まるでスポットライトのような街灯の光を浴びながら、真っ白なビニール袋がアスファルトに落ち、ぐしゃりと潰れた。それが掛かっていた細い指は、微かに震えている。
鬼道は掛けようとしていた言葉を見失い、夜の帳が降りた宙に白い息のみを撒き散らす。
美しい少年の絶叫が響き渡った。
鬼道は自らに宛行われた車に揺られながら帰路についていた。雷門へ転校してからは珍しいことではあったが、この日は父親の知人に会いに行くということもあり、迎えを頼んでいたのだ。
その用もつい先程終わった。雷門を出た時には青かった空も、どっぷりとした闇色に浸り、小さな星が幾つか煌めいていた。
そんな儚い光を押し退けんばかりに煌めく連なった店々は、まだ眠る気配を見せない。
鬼道は携帯を開く。時刻は午後九時過ぎ。夜更けとは言わないが、中学生が出歩くには遅い時間だろう。
早く帰りたい。鬼道は頬杖を付きながら、窓の外を眺めた。
鬼道の指先がぴくりと動く。
「止めろ」
先の思いとは裏腹の命令に、運転手は眉一つ動かすことなく従った。車道の脇に寄った側から、鬼道が飛び出して行っても、何も言わない。
「ここからは一人でいい。お前は先に帰って義父さんに伝えておいてくれ」
「――畏まりました」
扉を閉めれば、車は動き出し、程なく街の光の中へと溶けて行った。これでいい。
鬼道は、窓から見えた人影を追いかけた。
それはほんの数十メートルといった距離だったし、相手はゆっくりと歩いていたため、小走りでも十分に追いつくことが出来た。
後五歩といったところまで迫った辺りで、鬼道は歩調を落とした。そこで二度深呼吸を繰り返したのは、乱れた鼓動を整えるためだ。けして走ったからなどではない、少し格好の悪い理由をその人に悟られたくはない。
しかし特徴的な長い金糸が揺れ、甘やかな香りを嗅ぎ取った途端に、鬼道は耐え兼ねたように距離を詰めた。
「アフロディ!」
振り向き様の髪の流れのなんと美しいことだろう。鬼道が見蕩れる目の前で、その髪に違わぬ美貌が露になる。
「奇遇だな、こんなところで……」
そこで鬼道は言葉を切る。アフロディの表情の変化を目にしたからだ。
真紅の瞳が鬼道の姿を中心に捉えた瞬間から、徐々に丸くなっていき、何故そんなに驚くんだと鬼道が訝しんだ頃に、アフロディの指先からビニール袋が滑り落ちた。
「うわああぁぁっ!!」
彼はビニール袋の後を追うように地面にしゃがみ込んだ。これではまるで暴漢にでも会ったような、着替えるところを見られた女子のような反応ではないか。鬼道とアフロディの間には微妙な空気が流れ、通行人は微妙な視線を投げつける。
一体俺が何をしたと言うんだ、鬼道は途方に暮れて、腕の中に沈んだアフロディの頭を見つめた。そこは質素な街灯の光にでさえ、艶の輪を作り出す。ああ、やはり綺麗だと、場違いに考える。答えなんて見当もつかなかった。
「その…アフロディ…?」
「やめて!見ないでくれ!」
これはマズい。周りからの目線の鋭さが増した。何せ叫んでいる相手は女子と見間違えたとしてもおかしくない線の細さだ。
鬼道は弁明するように辺りを見回し、とりあえずなんとかアフロディを落ち着けようと、自身もしゃがみ込んだ。
「あ、アフロディ。一体どうしたんだ?」
「だから僕を見ないでくれと…!いや、なんでもないから、とにかくどこかへ行ってくれ!早く!」
「いや、そんな訳には…」
「お願いだから…!」
明らかに声の響きが変わった。言葉尻や端々に震えた吐息が交じり、全体をか細くて弱々しいものにしている。
「こんな姿…君には見られたくないんだ…!」
今にも泣き出しそうな声が、鬼道の鼓膜にせつなく突き刺さった。
「何故……」
こんなにも悲痛に叫ぶのだろう。彼の姿を見つけた瞬間嬉しくて、会って話したくて、思わず車から飛び出した行為が愚かだったというのか。星の光でさえ霞ませる明るさの中でも色褪せないアフロディを見てはいけないなんて、鬼道は強張った指先をアフロディの髪に滑らせる。頭皮が僅かにだが湿っていた。
「すまない。少しでも会いたかったから…」
「僕は会いたくなかった!」
鬼道の手が大きく震えた。そのことで自らの失言に気づいたアフロディは、弾かれたように顔を上げた。ゴーグルでは隠しきれない程動揺を露わにした鬼道と、耳元まで頬を赤く染めたアフロディが無言で三秒程を過ごす。
「ち、違うんだ!君に会いたくなかった訳じゃない!ただ今だけは…君にだけは会いたくなかったんだ…!」
眉を寄せて、縋るような目を向けられて、鬼道は戸惑うばかりだった。赤い瞳の必死さは本物だ、だからこそ矛盾した言葉を紐解くことは難解を極める。
表情を無くす程に思考する鬼道に焦ったのか、アフロディは唐突に立ち上がった。
「こんな格好の僕を、僕は見られたくなかったんだ…」
血の気が引いた手で、ぎゅ、と掴んだのは、何の変哲もない白いジャージだ。そこで鬼道は初めてアフロディの服装を見たことに気づく。
ジャージに、寒いからだろうベージュのダウンジャケットを羽織るだけという、確かに普段アクセサリーにまでファッションに気を遣っているアフロディにしては簡単な装いだ。
「別に変な格好ではないだろう?」
「でも美しくない」
「そんなことはない。お前は綺麗だ。それにジャージなら練習の時にも着てるじゃないか」
「ユニフォームと部屋着は違うよ」
弱々しく首を振るアフロディから、ふわり、と甘い香りが漂った。
「風呂上がりだったのか?」
「うん」
「ならば早く帰らないと風邪をひくな。送っていこう」
「――うん」
萎れたままのアフロディの背を優しく撫でると、彼は一歩だけこちらに近づいた。そのまま帰ろうとしたところで、鬼道は気づく。
「それにしてもこんな時間に買い物なんて珍しいな」
置き去りにされかけた袋を拾い上げながらそう言うと、アフロディの頬から引きかけていた赤みが、再熱した。
「そ、それは……」
鬼道の指先を冷気が這い上がってくる。
「アイスか?」
「――急に食べたくなったんだ。こんなことになるなら我慢すればよかったよ」
やや瞼を落とし、唇を尖らせる。そこにくちづけたいという衝動に駆られたが、みっともなく溢れてきた唾液ごと内臓へ押し返して、鬼道はそっと頭を撫でた。
「俺は嬉しかったがな」
「そういえば鬼道くんはなんでこんな所にいたんだい?」
「俺は父の用事があって、それでだ」
「ふーん…」
アフロディの視線が、甘えるような角度で鬼道を捉えた。
「それなら少しくらい遅くなっても心配しないかな…?」
ガサリ、とビニール袋が音を立てた。それに自分の鼓動の揺れが重なったことが恥ずかしく、結果アフロディの言いたかったことが理解出来た。つまりは格好悪いところは見せたくなかった訳だ。鬼道は火照った顔を背けながら、
「連絡さえすれば泊まりでもいい」
「明日も学校だよ?」
「――お前の家からでも行けるだろう?」
スマートじゃない誘い文句だ。
もっと何かあるはずだと、言葉も吐かない癖に口をまごつかせて、鬼道はアフロディの手を握った。
「それなら明日は早起きしなくちゃいけないなあ…」
「何故だ?」
「――君に寝起きの顔は見られたくないから」
言葉と同時に歩き出したものだから、その時のアフロディの表情は窺えない――彼は知らないようだ。
そんな風に隠された方が、見るなと言われれば余計に見たくなるのが人の性、鬼道はワンステップだけ大きくとると、アフロディの横に並び、耳の側に寄った。
「頑張れよ…?今日は夜更かしさせるからな…」
紅潮した耳を見た瞬間、鬼道は勝ちを確信した。腕を引けば容易く胸に落ちる程の狼狽えぶり、見えた顔は瞳も口の端も震えていた。舞い上がり過ぎて怖いといったような、情けない顔。綺麗というよりは、
「可愛い反応だな」
にやりと笑ったら、ぺちりと口を叩かれた。
「頑張るよ。今度もまた君の寝顔を見せて貰うから」
「今度こそ俺がお前を起してやるさ」
まるで勝負ごとの前のやりとり。
見るか見られるか、なんて気の抜ける勝負だとは思うが。
しかしこれで勝てば飾らないアフロディを見ることが出来る。そうしてまた一つ彼を好きになるのだろう。アフロディならば、例え間抜けな顔で涎を垂らしていようとも可愛いと思える自信がある、馬鹿だと自覚している鬼道は、ただ苦笑するしかない。短いため息が白く霧散した。
とりあえず勝負は既に始まっている。
「まあ明日は学校だからな。響かないようにほどほどにするよ」
この言葉でどのくらい油断してくれるか、そんな謀を潜ませた鬼道の顔は、アフロディの言葉で瓦解することになる。
「そんな気遣い、僕にはいらないよ。君の好きにしてくれて構わない」
格好悪いところなんて、お前の百倍は見られてる。そんな言葉を飲み込んだ顔は、渋く歪みながらも赤く染まっていた。
END
12.2/14