせると、アンジェロはお腹を抱えて笑声を上げた。


「あー、フィディオってば本当にわっかりやすい!面白い」

「わ、笑うなよ!」


 恥ずかしさの余り、フィディオの頬は見る見るうちに赤く染まった。眉を吊り上げ睨んでみたが、両手で口元を隠すだけで笑いっぱなしのアンジェロには、止めようという素振りすらない。目尻に涙まで浮かべている始末だ。
 フィディオは乱暴に歩を進めると、ベッドに沈んだ。


「ふふふ。ごめんごめん。そんなに拗ねないでよ」

「だってアンジェロの言い方」
「だからごめんってば」


 フィディオはそっぽを向く代わりに腕で顰めっ面を隠した。何も茶化すことはないじゃないか。こっちは真剣なのに。そんな言葉が膨らんだ頬の中で渦巻く。
 無防備に晒された旋毛を見ていたアンジェロは、そっと息を吐いた。


「フィディオの気持ちは分かるよ。会えないと寂しいよね」


 小さな掌がダークセピアの髪を梳く。さらり、さらり、掬っては零す。
 乾燥で絡まった毛が解けていくにつれ、フィディオの顔は浮き、やがて暗いスカイブルーの瞳がアンジェロの微笑を映した。


「寂しいし…会いたい」

「うん。地図ではたったの五センチなのに、遠いから」

「しかもあの人は楽しそうに、簡単に離れて行くし」

「それはイヤだね。せめて惜しんで貰いたいよ。まあそういうとこがキャプテンなんだけど」
「――そうだけど」


 理解はしているが深いため息は止められなかった。フィディオはもう一度腕の中に顔を伏せた。
 アンジェロの手が頭を撫でる。優しく、優しく。
 なんだか泣きそうになって、フィディオは首を左右に振った。










 フィディオは地図を見ていた。ベッドに一人取り残されたまま、まだ夕暮れの名残が漂う月光の元で、イタリアとインドを指先で往復する。一秒と掛からない行為だ。
 実際もそうなら、いや、せめて五分、十五分、一時間。飛行機なんて使わずに、歩いて走って会いに行けたのなら。それほど地球が小さければ困るのは人間で、どうしようもないことだと知りながら、それでもフィディオの指は地図をなぞる。無駄な時間。


「キャプテン…」


 例えば彼がもっと頻繁に連絡をくれたのなら、また心は変わるのだろうか。地図の手前に放り出された携帯を開く。着信履歴にヒデという文字が現れるのは一スクロール後。一週間以上前のものだ。
 最後に会ったのは、一ヶ月より遠くの出来事。
 その間に、フィディオの背は二センチ伸びていた。もしかしたらヒデも伸びているかもしれない。声も低くなっているかもしれない。
 確かめたい。姿を見たい。声が聞きたい。ただ会いたい。


「いつ、帰ってくるんですか…?」


 携帯が、返事をした。


「っ!」


 フィディオが息を飲んだのは、何の前触れも無く着信音が響いたからではない。
 嘘、と、つい疑いたくなる。自分もそれを求めていたというのに、いざ画面に彼の文字が浮かぶと脳は容易く許容量を越えフリーズするのだ。
 それほどまでに焦がれた、彼。
 フィディオは飛び起きながら通話ボタンを押した。


「も、もしもし!?」

「もしもし。こんばんは」


 いつもの快活な笑顔が瞬時に想像出来る、ヒデの声。


「あ…こんばん、は。お久しぶりです…」

「ああ、久しぶり。元気にしてたか?」

「はい。ヒデさんは?」

「俺も勿論元気だ」


 フィディオは肩を下ろしつつ、ベッドから足を落とし、月を見た。インドが昼か夜かはわからなかったが、空は繋がっている。


「よかったです」

「心配しなくても旅先で体調を崩すほど柔じゃない」

「いえ、それもですけど、なんていうか…声が聞けて」


 フィディオの口から微かな笑声が漏れた。きっとヒデには理解出来ないだろう。たった数分だけで終わるだろうこの一時がどれだけ恋しさを掻き立て、そして自分を安堵させるのかを。
 指先に柔らかな熱が灯る。フィディオは、きゅ、と携帯を握りしめた。


「声だけか?」

「え?」

「声だけじゃないんだけどな」


 ヒデが理解出来なかった。フィディオはたっぷりとフリーズした。正確には飛び散ってさまった思考を掻き集めるのに、全神経が必死になったのだ。
 声だけで、声だけじゃ――。


「えっ!?」


 声だけじゃないということは、姿を見ることが出来る、つまり会えるということなのかという考えに至り、フィディオは心臓を高鳴らせた。現金なものだ。さっきはあんなにも健気な気持ちになったというのに、今はもう、待つなんて出来そうにない。


「今、どこにいるんですか?」

「空港だ。ついさっき手続きが終わった。今からそっちへ行ってもいいか?」


 フィディオの家と空港の間には四十分弱の距離がある。嫌だ。


「俺も行きます!」

「ん?」

「空港と俺の家の丁度間くらいに公園があります。そこで待っててください!俺も行きますから!そしたら」


 距離も時間も半分で済みます。


「早く、会えますから」


 フィディオは心の底から溢れくる幸せを噛みしめながら、言った。はにかんで、気がついたらベッドから立ち上がっていて、クローゼットまで開けている。気が早いけど、居ても立ってもいられない。


「わかった。そこで会おう。待ってる」

「もしかしたら俺の方が先に着くかもしれませんけどね」


 なんて言っても半分だ。フィディオはジャケットをひっつかんだ。


「それなら競走だな」

「はい。それじゃあ」


 回線の切れた音はピストル代わり。スタートの合図だ。
 フィディオはジャケットに腕を通しながら部屋を飛び出す。
 会ったら何を言おうか、何をしようか。とりあえず抱きしめてしまうかもしれない。いやきっと抱きしめる。
 どこに行くの?という母の声にちょっとキャプテンに会って来ると叫び返す。優しいいってらっしゃいは玄関の扉に遮られた。
 楽しみだ楽しみすぎる。早く会いたい。距離がもう半分縮めばいいのに。けれど走れば走る分だけ距離は確実に縮まる。しかも二倍で。
 会える。
 フィディオはタイミング良く来ていたバスに滑り込んだ。早く、会いたい。





END





13.6/21








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