十八畳あるリビングにはチョコレートの香りが満ちている。
対面式であるキッチンから漂ってくるそれに嗅覚を刺激され、ソファーに腰を掛けながら、鬼道は、ふ、と微笑んだ。
「いい匂いだな」
「ありがとうございます」
声に嬉しさを滲ませて、土門は覗き込んでいたビルドインオーブンから顔を上げる。
「匂い通りの味になるように頑張るんで、期待して待ってて下さいね!」
「ふ…。今年は確かチョコレートケーキだったか?」
「はい。デコレーションまで気合い入れてるんで、たぶんすごいのが出来るハズですよ」
「それは楽しみだ」
そんな言葉を交わす午前十時――今日はバレンタインデーだ。
この日は休校という訳では無いため、昼には大学に行くことになっている。学年末であるこの時期になると急いてとるような授業はないため、二人でそうなるように申し合わせたのだ。恋人にとっては甘いイベント、せっかくだから朝から楽しみたいというのがお互いの思いだった。
柔らかな日差しに照らされた室内で、忙しなく働く恋人の姿を眺める。なんて幸せな時間だ。鬼道はコーヒーを口に含むと、小首を傾げた。これはブラックではなかったか、と。
無糖のコーヒーでさえ甘くする空気。それが深層から引きずり出した記憶に、鬼道は悪戯っぽく笑った。
「なあ、土門」
「はい。なんですか?」
「お前は今まで俺にいくつのバレンタインチョコを渡したか覚えているか?」
ソファの肘掛けに立てた腕に顎を乗せて視線をやれば、土門が生クリームを泡立てていた手をピタリと止めた。
「なんですか急に?」
「いいから答えろ――ただし、間違えたら仕置きしてやるがな」
「えっ、なっ、そんな!」
「これくらい簡単だろう?」
理不尽さと、プライドを刺激する一手。慌てふためき出す土門に、唇の右端を上げる自分は、我ながら意地が悪い。
それでも鬼道は指先で膝を叩くと、
「ほら、早く答えてみろ。いち、に、さん…」
「ええっ!?えっと、ええっと……」
ボールと泡立て器を放り出した土門は、まるで記憶がそこに浮かんでいるかのように左上を見つめ、うんうんと唸る。
さあ、はたしてお前は『覚えて』いるだろうか――鬼道はくつくつと喉を鳴らして立ち上がった。
必死で思考する土門に歩み寄れば歩み寄る程、彼は顔を赤くして視線をさ迷わせるので、面白くて鬼道は更に距離を埋める。
土門との距離、後三歩。
「つきあいだしてからが六年だから、六個!」
埋まった距離が怖かったらしく、土門は悲鳴のように答えた。
だが鬼道が返すのはしたり顔。
「ふ…。残念だが不正解だ」
「うっそ!なんで!?」
「さあ、なんでだろうな」
不敵に笑う鬼道の腕が、土門の痩身を跨ぐ。
捕まってしまった、そんな顔の土門を目の前にし、鬼道はサングラスを外した。ああ、今更だが頬はこんなにも赤かったのか。可愛くて堪らない。
もっとよく見せろと言わんばかりに、鬼道は不遜な仕草で土門の顎を掬った。
「さて、土門。今さっき言った通り、お前にはお仕置きを受けて貰わなくてはならない」
「ひっ!」
土門は肩を跳ねさせて、しかし最後の抵抗と腕を突っぱねる。が、所詮無駄な足掻きだ。
「ちょっ、ま、待ってください鬼道さん!」
「だめだ」
「や、や…せめて、答えくらい……んっ!」
時間を稼ごうとぎこちなく動いていた唇は止められた。鬼道の唇によって深く、艶やかに。
ぎゅ、と固く閉ざされた土門の目裏には、答えなど浮かばないだろう。鬼道には鮮明に、味でさえはっきりと思い出せる、あの出来事を。
『疲れた時には甘いものが一番ってね』
それは親や影山から課せられる重みに、きつく眉間を寄せていた日――小さなチョコレートと優しく甘やかな笑顔を与えられたその日は奇しくも今日と同じバレンタインデーで。
普段は滅多に口にしない甘さに、触れない優しさに、俺が与えられたものは、きっとお前には理解出来ないだろう。
まるで心臓をそのまま抱きしめられたようなあの感覚。
胸が溶け出した時のあの甘さは、恋の味だ。それは今でもブラックのコーヒーをも甘くする魔法として存在し続けている。
ちゅ、と土門の舌を吸った。そこさえも甘い、なんて、鬼道は合わせた唇に苦笑を灯した。
きっとこの味は消えることはない。
静かに鬼道の唇は土門から離れた。どちらのものとも言えない唾液が溢れた口の端を舐めて、かかる熱い吐息に、涙で輪郭がぼやける艶やかな視線に、鬼道は自分の胸が溶けるのを感じた。
今にも崩れそうな細い腰を抱き寄せて、土門の耳に熱を注ぐ。
「お仕置きが終わったらな」
ぐらりと傾いた身体を抱きすくめて、鬼道は土門の左胸にくちづけを落とした。
END
バレンタインどころかホワイトデーもグッバイしてしまいましたが、華桜はそんな細かいこと気にする奴じゃございません。
ただ反省はしてます。計画性を持てばかこのやろう(笑
11.3/23