呼んでいる。
呼んでいる。


「   」


誰かが、名前を。
この生命を。


「    !」


目を開けて、光に手を伸ばす。
触れ合った指先の温度は、懐かしい優しさをまとっていた。























教会から飛び出して全力疾走で坂を下る。
墓地を過ぎて、住宅街に入ったらへんで息切れが激しくなってきた。
思わず足を止める。


「は、っ…は…ぁ…」


冷たい夜風を吸いこむたびに気管が悲鳴を上げる。
ぐらぐらと眩暈がしてその場に座り込んだ。
(立て…走れ…)
必死に自分の身体に命令する。
(うごけうごけうごけうごけ)
脳裏によぎるのは、最悪の結末。
決して失うことのない筈だった楽園の消失。
彼が愛した空虚と罪過の日々。
そして、血の海に消えた笑顔。
(行かなくちゃ、止めなくちゃ…)
手遅れになる前に───!


「ッ、楪!」


アスファルトに手をついて肩で息をするわたしの名前を呼ぶ声。
無様に揺れながら顔を上げる。目の前にはランサーが居た。


「この馬鹿野郎!なにしてんだ!おまえは病人なんだぞ!」

「…ぁ、ラン、さー…」


蹲る私を抱きかかえ、青い英霊は必死の形相で叫ぶ。


「なにがあったかは知らねえが、いまのおまえは何もできねえんだ!大人しく寝てろ!」


もはや聞き慣れてしまったその声が、熱に浮かされた脳内で踊る。
立ち上がったランサーの肩を掴んでわたしは小さくかぶりを振った。


「だめ……行かなく、ちゃ…手遅れになるまえに、止めなくちゃ…」

「…っ、んな身体で何処に行ってなにを止められるってんだ!」


うわごとの様に言葉を繰り返すわたしにランサーは再度叫ぶ。嗚呼、身体にうまく力が入らない。それでも、行かなくちゃ───。



「なあんだ、折角見つけたのにもうこんな弱っちゃってるなんて。がっかり」



闇を揺らすは、ローレライの美声。
陽炎の様にモザイクがかった景色のなかに、それは居た。


「───おまえは…」

「こんばんは、ランサー。そちらの女神は初めまして。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。こっちはバーサーカーよ」


月明かりが煌々と照らす、人気のない道の向こう。
巨大ななにかと白い少女は、まるで幻想のように佇んでいる。


「…普段は森に籠ってるくせに、今夜に限ってお散歩か?嬢ちゃん」

「そうね。今日はとても楽しいことが起こったから、思い切って外出してみたの。でも…結果は残念だった。だから落ち込んでいたのだけれど───」


少女は可憐に笑ってわたしを見る。その雪色の髪には、何処か見覚えがある。


「いいものを見つけたから良しとするわ」


瞬間、夜の世界が殺気立つ。
少女の隣にいる何かが目を光らせた。


「万全の状態じゃないのはがっかりだけど、その方が良かったのかもね。だって、」


それまで浮かべていた無垢な笑顔が、敵意に満ちた魔術師の顔に変わった。


「絶対神盾(アイギス)があったら、女神を簡単に殺せないじゃない」


闇が爆ぜた。
わたしを抱きかかえていたはずのランサーは、いつの間にか道の真中で巨大ななにかと刃を交えている。
冷たい地面に尻もちをつきながら、わたしは瞬きを繰り返す。


「やっちゃえ、バーサーカー!」


少女の声に呼応するように、それは吠えた。
地鳴りがしそうな叫びと共に巨人がランサーを吹き飛ばす。


「…っ、ら、ランサー…!」


喉から声がでない。
手を伸ばそうとしても身体は動かない。
外壁に叩きつけられた槍兵は、傷だらけになりながらも巨人に突進する。


「■■■■■───!」

「っぐあ!」


咆哮、炸裂、衝撃。
赤い槍は巨人の一振りに阻まれ、その身体まで届かない。


「に、げろ…」


血を流し、敵を睨みつけながら、青い背中がわたしに告げる。


「逃げろ、楪───!!」

「………ッ!」


その声に、身体が反応した。
咄嗟に立ち上がり、ふらつきながらも後ずさる。
(逃げなきゃ、死ぬ)
何処へ行く。教会へ逃げれば恐らくは手出しできない。来た道を戻れば…!


「駄目だよ、逃げちゃ」


耳元に響く声。
心臓を鷲掴みにされたような。


「貴女は此処で死ぬのよ、『勝利の女神』」

「あ、───」


振り返る間もなく、身体が宙を舞った。
夜空が一瞬だけ近くなる。


「っが…あ、は…!」


重力に従って落下した身体は、為す術なく地面に叩きつけられる。
衝撃と激痛が脳髄を焦がした。


「ぁ、う…ぁ……」


あまりの痛みに感覚さえなくしたこの生命。
見れば、腹部が見事に切り裂かれていた。
内蔵こそ出ていないものの、傷跡は深く、出血はとまらない。


「ご、ぼっ…、」


なにかを言おうとしたら、言葉より先に赤い液体が出て来た。
それをびちゃびちゃと吐き出しながら月を見上げる。


「楪!」


ランサーの声が聞こえる。
視界が万華鏡のように霞んでいく。


「魔力が回復しきってないから、盾の力も弱まってたのね。一発で死んじゃうなんてつまんないの」


不満そうな声は、あの少女のものだろうか。
もはや見えない世界のなかで、わたしは必死に息を吸い込む。
酸素は血の味がした。


「無駄よ。貴女は死ぬの。これで邪魔者は居なくなる」


ひかりのない闇のなか。
見えない何かに縋るように伸ばした手。


死ぬ。
だれが?
わたしが?


触れる、死の予感。
避けられぬ運命。


「ぁ───あ、ぁ…っ!」


いやだ。
こんなのは。
いやだ。
まだ、わたしは。
なにも果たしてはいない───!



(しにたくない)



体中のすべてを総動員して、わたしは叫ぶ。



(しにたくない)



託された祈りを、願いを。
わたしは果たさなければ。



(償いを)



再びまみえる地獄の光景。
散らばった屍は皆、わたしが見殺しにしたモノ。
手にした勝利のための犠牲。
それを掬いたくて、救いたくて、巣食われた。



───生きたいか?
───死にたいか?



消えそうな身体の中から、声が聞こえる。
男とも女ともつかない、ノイズのようなそれは。
尚も問いかける。



───ならば、望め。欲せ。
───ならば、恨め。殺せ。



嗚呼、なればこそ。
わたしはいま、叫ぼう。
しにたくないのではない。
まだ、生きていたい。
生きて、生きて、生き抜きたい───!



───さすれば、与えん。
───さすれば、奪わん。



溶けてしまいそうな闇のなかで、一筋の光がさす。
(あ、……)
もう感覚のない腕を懸命に伸ばす。
いまなら届く、いましかない。
揺れる、まわる、運命。
左手首にひかる証。
すべてを断ち切る我が剣を、いまこそ───。




───   楪  、
───   楪  、




泣いてしまいそうなほど、懐かしい声が。
わたしの名を 呼んだ。

























「な…っ……!」


驚愕の声は、誰のものであったか。
それすらもわからぬほど、その光は鮮烈だった。


「戯れはそこまでにして貰おうか、狂戦士」


闇から覚醒した意識。
再び世界を映した瞳に入って来たのは、見覚えのある背中。


「これ以上、我が主に対し攻撃を続けると云うのなら───俺も容赦はせんぞ」


空気が冬の朝のように張り詰める。
睨みあう、翡翠色と巨人。
冬の少女は驚愕に目を見開いたまま、後ずさる。


「うそ───うそ、だって、サーヴァントはもう…7人、揃って───!」


おかしい、おかしいよ。
そう呟きながら、少女は怯えたようにわたしを見ていた。


「貴女───何者なの…?」


生憎と、その質問に答えられるような体力は残っていない。いまは呼吸をするので精一杯だ。
浅く息を吸いこみ、少女を見返す。


「…っ、帰るわよ、バーサーカー!」


うおおおん、と叫ぶ巨体の肩に乗り、冬の少女は此処から立ち去った。
遺された静寂に、月明かりは未だ忌々しいほど輝いている。


「………」


なにが起こったのか、わからない。
わたしはいま、あの少女に殺されかけた。
理解できるのはそこまでだ。
わからないのは、それ以降───。


「…あ、」


いつの間にか、傷がふさがっていた。
痛みも消えかけている。
(あんなに、深かったのに)
まるで魔法のように、身体は正常を取り戻している。
立ち上がろうと地面に手をつく。自分で作った血溜まりが、ぱしゃんと音をたてた。


「楪」


名前を呼ばれた。
血の海に映る月光。
ゆるりと顔をあげる。


「───う、そ」


夜空に浮かぶ光より眩しいものが、そこにはあった。
跪くわたしを見下ろす翡翠色。
それこそ、わたしの一番守りたかったもの。


英霊───ディルムッド・オディナが こちらを見て微笑んでいた。

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