差し込む朝日、小鳥の囀り。 そして小腹をくすぐる香ばしい香り。 そんな、平凡な日常みたいな情景のなかでわたしは目を覚ました。
「…ん………」
ぱちぱちと瞬き。靄がかかったような意識。未覚醒のあたま。 そこへ。
「楪!気がついたのだな」
とても優しい笑顔を浮かべた美貌が飛び込んできて、反射的に飛び起きた。
「うぉわ!」
「?!ど、どうした!」
「…………いや」
そっちこそどうした。 という言葉を飲みこんでわたしは目の前のイケメンを見つめる。 ディルムッド・オディナ。 ケルト神話の英雄で、前回の聖杯戦争におけるランサーのサーヴァント。 闘いの半ばで志を果たすことなく散った、わたしの守りたかったもの。 それがいま、此処に居る。
「……夢じゃ、ないんだよね」
すこしだけ震える声。恐る恐る、手を伸ばす。 頼りなく彷徨うそれは、温かい掌にしっかりと包まれた。
「ああ。俺は、確かに此処に居る」
伝うぬくもりは偽物なんかじゃない。 10年前にずっと感じていたものとおなじ。 ディルムッドの体温だった。
「───おはよう、ディルムッド」
泣きそうになりながら笑顔をつくる。 そうしたら、彼も同じような顔をした。
「おはよう、楪」
10年ぶりに交わした挨拶は、色んな感情を押し込めすぎて、すこしだけ不器用に聞こえた。
「…わあ」
着替えて居間へ行くと、食卓には見事な朝食が並んでいた。 トースト、スクランブルエッグ、ベーコン、ジャム、サラダ。それから紅茶にデザートの林檎まで。 一体我が家の何処にこんな食糧が。5年も帰ってなかったはずなんだけど。
「これ全部ディルムッドが作ったの?」
「ああ。楪の口に合えば良いのだが…」
「大丈夫、絶対合う。ていうか、材料は何処から…」
「パンと卵とベーコンはクー殿が持ってきて下さった」
「…くーどのって」
「ランサーのサーヴァントだ」
「おう…」
クー殿、ね。確か彼は真名がクー・フーリンだったか。そんな呼び方もあるんだね。
「…ちなみに、そのクー殿はディルムッドのことなんて呼んでるの?」
「楪と同じく、ディルムッドだが」
「………」
予想通りというかなんというか。 何時の間にそんな仲良くなったんですか、貴方たち。 …まあ、ランサー同士気があうのかもね。いいことだ。
「…ってことは、これ教会からくすねてきたのか」
ランサー、有難いけど後から言峰になんて言えばいいのわたし。ひとりで怒られるのいやだよ。
「あれ?でも、林檎とジャムって何処から持ってきたの?野菜も」
「それは最初からこの家に置いてあったものだ。野菜も、ダンボールに入った新鮮なものが玄関に置きっぱなしになっていた」
「…ああ……」
そうか、と納得する。 実はこの家、ロンドンに行っている間は管理を大河ちゃん───つまり藤村組に頼んでいたのだが。 人づきあいの多いあそこには大量に食糧やモノが集まってくる。置き場のなくなったそれは大体衛宮邸へ行くのだが…家主が居ないのを良いことに、この家も物置として使われていたんだろう。衛宮邸に近いからすぐ取りに来れるし。 なんにせよ、それが幸を為したらしい。大河ちゃんには後からお礼を言っておこう。
「…ま、とりあえず食べようか」
「ああ」
二人で食卓に座る。 おばあちゃんが居なくなってから、こうして誰かとこの家で食卓を囲むのはこれが初めてだった。 衛宮邸にはよく遊びに行っていたけど、士郎や大河ちゃんが此処に来ることはなかったから。 だから───ちょっとだけ、どきどきした。
「いただきます」
「いただきます」
手をあわせて一礼。ディルムッドもそれに倣って一礼。 穏やかな朝食のはじまり。
「…ん、このスクランブルエッグ美味しい」
「本当か!」
「うん、ディルムッド料理上手なんだね」
「いや、俺の腕などたかが知れている」
「そうかなぁ」
美味しいけど、とトーストを齧る。向かいではサラダを食べるサーヴァント。 ………あれ。 ちょっと待てよ。
「…ねえ、ディルムッド」
「ん?なんだ?」
「……サーヴァントって、基本的に食事はしないんじゃなかったっけ」
ぴたり、と。 ディルムッドの動きが停止した。 おお、彫刻みたいだ、
「確か、充分な魔力供給があれば食事は要らないんだよね?」
「…あ、ああ」
「……もしかして、魔力足りてない?わたしの所為?」
「ち、違う!楪からの供給は充分に足りている!」
「じゃあ、なんで?」
「……………」
黙り込むディルムッド。フォークの先に突き刺さったレタスが瑞々しく揺れている。
「…実は……この身は、どうやら霊体化出来ないようなのだ」
「…へ?」
「恐らく、正規の召喚でないが故に何らかの齟齬が生じたのだろう。本来ならば、楪の魔力消費を抑える為にも霊体化をするべきなのだが───」
「……つまり…ずっと実体化してなきゃいけないってこと?」
わたしの言葉に、ディルムッドは申し訳なさそうに頷いた。 霊体化が出来ないサーヴァントなんて初めて聞いたのでそりゃもう驚きである。
「……そ、そっか。わかった」
「面目ない…主の魔力を必要以上に頂くなど…騎士としてあるまじき行為だ」
しゅんとする美貌の英霊。 きっと、わたしの身を案じてご飯なんて食べているんだろう。摂取した栄養は魔力になる。少しでも自身の魔力を高めれば、他から貰う量も減ると考えて。 相変わらずお人よしだなあ。
「いいよ。心配しないで」
「…楪?」
「魔力なら余ってるから、好きなだけあげる。だから大丈夫だよ」
「し、しかし…!」
「ディルムッドを引っ張りだしたのはわたしなんだから、それくらいは責任を取るよ」
本当なら、あるまじき例外なのだ。 一度敗退したモノが再び召喚されるなんて。 正に奇跡としか呼びようのないこと。 その代償くらい払えなくてどうする。
「…すまない。なるべく、無駄な魔力は使わないように努力する」
「遠慮しなくていいってば。わたしとしては、前よりディルムッドと一緒に居られるようになるからとっても嬉しいよ」
「……!」
霊体化したら姿が消えちゃうけど、実体化してるあいだはサーヴァントもヒトとそんなに変わらない。傍に居るってよくわかるからわたしはそっちの方が嬉しい。 ディルムッドは驚いたように顔を上げてから、柔らかく破顔した。
「ありがとう、楪。貴女が主で俺は幸せだ」
「どういたしまして」
ふふっと笑い返して紅茶を飲む。ほんのりと甘いそれは思考を活発化してくれる。
「…で、さ。主ってことは、わたし、ディルムッドのマスターになったんだよね?」
「ああ。俺のパスは完全に楪に繋がっている。恐らく令呪も存在するはずだ」
「令呪…」
カップを置いて、服の左袖を捲る。 そこには、遂に肘を通り越した聖痕があった。
「ああ、これか…」
肘から先に浮き出た刻印は、他のモノより少しだけ形が違う。たぶんこれが令呪だ。
「…じゃあ、わたしはサーヴァントを召喚したんだね」
「少々不完全ではあるが、そうなるな」
「………」
つまり、わたしは。 聖杯戦争に参加する権利を手に入れたのだ。 繰り返される忌まわしい儀式。 それを、外からではなく。 内側から破壊するチャンスを。
「…ディルムッド」
「なんだ」
「……もし、わたしが…聖杯戦争に参加する、って言ったら…怒る?」
「───ッ!」
再びディルムッドの動きが止まる。 流麗な眉が険しくひそまった。
「…楪、貴女は…聖杯を求める理由があるのか」
「ないよ。微塵もない」
「っ、ならどうして!」
ディルムッドはテーブルを叩いた。がしゃん、と食器が派手な音をたてて揺れる。
「貴女もわかっているはずだ!聖杯戦争は、呪われた儀式!ヒトの醜い欲望が交差する忌まわしき闘いだと!」
「…うん」
「そんな闘いに、貴女が参加する必要等ない!もうあんなモノに巻き込まれる貴女を見るのは、厭だ…!」
悲壮な面持ちで彼は唸った。 わたしはゆるりと首を横に振る。
「ディルムッド。わたしはね───聖杯戦争を、終わらせるために此処に居るの」
「…え……?」
「わたしの未来を願ってくれた貴方の祈りを、叶えたくて。わたしは前回、聖杯戦争を終わらせようとした」
「…………」
「でも───失敗した。聖杯は破壊されたけれど…闘いは終わらなかった。むしろ、破壊した聖杯は呪いとなってすべてを焼き尽くした」
「そんな……」
「…わたしは、今度こそこの忌まわしい儀式を終わらせたい。だから聖杯戦争に参加する」
「楪……」
「本当は、すべてを終わらせてから会いたかった。そうすればきっと、胸を張って笑えたのに…」
ごめんね、と呟く声はかすれていた。 貴方の最期の祈りを叶えたくて生きてきたのに、まさか。 それを叶える前に貴方が出てくるなんて。 ほんと、反則だよ。
「…もし、わたしの考えに賛成できないんだったら、協力はしなくてもいい。わたし一人でどうにかしてみせる」
勝手に呼び出しておいて、なにを言っているんだか。 自分の都合のよさに呆れて仕舞う。 わたしはいつまでも成長できないままだ。
「身勝手に引っ張り出して、こんなこと言うなんて…矛盾してるってわかってる。嫌ってもいいよ」
「…………」
「わたしなんかがマスターになって、ごめんね」
精一杯の笑顔を、貴方に。 はち切れそうな心を隠すためにぎゅっと掌を握りしめる。 それを見つめていたディルムッドは、おもむろに席を立った。 そのままわたしの足もとに跪く。
「……俺は、貴女を嫌ったりしない。愛する者を嫌うことなど、俺には出来ない」
「…ディルムッド、」
「楪の願いはこのディルムッドの願い。騎士の誇りに懸けて、必ずや───聖杯戦争を終結させよう」
固く閉じた手を引き、その甲に口づけるフィオナの騎士。 それは、わたしが誰よりも信じた者の姿。
「───っ、ディル…」
ぽたぽたと、情けなくも決壊した想いが溢れ出る。 ずっと、求めてた。 ずっと、あいたかった。 だれよりもなによりも、傍にいて欲しかった。 わたしのヒーロー。
「楪、」
嗚咽を飲みこみながら泣きじゃくるわたしの顔を両手で包んで、ディルムッドは穏やかに微笑む。
「…いい、の?わたし、なんかで…本当に、いいの?」
「ああ、勿論だ。楪が良い。楪でなければ、駄目だ」
「う、ぁ…ぁっ、」
言葉がうまく出てこなくて、あつい涙がこぼれる。 頬にそえられた手に触れる。ディルムッドはそっとわたしを引き寄せる。
ゆっくりと、唇が重なった。
まるで壊れ物にさわるような、触れるだけのキス。 瞼を閉じると、自分以外の温もりが毒の様に伝わった。
「…ん、」
離れていく温度。目をあける。ディルムッドは丁寧にわたしの頬に伝う涙を舐めとった。 ちゅ、ちゅ、とリップ音が響く。 小鳥が餌を啄ばむような仕草。すこしくすぐったくて笑ったら、彼も微笑んだ。
「…こうして、もう一度貴女の御側に居られることを幸せに想う」
「……わたしも」
どんな運命の巡りあわせかは知らない。 それでも、いまこうして傍に居られるのだ。 一度失った温もりを、また抱きしめられる。 それを幸福と呼ばずして何と呼ぼう。
「ディルムッド、」
椅子から降りて、跪く彼と真っ直ぐに向き合う。 長い睫毛も金色の瞳も、やわらかな癖っ毛も呪いの黒子も、ぜんぶぜんぶあの日のまま。
「情けないマスターだけど、よろしくね」
「勿論だ。我が槍は楪のために」
「うん。今度は道具としてじゃなく、貴方のマスターとして勝利を祈るよ」
大きな掌を握って告げる言葉。 わたしの大切なヒーローは優しい笑みを浮かべたまま頷く。 それから、わたしたちはもう一度ながい口づけを交わした。 朝日はやわく、穏やかにリビングを照らす。
こうして───人生で二度目の聖杯戦争が、幕を開けた。
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