ご飯の炊ける匂いで目が覚めた。 薄く瞼を開いてみつめる天井は見慣れた色なのに、すこし違和感があった。寝ぼけたまま着替えて顔を洗い、台所へと向かう。昨日セットしておいた通りにご飯が炊けているのを確認して、納豆と卵を冷蔵庫から取り出す。茶碗にお米をよそって湯飲みにお茶を注ぐ。仏壇用の茶碗にもご飯をよそって供える。線香をあげて、朝ごはんの準備が整ったところでテレビをつけた。流れだす朝のニュースと無機質なアナウンサーの声。ブラウン管の向こうでは今日も真偽のわからないものばかりが跋滬している。
「…いただきます」
ひとりの朝食はさみしい。おばあちゃんが居なくなってからの寂寞は、聖杯戦争とやらに巻き込まれてから薄れていたのだけれど。
『昨夜、再び児童が行方不明になる事件が発生しました。これで今月に入ってから冬木市での児童失踪数は30を越え───』
「………!」
納豆を掻き混ぜていた手が止まる。画面には深刻そうなアナウンサーとテロップ。 (キャスターの仕業か…!) こんな物騒な事件が冬木で頻繁に起こるはずがない。これは確実に聖杯戦争の影響だ。そしてそれに関わる人物でそんなことをしでかすのは最早キャスターしか存在しない。
「……っ、…」
ぎち、と箸を握り締める。許せない。平然と既存の平穏を壊すキャスターが。関係のないひとを巻き込むなんて狂ってる。聖杯戦争なんていういかれた戦いは身内の間だけでやってればいいんだ。なのに──!!
「ああーもう!!」
朝一番の大声を出してからご飯をかきこんだ。口一杯のそれをもぐもぐ咀嚼して立ち上がる。
「よしっ」
余ったご飯を茶碗に移し、鰹節を入れる。そこに醤油を少し垂らして塩をつけた手のひらで握る。おにぎりを2つほど作って、それを鞄に詰めた。食器を洗ってから身だしなみを整え、家を出る。昨日は諦めてしまったが今日こそはあの廃工場に戻る。そう心に決めて。
「……だめだった……」
勇んで廃工場へ向かったは良いが、結果は昨日と同じ。何度行っても入り口へ戻ってしまった。わたしに結界を破る力はないらしい。ソラウさんめ…この借りは必ず返してやるからな…! (おにぎり、無駄になっちゃったな…) せっかくランサーのために作ったのになあ。うなだれながら賑わう新都を歩く。もうこうなったら海浜公園でおにぎり2つとも食べたろか。…そんなことをしても虚しいのは自分なんだけど。
「おーい」
ため息を吐きながら空を見上げたらむかつく位の快晴だった。ばかやろー。どうせならランサーと海浜公園でおにぎり食べたかった。
「おーい、女神!」
「はーい」
何だか呼ばれてる気がして適当に応える。そうしたら、いきなり視界に影が差した。…え、まさか夕立…?
「こんな処で会うとは奇遇だのう!昨日ぶりだな!元気にしておったか!」
「は……?」
降ってくる声に顔を上げたら、日本人には有り得ない程でかい男が居た。その顔には見覚えがある。これは、人間じゃない。
「せ…征服王…?」
「うむ、余は征服王イスカンダルで相違ない。…で、女神は此処で何をしておるのだ?」
「な、なにって…」
まさか、アジトを締め出されたので潜入を試みたが失敗しましたとも言えない。狼狽えながら無難な答えを探す。
「さ、散歩です…。征服王こそ、なにを…」
「余はな、これを買いに来たのだ!」
「………ゲーム…?」
ばーん、と目の前に突き出されたものを見つめる。それは紛れもなくテレビゲームだった。……征服王がゲームをするのか…?いやいやまさか…。
「そ、それ……貴方のマスターの趣味ですか?」
「まさか!これは余の趣味だ!」
「え……」
「余のマスターは堅物な坊主でのう。魔術に反するものはやらんと云うのだ」
征服王の嘆息。苦笑いしかできない。まさかサーヴァントがゲームをするなんて夢にも思わなかったので、なんというか……うん。びっくりしました。
「んん?お主、ランサーはどうした?」
「えっ、あ、……いまは、その…」
「なんだ、喧嘩でもしたか?若いなぁ。まあ、早めに仲直りをしておけ」
「はあ……」
的外れな見解に救われつつ頷く。そういえば、彼のマスターが見当たらない。いつもこの豪傑の後ろから顔を覗かせている印象があるのに。
「…征服王、貴方のマスターは居ないんですか?」
「余のマスターはほれ、あそこの店に居るのだ。今から迎えに行く」
「へぇ…」
征服王が指差した先は新都で一番大きい書店。わたしはあまり行ったことがない。
「さて、そろそろ行くとするか。女神も来るだろう?」
「え?」
「折角こんな街中で出会ったのだ。少しくらい遊んでも構うまい」
「あ、あの、ちょっ…!」
わははと笑いながら征服王はずんずんと進んでゆく。逆らったらどうなるかわからないからとりあえず着いていくことにした。アサシンの二の舞にはなりたくない。
「おお、居た居た。そうチビっこいと本棚の間にいたんじゃ全然見えんなぁ。捜すのに苦労したわい」
書店の洋書コーナーに、彼は居た。ハードカバーの本を熱心に立ち読みしている。征服王は遠慮もなにもせずに自分のマスターへと近付いていった。それに気付いたマスターは慌てて本を仕舞いながら応える。
「普通の人間は本棚より小さいんだ馬鹿。…で、なに買ってきたんだよ」
訝しげに大きな紙袋を見つめるマスター。征服王は自慢気に中身を見せる。
「ほれ!なんと『アドミラブル大戦略W』は本日発売であったのだ!初回限定盤だ!余のLUCはやっぱり伊達ではないな!」
豪快に笑いながら説明する征服王はとても楽しそうだ。しかしマスターは相対して顔を顰める。
「さぁ坊主、帰ったら早速対戦プレイだ!パッドも2つ買ってきたからな!」
「ボクはな、そういう下賤で低俗な遊戯には興味ないんだよ」
「あーもう、なんで貴様はそうやって好きこのんで自分の世界を狭めるかなぁ…ちったぁ楽しいことを探そうとは思わんのか?」
なぁ?と同意を求められた。うーん、なんと言えばいいのか。曖昧に苦笑い。
「煩いな!余計なことに興味を割くくらいなら、真理の探究に専念するのが魔術師ってもんだ!僕にはな、テレビゲームなんぞに消費していい脳細胞なんてこれっぽっちもないんだよ!」
「この通り、余のマスターは堅物でのう…」
「なんだよその言い方!てか、誰に言って───ッ…?!」
喚き散らしていた征服王のマスターが目を見開く。ようやくわたしの存在に気付いたらしい。ぎゃっと叫びながら征服王の背中に隠れる。し、失礼だなひとを幽霊みたいに!
「らっ、らららライダー!!な、なん…なんで、この娘が…!!」
「いや、なに。ついさっき、店の前で出会ったのでな。折角だから連れてきたのだ」
「なっ、なにしてんだよオマエ!!大体、こいつはランサーのとこのだろ?!」
「確かにランサーのところには居るかもしれんが、余の敵という訳ではあるまい?」
「そ、そんなわけ…!」
わなわなと震える彼を諫めながら征服王は微笑む。
「そうであろう?『勝利の女神』よ」
その言葉にわたしは頷く。ランサーの勝利を願っているからといって、彼らを敵と見なした訳じゃない。キャスターは別だけど、他のサーヴァントに対して敵意はない。
「そ、そんなの信じられるわけないだろ!もしかしたらスパイかもしれない!」
「スパイって……映画の見過ぎだよ、ライダーのマスター…」
「うるさい!僕はウェイバー・ベルベットっていう立派な魔術師なんだ!簡単に物事を信じると思ったら大間違いだぞ!」
「…んで、そういう貴様が興味を持ってたのはこの本か?」
スッと棚から赤い背表紙の本を取り出した征服王。ウェイバーと名乗った少年はそれを見て顔を真っ赤にする。
「ちちち違わい!っつぅか何で判った?!」
「これ一冊だけ逆さまに本棚に入ってりゃあ、誰だって気がつくわ。…っておい。『ALEXANDER THE GREAT』って、こりゃ余の伝記ではないか」
「……ッ…!!」
更に顔を赤くした少年は涙目になってゆく。征服王はそれを気にも留めずに言葉を続ける。
「おかしな奴だなぁ。そんな真偽もわからん記録なんぞアテにせんでも当の本人が目の前に居るんだから、直に何なりと訊けば良いではないか」
「ッ、ああ!訊いてやる!訊いてやるよ!」
半ば八つ当たりのように叫びながら少年は征服王の手から本を奪って突き付ける。本屋なのに賑やか極まりない。
「おまえ、歴史だとすっげぇチビだったってことになってるぞ。それがどうしてそんな馬鹿でかい図体で現界してるんだよ!」
「余が矮躯とな?そりゃまたどうして」
「見ろよこれ!おまえがペルシアの宮殿を陥としてダレイオス王の玉座に座ったときの記録!足が届かなくて踏み台の代わりにテーブルを用意したって書いてある!」
「ああ、ダレイオスか!そりゃ仕方ねぇわ。あの偉丈夫と比べられたんでは是非もない」
ウェイバー少年の疑問にからからと笑って答える王は愉しそうで。
「かの帝王はな、その器量のみならず体躯もまた壮大であった。まっこと強壮なるペルシアを統べるに相応しい逸者であったよ」
何か懐かしいものを思い出すように語る男を眺めて小柄なマスターは溜め息を漏らす。
「……納得いかない。なんだかすっごく納得いかない!」
「それを言ったら、アーサー王なんか女だぞ女。余の体躯の逸話なんぞよりよほどタチが悪いわい。…まあ要するに、だ。何処の誰とも知れん奴が書き留めた歴史なんてもんは、別段真に受けて有り難がるほどのもんでもないってことだな」
さらっと間違いを容認した征服王。あの金ぴか王様だったら激昂して本屋ごとぶち壊しそうなのに。懐広いんだなぁ。
「……どうでもいいっていうのかよ。自分の、歴史だってのに」
それを理解できないといった風にウェイバー少年は呟いた。
「ん?別に気にすることでもないが……変か?」
「変だろ!いつの時代だって、権力者ってのは自分の名前を後世に遺そうと思って躍起になるもんだろ。妙な誤解とかされてたら、怒るのが普通だろうが」
「そりゃまぁ、史実に名を刻むというのもある種の不死性ではあろうがなぁ。余に言わせりゃ何の益体もありゃせんわ。そんな風に本の中の名前ばっかり二千年も永らえるくらいなら、せめてその百分の一で良い。現身の寿命が欲しかったわい」
現代人の認識と、かの征服王の認識は違いすぎる。まず土俵が違うのだ。この戦いに巻き込まれてからというものの、様々な王様や英雄を見てきたが、みんなそうなのだ。考え方の土俵からして違う。いまを生きる我々からしたら到底理解できないフィールドに居る。 (だから、互いを理解をしないまま戦おうとすれば───簡単に瓦解する) 脆く儚い絆。ただそこに居るだけでは伝わらないこと。英霊も、人間も。違うからこそ、近付ける。
「あーあ。あと十年あったらなぁ。西方だって遠征できたんだけどなぁ」
「……いっそ聖杯に願うなら、ついでに不老不死も叶えたらどうだ?」
「不死かぁ。良いな、それ。死ななかったら宇宙の果てまで征服し放題だなぁ」
笑いながら遠くへ思いを馳せる征服王。まさか宇宙まで行くつもりだったとは。なんかもう色々と脱帽である。
「宇宙はあれですよ、戦車じゃ行けませんよ」
「わはは、わかっておるぞ。だからまず最初に、アメリカとかいうところにある宇宙研究施設を征服しようと思うておる!」
「成る程…」
適当な発言かと思えばちゃんと方法考えてるあたりすごいなぁと思う。
「……そういえば、一度掴んだ不老不死をあっさりと手放した馬鹿者もおったっけな。ふん、やっぱりあの野郎は気に喰わん」
感心していたら不意に不機嫌そうに呟く征服王。不老不死を手放した馬鹿者?一体誰のことなのだろうか。首を傾げるわたしに微笑んで彼は帰路を促す。そのまま流れに身を任せてついてきてしまった。いや、だって二人のアジトとわたしの自宅、同じ方向だったし…。いまからあの廃工場へ行ったって何の成果も得られないだろう。ああ、わたしは一体いつになれば戻れるのか。…それとも、もう二度と戻れないのか。
「そういえば、女神よ。お主、何故昨夜はあの金ぴかと一緒に居たのだ?まさかランサーと手を切ったのではあるまい?」
「…へ?あ、あぁ…」
無言に染まった夕暮れの帰り道で、征服王がそんな質問をしてきた。彼のマスターは依然難しい顔をしたまま黙って歩いている。
「その…実は昨夜から、ランサーのもとへ戻ってなくてですね…」
「なに?じゃあ何か、あの金ぴかに鞍替えしたのか」
「いや、あれはただの偶然です。夜にひとりで街を徘徊してたらあの金ぴか王様に捕まって…それで強引に」
「成る程なぁ。実にアーチャーらしい」
豪快に笑ってから征服王は真剣な顔になる。
「…で。ランサーとはどうした。あの伊達男を見捨てるとはこれまた勇気のある女神と見たが」
「み、見捨ててなんかいません!わたしだって出来ることならはやくランサーのとこに戻りたいんですよ……でも……」
「でも?」
「……アジトの周りに、何らかの結界が張ってあるみたいで…一度出たら、戻れなくなっちゃったんです。わたしは魔術師じゃないからそんなものの破り方知らないし…どうしたら良いかわからなくて…」
俯いて真実を零すわたしを見て征服王は数秒考え込んでから、彼のマスターを呼んだ。
「…おい、坊主。おまえさんなら人避けの結界とやらを易々と破れるだろう」
「…はあ?」
「この女神の話は聞いていたであろう?この娘は困っておる。何とかランサーのもとへ帰してやりたいのだ」
「断る。なんで僕がわざわざ敵地に、しかも関係ない奴のために乗り込んでそんなことしなくちゃいけないんだ。大体、結界を破ればアジトがばれるぞ。そうしたらランサーのマスターは逃げ場がなくなるだけだろうが。そんなの、ランサーにとっても迷惑なだけだ」
「…………」
確かに彼の言う通りだ。結界を破ればケイネスさん達が見つかってしまう。 (ならば、此処は) 諦めるしか、ないのか。 もう二度とランサーに会えないまま。 指をくわえて戦いを遠巻きに見ていることしか。
『いつか、おまえを必要とするひとが現れる。その時は、楪。おまえは選ばなきゃいけない』
昔、おばあちゃんに言われた言葉が蘇る。
『その力を解放して誰かを救うか、なにもせずに生きていくか。選ぶのはおまえだよ、楪』
そうだ。 わたしは選んだ。 わたしを必要としてくれるひとが居た。 だから、その人のためにこの力を使うと決めたんだ。 それをこんなところで、諦めてたまるか。
「…おい、坊主。なにもそこまで言うことはないんじゃ」
「貴方のマスターの言う通りです、征服王。結界を破ればアジトがばれる。わたしが戻っても迷惑になるだけだ」
「女神…」
「……でも、そんなの知ったこっちゃない。例えアジトがばれて他のマスターに襲われたって…ランサーは負けない。わたしが、勝利を願うから」
「………」
少し驚いたようにわたしを見つめて少年は後退った。征服王は愉快そうに「成る程!」と叫ぶ。
「ランサーが聞いたら喜ぶぞ、それ」
ばんばんとわたしの背中を叩きながら征服王は言う。ウェイバー少年はそんな自分のサーヴァントを見つめながら口をつぐんでいる。
「なぁにを黙り込んでおるのだ、貴様は」
そんなマスターに声をかける英霊の影法師が夜に紛れてゆく。いつの間にか夕焼けは闇に変わり始めていた。
「……別に。おまえのこと、詰まんない奴だなって思っただけだ」
「なんだ、やっぱり退屈しとるんじゃないか。だったら意地張らずにこのゲームを…」
「違う!」
突然叫びだす少年。その表情は苛立ちに彩られている。
「おまえみたいな、勝って当然のサーヴァントに聖杯を獲らせたって、僕には何の自慢にもならない!いっそアサシンとでも契約してた方がまだ遣り甲斐があったってもんだ!」
「そりゃ無茶だったんじゃないかのぅ。たぶん死んでるぞ、貴様」
「っ、良いんだよ!僕が僕の戦いで死ぬんなら文句ない!そう思って僕は聖杯戦争に加わったんだ!それが…何だよ!いつの間にやらおまえの方が主役じゃないか!いつだって僕が命令するより先に勝手なことばっかりしやがって!僕の立場はどうなる?一体なんのために僕はニッポンなんかに来たんだよ!!」
それはわかりやすい八つ当たりだった。彼は、ウェイバー少年は、きっと魔術師の名誉とやらのためにこの戦いに参加したのだろう。ケイネス先生と似たような目的。彼らの誇りは時に枷となり、言い訳となる。
「そんなこと言われてもなぁ……貴様が聖杯に託す願いが、余を魅せるほどの大望であったなら、この征服王とて貴様の差配に従うのも吝かではなかったが……如何せん、背丈を伸ばしたいってだけが悲願じゃなぁ」
「勝手に決めるなよ、それ!!」
何やら火に油を注いだようだ。征服王に食ってかかる少年。なんか…修羅場だ。
「なぁ坊主。そんなに焦らんでも良かろうて。なにもこの聖杯戦争が貴様にとって人生最大の見せ場ってわけじゃなかろう?」
「何を……!!」
征服王は穏やかな声でマスターに語り掛ける。
「いずれ貴様が真に尊いと誇れる生き様を見出したら、そのときには否が応にも自分のための戦いを挑まなければならなくなる。己の戦場を求めるのは、そうなってからでも遅くない」
それは征服王であるからこそ口にできる台詞だった。そういう場面に出くわしてきたからこそ、言えること。しかしあくまで卑屈気に彼のマスターは言葉を返す。
「…この契約に納得できないのは何も僕だけじゃないだろう。おまえだって不満だろうが!こんな僕がマスターだなんて。ほんとはもっと違うマスターと契約してれば、よっぽど簡単に勝てたんだろ!」
中々にヒステリックな少年だな、このウェイバーというマスターは。ケイネスさんの教え子っぽいし、もしかして彼の居た学校はそういう感じのひとが多いのかもしれない。ほら、ケイネスさんも割とヒステリックだし。
「まぁ確かに、貴様がもう少し良いガタイをしておれば、今よりは釣り合いが取れたかもなぁ」
冗談めかして笑う征服王を少年は睨み付ける。ため息をひとつ。征服王は何やら冊子を取り出した。なんだあれ。……地図帳?
「ほれ坊主、見てみよ。余が立ち向かっている敵の姿を」
見開きページの世界地図。それ自体が征服王の敵、らしい。
「此処に描かれた敵の隣に、我らの姿を描き込んでみよ。余と貴様と、比べられるように」
「…そんなのは、」
「女神はどうだ?」
「え……いや、小さ過ぎて…」
「無理であろう?どんな細筆でも無理だ。針の先ですらなお太い。描きようもないんだよ。これより立ち向かう敵を前にしては、貴様も余も同じ。極小の点でしかない」
つまり、釣り合い等というものは無意味だと。その強大な威厳を以て王は言った。
「この肉体は、征すべき敵に比べれば芥子粒よりなお小さい。貴様も余も揃って同じこと。至弱にして極小、これ以上ちっぽけになりようもないほどに小さいのだ。そんな二人の背比べなんぞに何の意味がある?」
「………」
「だからこそ、余はたぎる!至弱、極小、大いに結構!この芥子粒に劣る身を以て、いつか世界を凌駕せんと大望を懐く。この胸の高鳴り、これこそが征服王たる心臓の鼓動よ」
誇らしげにそう言い放った征服王はあまりにも大きかった。図体だけの話ではない。器が、懐が、そのすべてが。わたしの知っている世界にはない大きさを持っていた。
「……要するに、マスターなんてどうでもいいって言いたいんだな。僕がどんなに弱かろうと、そもそもおまえにとっては問題にもならないんだな」
「何でそうなるんだ、おい」
仕方なさそうに苦笑して征服王はマスターの背中を叩く。
「坊主。貴様のそういう卑屈さこそが、即ち覇道の兆しなのだぞ?貴様はしのごの言いつつも、結局は己の小ささを判っとる。それを知った上でなお、分を弁えぬ高みを目指そうと足掻いている。まぁ色々と心得違いもあるにせよ、覇の芽は確かにその胸に根付いておるのだ」
「…それ、褒めてないぞ。馬鹿にしてるぞ」
「そうとも。坊主、貴様は筋金入りの馬鹿だ。己の領分に収まる程度の夢しか懐かないような、そんな賢しいマスターと契約していれば、余はさぞかし窮屈な思いをしておっただろう。だが貴様の欲望は己の埒外を向いている。『彼方にこそ栄え在り(ト・フィロティモ)』といってな。余の生きた世界では、それが人生の基本則だったのだ。 …だからな、坊主。馬鹿な貴様との契約が、まっこと余には快いぞ」
邪気のない笑顔でそんなことを言う征服王。マスターは照れ臭そうに頬を掻いている。何だかんだ、この二人は相性が良いのだろう。そうして、自然と微笑んでいる自分に気付いた。
「……なぁ」
顔をあげる。初めて、ライダーのマスターの方から声をかけられた。
「…さっきはその、色々きついこと言ってごめん」
「え、あ…いや、別に。実際、その通りだったし…」
「……本当に、アジトが見つかっても良いんなら…結界、破ってやっても良いけど…」
「え…」
気まずそうにそう紡ぐウェイバー少年。征服王は満面の笑みだ。
「い、いいの?」
「あぁ。ただ、ケイネス先生には僕がやったって言うなよ、絶対に」
「う、うん!ありがとう、ウェイバー!」
思わず手を握って礼を言う。そんなわたしの態度にたじろぐ少年。
「いきなり呼び捨てかよ!」
「あ、ごめん」
「…別に良いけど。あんた、名前は?まさか女神って本名じゃないよな?」
「わたしの名前は弦切楪。楪で良いよ、ウェイバー」
「………じゃあ、楪。早速その結界がある場所に案内してくれよ」
「───ッ、あ…?!」
ぞくり。 悪寒。 胸から競りあがる不快感。 きもちわるい。
「…楪?どうし───ッ?!」
ウェイバーもそれを感じたのか言葉を詰まらせて反応する。見れば、征服王が険しい顔で先にある大橋を睨んでいた。
「……河、だな」
「有り得ない魔力量だぞこれ…一体、なにが…」
この感じは、前にも体感したことがある。 言葉にならないきもちわるさ。 これは、キャスターの気配だ。
「……キャスターが、なにかをしようとしてる」
「……ふむ。坊主、もちろん向かうであろう?」
「ッ、ああ…!」
人気のない道端で征服王は戦闘服に姿を変えて剣を振り上げる。雷鳴と共に戦車が到着した。彼らはそれに迷わず乗り込む。 (…わたし、は) どうすれば良い。ひとりで向かっても返り討ちにあって終わりだろう。ランサーを探すか。しかしそんな時間はない。
「『勝利の女神』よ。貴様はどうする?」
立ち尽くすわたしに、征服王は問い掛ける。
「…わたし…」
「そこに遺るか、共に行くか。選ぶのは貴様だ」
「───!!」
選ぶのは、わたし。 (そうだ。わたしは) 誓ったじゃないか。あの笑顔のために力を使うと。 (こんなところには居られない) 行かなければ。たとえひとりになっても、わたしは。
「…行きます。どうか、わたしを戦場へお連れください、征服王」
「うむ、了解した。ならば乗り込むが良い、我が『神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)』へ!」
伸ばされた手を取り、身を滑らせる。王の戦車は迷いなく戦場へ向けて走りだした。
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