暗闇にいた。
 それは水――いや、泥のような重みのある闇だった。
 ここはどこだと考えるよりも、どうすればいいかと惑うよりも先に、影山は走り出していた。しかしやはり闇は重い。ぬかるんだ黒は手足を絡めとり、もがけばもがく程深みに堕としていく。それでも動きは止められない。動きを止めた時、完全に闇に溶ける気がして怖かった。
 動けない。息が出来ない。苦しい。
 必死に肺を急かしたが、染み込んだ闇に鷲掴みにされたそこは、食い込んでいる部分からブチブチと切れていくようで、ただ痛いだけだった。
 肺に穴が開いたのだろう。ささやかな呼吸が、ひゅーひゅー、と嫌な音になる。
 動きも酸素も――ああ指先が痛くなってきた――温度も奪われて、苦しさに涙が溢れた。液体は、見開いたままで乾いた眼球を濡らすが、影山の瞳は一向に潤わない。血走った双眸は闇を見続ける。
 光など無い、闇、闇、闇。





 最初、目覚めたとは気づかなかった。
 そのように緩やかに、影山は現実へと這い出た。
 荒い呼吸、痛む肺、凍った指先――闇。夢と何が変わった?
 いや、荒くても息は出来ているし、全身はぐっしょりと濡れている。影山は自らの胸を掴んだ。
 鳴り響く鼓動と、皮膚に爪が刺さる痛み。これは現実だ。
 意識して長い息を吐く。きっと変な時間に起きてしまったのだろう。影山の元より短い睡眠時間は、フィディオと暮らし始めてから随分と伸びたが、年のせいもあり、やはり夜中に目覚めてしまうこともしばしばあった。世界が暗闇なのはそのせいだろう。
 唇が、咥内がやけに乾燥していた。上顎と舌がへばりつく。
 常よりもざらつく舌で唇を潤そうと試みるが、焼け石に水だった。
 喉が、いや、全身が水を欲している。
 影山は折り曲げた肘を支えにして、上半身を起こした。瞬間に世界が揺らぎ、脳に血が急激に流れ込む感覚に吐き気がした。文字通り身体が重い。
 額を押さえて暫し俯く。
 そのまま二、三度呼吸すれば、眩暈は幾分か治まった。額から手がずり落ちる。
 そこで気がついた。
 隣で眠っていた筈のフィディオがいない。
 弱々しくベッドから降りる、危なげな足取り。それでものろのろと靴を引っ掛けると、影山はキッチンへと向かった。





 月明かりさえない廊下は闇色で満たされていて、ひやりと冷えている。影山はそこを手探りで進む。明かりをつければ眩暈が酷くなりそうに思えたのだ。
 このような夜更け(しかしそれは影山の感覚であり、実際のところは知れていない)にフィディオの姿がないというのも珍しい状況だった。フィディオは異国の人らしく、スキンシップを好む傾向にある。そのため二人で住むと決めた際に、購入するベッドが一つだけになったのも、当然の流れのように決まったことだった。
 フィディオが家にいる時には二人で眠る。一日たりとて欠かされたことのない事実。
 側に彼を感じている時は、酷く安らかに眠れる。ひだまりに沈むように、柔らかな優しさと心強さの庇護を受けられるのだ。それはまるで親元にいる子供のような心持ちなのだろう。
 では悪夢はフィディオの体温が失せてしまったことに由来するのか、そのようなことを考えた自分を皮肉るように笑うが、しかし否定を貫くことは難い。それほどまでに、今の影山はフィディオに依存していた。
 あのような、出会ってから五年が経ったとはいえ、自分の半分も生きていない青年を束縛することに、何の躊躇いも抱かないということはない。
 ああ、それが闇なのか。
 過去は憎悪、現在は許されない愛、常に闇に縛られているのかと、影山は眉を寄せる。
 自分を闇から救い出した存在。それが今は闇としてある。
 階段を降りる。暗い。
 いや――何かささやかな光が、影山の網膜を刺した。
 これは、リビングから漏れた明かりだ。
 部屋を覗いた一瞬、影山は目を眩ませた。真っ白な視界。
 人の気配がした。


「おはようございます、零二さん」


 そのような言葉が投げかけられる。フィディオの声だ。
 漸く光に慣れてきた目をそちらに向けてみると、確かにフィディオはそこに居た。部屋の窓際に据えられたソファーに座る彼は、広げた新聞から顔を上げて影山を見ている。自然、強張っていた眉間から、ふ、と力が抜けた。
 それからややあって、おはようと新聞、その二つに影山は首を傾げた。


「そんな時間なのかね?」

「え……ああ」


 影山の問いにフィディオは微笑むと、視線をスライドさせた。その意図を汲み、影山もそれを追う。壁に掛かった時計は、無言で六時を告げていた。


「そうか。夜中なのだと思っていた」

「まだ陽が出てませんから、勘違いするのも無理ないです。それに、少し雨も降ってますしね。そのせいでランニングがいつもより寒くて…」

「それは……お疲れ」


 労いの言葉がまるで飴のように感じられ、影山にとっては甘味が強すぎるその言葉は、どうしても尻窄みなものになった。
 それを愛らしいととったらしい。目元を綻ばせたフィディオに、影山は眉間を寄せた。
 フィディオにはこういったことを言葉で示しても無駄だ。自分は可愛くないと当然のことを言う影山に対して、フィディオはこう返す。俺にとっては世界一愛らしい人なんです。一般論を踏まえた上で主観を論じられてしまうと、こちらにはどうすることも出来ない。
 渋面を作る影山に、フィディオが寄った。


「ところで」


 三センチ程しか差がない背を屈めて、青い瞳が覗き込む。


「何かありましたか?」


 影山は息を詰まらせた。


「何がだね?」

「いえ、少し顔色が悪いので…。後声も掠れてますし」

「……」

「どうかしたんですか?」


 不安げに距離を詰めてくるフィディオの視線を避けて、影山はフローリングに目を落とした。
 素直に言うべきか、迷う。
 闇が絡みつき、自分を殺そうとするのだと――蛍光灯が作り出した影にさえも捕らえられそうに錯覚し、影山は目蓋を伏せた。
 ゆっくりと息を吐き出す。目蓋の裏側は黒かったが、その奥に光は感じられる。フィディオが目の前にいる。
 影山は薄く目を開けると、フィディオの胸元辺りを映した。


「情けないものだな…。未だに、過去に捕らわれているとは…」

「過去、ですか?」

「――ああ」


 垂れる髪が鬱陶しく、灰色のそれを耳に掛けた。


「私の過去は闇だ。それが私を追い立てる。幸福など、お前には相応しくないと。どうやら闇は私を埋めてしまいたいらしいな。まあ、一人闇に堕ちるという方が、私には似つかわしいとは思うがな」


 現在の闇のことを、影山は敢えて伏せた。なんの落ち度もないこの青年の気を病ませたくはない一心で、けれど本音を。
 しかし真実を言葉にするという行為は時に痛みを伴うもので、爪を立てられた心臓が小さく痛んだ。少しでも早くその痛みを終わらせたくて一息に言ったので、少しの息苦しさを感じて、酸素を補う。
 フィディオの顔は見れないと思った。
 闇を見据えるのは怖い。
 鼓膜は、張り裂けそうな程の胸の叫びばかりを拾う。ドキ、というよりも、ズキン、といった音を聞く影山の耳には、秒針が進む音も、雨音も届かない。けれどフィディオのものだけはしっかりと受け取った。唇から吐息が漏れる、ささやかな音。


「闇が怖いのですか?」


 素直には頷き難い質問だ。影山は唇を噛み、掌にも爪を埋める。薄い皮膚が三日月の形にへこんだ。
 フィディオの手が伸びてくる。


「闇は怖くないですよ」


 手は、影山の頭部をそっと撫でた。子をあやすように、上から下へ、ゆっくりと、何度も。
 灰色の髪が左右に揺れる。


「それは必ず明けると知っている場合だけだ。一筋の光も射さない闇は――ただ、ひたすらに、恐ろしい…」


 自分で思う程酷い声だった。痩せた喉を押さえて、影山は俯く。
 惨めさに唇の端が震え、呼吸が詰まると、まるで夢が再来したようだ。締めつけられた胸の痛みは、覚醒している分より現実的で、フィディオに縋りたいと自然と考えてしまう程だったが、影山は二本の足に力を込めた。
 依存を自覚しているからこそ、踏み止まらなければならない線を正しく認識している。
 しかしフィディオの手は、そんな影山の手をいつだって簡単に掬い上げる。
 喉から離された手。触れる、優しい温もり。


「明けない闇はありません。もしも太陽が消えたとしても、俺は、俺が、貴方に寄り添って輝きます。貴方が目を逸らすことが出来ない程、強く、優しく…」


 綺麗な、綺麗過ぎる言葉だ。まるで空から零れ落ちる光のような――それは影山が今まで信用が出来ないと切り捨てて来た類のもの。いや、彼は何もかも信じて来なかった。
 けれど、握り返した手は酷く優しい。


「俺は、貴方を照らすことが出来ていますか?」


 その一言は影山の身体から力を奪った。膝が、理性が、崩れる。
 光に照らされた泥は固まり、容易く剥がれ落ちる。パリ、パリ、と。途方もない漆黒を、一筋の白が切り裂く。そして温かくなった。
 安堵感に言葉を無くし、ただだしがみつく影山に、フィディオが笑みを向ける。
 それを感じた刹那、影山はカーテンの隙間から漏れるささやかな朝日を確かに目にし、ゆっくりと目蓋を伏せたのだった。







END





とある方のカプ考察を読ませて頂きたぎった結果でございます。
畜生。意味不明になった…。
Kにとってのフィディオの大きさというものを伝えたかったのです。これでも。
乙……



12.6/7








人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -