「………っ!」
息をのむ。 目の前に広がった血痕はまだ真新しい。 ディルムッドに連れられて来た新都の建設中ビルの屋上。そこにソラウさんが居る。そう彼は言っていた。しかし。
「ソラウ様…!」
居るはずのものがおらず、ないはずのものがある。 光のない屋上。赤黒い血痕。風が煩い。頭が痛い。
「………」
もしかしたら、怪我をしたまま何処に隠れているかもしれない。ディルムッドから降りて屋上内を探すが、姿は見つからない。まず人の気配がない。
「…ディルムッド…」
同じくソラウさんを探し、気配がないことを悟った英雄が立ち尽くしている。名前を呼ぶと彼は沈痛な面持ちでこちらを見た。
「…俺の所為だ」
「え…」
「ソラウ様の危機を察知出来なかった。此処に来るのがもっと早ければ───!」
ぎり、と歯をくいしばってディルムッドは壁に拳を打ち付けた。灰色のコンクリートにヒビが入る。
「…ソラウさんの気配とか、わからない?魔力供給はされてるんだよね?」
「確かに供給は続いている。故にソラウ様の命に別状はない。だが…俺とソラウ様は正規の主従関係ではないのだ。加えて、マスター権と魔力供給を分けて召喚された俺は、魔力供給のラインを辿る力が劣化している」
つまり探す方法がない、とディルムッドは低く呟いた。その瞳はソラウさんを守れなかった悔恨と自分の不甲斐なさに対する怒りに満ちている。
「打つ手なし…か」
床に散らばった華のような血はぬらぬらと光っている。この出血量なら死んでいてもおかしくない。なのにまだ魔力供給が続いているということは、ソラウさんを襲い連れ去った何者かは彼女を殺す気がないのだろう。つまり、何かに利用するために誘拐した。そう考えるのが妥当だ。 (彼女の利用価値……マスターを殺さない理由……) 普通はソラウさんを殺すだろう。そうすればランサーが消える。だが敵にはマスターである彼女を生かしてまで利用する理由がある。 (彼女の価値は、なんだ?) わからない。相手は一体、なにを考えている?
「…とりあえず、新都を探してみよう。まだ血痕は新しいから、敵もそんなに遠くまでは行けないはずだよ」
「楪……」
情けない顔で佇むディルムッドの手を握ってわたしは紡ぐ。
「しっかりして、ディルムッド。ソラウさんは生きてる。まだ間に合う」
「……っ、ああ…」
気を取り直したディルムッドが頷いてわたしを抱き上げる。逞しい首筋に手を回して身体を固定する。それを確認してからディルムッドは夜の新都に飛び込んだ。ビルの屋上から屋上へと乗り移り、闇に沈む無機質な街のなかを捜索する。表通りから暗い路地裏、ひしめく住宅街。夜風を頬に受けながら新都をぐるりと回った。しかし、その何処にもソラウさんらしき姿はなかった。
「………」
闇を睨み歯噛みするディルムッドの表情は険しい。人気のない住宅街の屋根づたいに見える景色に手掛かりはない。
「新都には居ないみたいだね……深山に行く?」
「………否、ケイネス殿の身が心配だ。一旦戻ろう。ソラウ様が襲われたとなれば、あのアジトも危険だろう」
「…そうだね」
ディルムッドの考えは正しい。このまま宛てもないままソラウさんを探したって時間を浪費するだけだ。しかもアジトにはケイネスさんがひとりで待機している。あちらに危険が迫らないとも言い切れない。
「……ディルムッド」
悔しそうな顔をしたまま俯く槍兵の頬に触れる。憂いを帯びた瞳は昏く沈んだまま。
「大丈夫。まだ間に合う。アジトに戻ったら、ケイネスさんに相談しよう。きっと良い案が見つかるはずだよ」
「……だが…ケイネス殿はきっと、激昂なさるであろう。自分の許嫁が、サーヴァントの不注意で攫われたとなれば尚更…」
「だからこそ、ケイネスさんに相談しなくちゃ。許嫁のことだもん、ケイネスさんだって何か策を立ててくれるよ」
「………」
自分のミスで信頼が更に失われるのが赦せないのか、無言になるディルムッド。気持ちはわからなくもない。信じていたいひとに突き放されたら、きっと心の痛みだけで死んでしまう。
「…わたしがついてる。だから、大丈夫」
そう言いながら、わたしをかかえたままのディルムッドの背中に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
「…っ、…楪…」
苦しそうに名前を呼ぶ英雄を優しく抱きしめながら、その大きな背中をとんとんと軽く叩く。
「わたしは貴方を突き放したりしない。裏切ったりしない」
「…っ……!」
「貴方の傍に居るよ、ディルムッド」
あやすように紡いで、その柔らかい髪を撫でた。途端、今度はわたしがぎゅっと抱きしめられる番になった。
「……っ、貴女は……俺を信じてくれるのか。こんな、俺を…」
「当たり前じゃん。だってディルムッドはわたしのヒーローだもん。信じるよ、なにがあっても」
心細いときも、恐怖に負けそうなときも、いつだって傍に居てくれた。 はぐれたわたしを心配してくれた。見つけてくれた。 この戦いに巻き込まれて初めて、守りたいと思った存在。 ただひとり、わたしを信じてくれたひと。 何処の英雄とか、そんなの関係なく。 ディルムッド・オディナはわたしのヒーローなのだ。
「……楪…!」
涙声が耳元で弾ける。わたしの背中に触れている手に力がこもる。 (泣き虫ディルムッドめ) くすりと微笑んで、わたしは左手首につけていた髪留めのゴムを外した。
「ディルムッド、これあげる」
「……?これは…」
「わたしのおばあちゃんが作ってくれた髪留め。お守りにして。ゴムだから手首につけられるでしょ?」
「ああ…」
少し身体を離してお守りを手渡す。綺麗な輝きを放つ手作りの髪留め。世界に3つしかないレア物だ。
「これはね、わたしがディルムッドを信じてるっていう証だよ」
右手首にゴムをはめたディルムッドがわたしを見る。にっこりと笑ったら、彼も泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう、楪。大切にする」
「うん。なくさないでね」
「勿論だ。…お返しと云っては、何だが…」
ディルムッドはおもむろにわたしの左手を取り、持ち上げる。そのまま左手は彼の唇と触れ合った。以前とは違う、慈愛に満ちた口付け。やわらかな感触に頬が熱くなる。
「このディルムッド・オディナ───生命ある限り貴女を守ると此処に誓おう」
「───っ!」
とろけそうなくらいの極上の笑顔で、ディルムッドはそう言った。 嬉しさと恥ずかしさで声が出ない。あ、とか、う、とか意味の為さない言葉を発するわたしを彼はもう一度抱き締める。
「貴女と出会えて良かった。楪が居るからこそ、俺は道を見失わないで進める」
「大袈裟だなあ。でも──うん。わたしも貴方と出会えて良かったよ、ディルムッド」
自分の意志で選んだ道は、間違いじゃないって。 貴方のおかげで思えるから。
なんだか嬉しくなって、猫みたいに彼の首筋に頬をすりよせたら、懐かしいお日様の匂いがした。
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